独白:小さな手のひら
――――昔のことが唐突に思い出せた。
「……親父、帰ってこなかったな」
沙紀にも話していなかった、暗い思い出。
まだ、母がいたころの記憶。
母――――エリザベス・オズワルド。
確か、そんな名前の、女。
もう会う事もないであろう、女の名前。
「リビングぐちゃぐちゃ……何があったんだろう?」
「さぁな……喧嘩でもしたんだろう」
「だ、大丈夫かな?」
「血が飛び散ってないから大丈夫だろ。多分」
母は、異常な女だった。
俺にいつも怪我をさせていた。
――――奏夜。奏夜。これであなたは最高の魔術師に……!
母のうめき声を、俺の叫び声でかき消していた。
にもかかわらず、母は細い包丁で腕に傷をつけて、殊更に喜んでいた。何か熱いもので背中を焼けば歓喜していた。
その度に痛みが頭を貫いた。
その痛みが、身体を疼かせた。
痛いと。
悲しいと。
殺せと――――
「エリィちゃんも……どこ行ったんだろう」
「アレはいい。元々家にいないはずの生き物だからな……」
「挨拶だけでもしたかったんだけど……」
「――――それだけは、俺が絶対にさせねぇ……」
「?」
どうしてこんな事を思い出したのか。
記憶の霧の中に沈んで、もう思い出さなくても済むと思っていたのに。
あの人は、今は何をしているのだろうか。
「ったく、何しに来たんだか……」
「おじさん、携帯持ってる?」
「うんにゃ」
「じゃあ、仕事場に電話する?」
「どこかで死んでるだろ。好きにさせればいいさ」
――――虐待ではなかった。
なぜなら、警察は来なかったから。
誰も助けないという事は、これは正しい事なのだろうから。
社会として、人として。
だけど、俺は――――死にたくなかった。
助けてほしかった。
そんな俺の手を握りしめた、沙紀がいた。
――――奏夜くんッ。とにかく私のうちに来てッ、こっちは大丈夫だから。
――――やだ……やだ!
――――私が……私が奏夜くんを護るから!
あの日も彼女は顔を真っ赤にして息まいていた。
泣いて蹲る俺を、救ってくれた―――――
「えっと、その前に……いきたい所があるの」
「ん」
「駅前のデパート……今日ね、新しい映画が上映されるってチラシがあってねッ」
「夏休みは後二週間だぞ?」
「でも、息抜きは重要だよッ」
――――沙紀が息まいて俺を見つめる。
少し訴えかけるような潤んだ瞳。
そして膨らんだ胸元を抑える小さな手。
彼女は背が低くて、いつも少しつま先立ちで背伸びをして、俺の傍で俺を見上げていた。
いつもそうだった―――――
「……いい?」
「……。沙紀には逆らえないさ」
「やったぁッ」
「じゃあ、行くか……」
「うんッ」
手を握れば、沙紀の手が汗ばんだ。
今日の日差しは特に強かった。