山村2
納得はいかない。この知識の塊のような俺に向けて『知らなくていい』などとどうして言えるのだろうか。
「――ったく。」
ゴリゴリと俺は乱暴に頭を掻いていた。なぜか負けた気分で苛立たしい。悔しくて、忌々しげに呟きながら俺が丘を下っていると、一人の少年が息を切らし気味に駆け上がってくる。何となく急いでいるように見えた。
「あ、風雅様」
凛と同じ歳の少年で名を『張 劉裕』。父は村の長だ。
農村だと言うのにいかにも体力仕事が向かなさそうな細身の少年は軽く俺に頭を下げた。
「劉裕。俺に何か用か?」
「――あ。いえ。凛に」
彼に促されるようにして目線を向けた丘の上。目を向けると凛が丘の上で何かぼんやり考えごとをしていた。どこか心地よい風に黒い髪がふわりと浮く。こうして見ているとどこか知らない女性に見えてくるから不思議だった。
「凛?」
俺は訝しげに眉を跳ねた。この少年と仲は好かっただろうか。記憶にない。確か妹の美友とはよかったはずだが。思い出せなくて俺は劉裕を見た。
彼は窺うようにして俺を見つめている。
「――あの」
「なんだ?」
威圧しているつもりはないのだが。よく威圧しているように見えるから物言いを変えろと言われている。だが変えられないものは仕方ない。
少年が些か怯えたように肩を揺らした。
「風雅様と凛って――その。別に付き合っているわけじゃないですよね?」
「……は?」
言葉の真意がよく飲み込めない。不快感をあらわにして俺は劉裕を見つめた。明らかに彼は失言をしたと言う顔を浮かべ目線を俺と合わせないように泳がせている。
「――凛は俺の弟子だが?それ以外に何があるんだ?――というか、何が言いたい?」
低く言う声に劉裕は少し身体を強張らせた。
大体『関係』を疑われる事ほど不快なことはない。まるで俺が歳の離れた子供を囲っている変質者のようだからだ。あまりにも間違われることがなぜか多かったため、世間の誤解を解こうと凛が俺に対する態度を変えたぐらいだ。名前から『先生』に話し方も敬語に変わってしまった。一抹の淋しささえ覚える。
「ええと。――いや、あのっ」
俺が一瞥すると劉裕は口許を一度軽く結んで何かを考えるように視線を反らした。ごくりと喉を鳴らす。その後で覚悟を決めたように大きく息を吸った。
まっすぐに向けられた視線はもう別人と言っても過言ではないほど意志が強い。
「――なんだ?」
一拍。彼は意を決したように口を開いた。
「凛を――俺にください」
微かに上ずっているもののしっかりとした声が空気に乗り俺の耳に響いた。
一瞬何を言われているのか分からなかった。重苦しい沈黙と静寂。俺は息をすることさえ忘れて劉裕を見つめていた。
「風雅様?」
まさか先ほどまで考えていたことが石を転がるような勢いでやって来るとは思っても見なかった。ぐらりと視界が揺らぐ。そんな気がしたが俺は顔色も変えるそぶりも見せずに劉裕に目を向けた。
「……やるも何も。凛は俺の物ではないし、お前の物でもない。すべては凛次第じゃないか?――俺はお前であれば断る理由なんてないと思っている」
そう。断る理由なんてどこにもないのだ。この村は豊かで人々も優しい。そしてこの少年も誠実で好感が持てる。もう売り飛ばされることもつらい目に合う事も無いだろう。どんなにこの村で落ち着けたらば良いだろうと思っていた所だった。
俺はあの子が幸せであれればいい。
そう思っているはずであるのに何故だろうか。この心にできた波紋は。ざわざわと波打って消えない。なんだか最低の気分だった。
世間一般の父親も娘のことになるとこんな時はこんな気分なのだろうか。と思わず考えずにはいられない。
「本当ですか?」
俺はにこりと微笑んだ。俺の張り付いた笑顔に有頂天の彼は気付くことなどないだろう。
「ああ。この村はいいところだし」
よほど俺に認められた――それ以前の問題なので認めた覚えはないが――ことが嬉しかったのだろうか。劉裕は冷たい手で俺の手を強く握り軽く振った。細くても鍬を握っている大きな骨ばった手だった。
背中が粟立つ感覚と共に、振り払いたい――そんな気分をぐっと彼が放すまで抑える。
「ありがとうございます!」
凛の許にまっすぐ掛けていく少年を見送りながら俺は落ち着かせるようにして生きを吐き出した。なんだかとても疲れた気がする。
たとえ今回凛が断ったとしてこの先何度も、何度もこんなことがあるだろう。その度に俺はこんな思いをするのだろうか。何度も何かと戦わなければならないのだろうか、
「時間止まってくれねぇかな」




