外典:夜に咲く火花と獣の遠吠え
スッと民家の屋根に吸いつく爪先。
「……よっと」
バサリ……
はためく黒いローブ。
グッと拳を固め低く呻く声。
夜の下、エリスは夜風に髪を靡かせつつ、立ちつくしたまま、少し哀しげに顔をしかめた。
「よかった……こっちじゃ仲が良くて」
その蒼い目に映るのは、隣の家の倉山沙紀の家。
向かいの家から窓に映る二人の寝顔。
その密着した姿に、エリスは力なく項垂れると、胸を抑えてその華奢な身体を打ち震わせる。
「……奏夜」
――――お嬢、よろしのですか?」
「……今は、魂を休ませないと……せっかく目を覚ましたのに、これじゃ請われちゃうから」
――――はい……。
「でも、胸が痛い……」
ギュッと掻き毟れば、痛みが胸に走る。
涙が浮かぶ――――
「奏夜……私ね……」
「――――久しいな、エリス・オズワルド」
「……そう。生きてたんだ」
スゥと細める蒼い瞳。
胸にあてた手を下ろし、栗色の髪を翻し、エリスが振り返ればそこには屋根の上に立つもう一つの人影があった。
「存外手間取った……多次元を渡るには、何度も深淵に沈まんといかんしな」
襟元を引っ張れば風に靡く長いネクタイ。
白髪混じりの髪を掻き上げ、恰幅のいい身体で風を切りながら、そこには初老の男がエリスの前に立っていた。
「……帰っていたのか。マスターが驚いていたぞ」
「お姉ちゃん。傍にいないってことは本部に帰ってるの?」
「さぁな。素知らぬ話だ」
老眼鏡をビジネススーツの胸元に収めつつ、鋭い眼光が少女を捉える。
その目には、絡みつくような殺意が滲む。
少女はフンッと鼻を鳴らすと不満げに口を尖らせつつ、黒いローブを靡かせると、腰の後ろに手を回した。
「アンタさぁ……どうしてお兄ちゃんの魔術を封印したの?」
「マスターに聞いてみろ」
「ダレる物言いだからさ……サクッと答えてよ」
そう言って腰の後ろから取り出したのは、小さなメモ帳。
十三歳の少女の手に収まるほど小さな手帳を前に、初老の男は手首を摩りつつつまらなさそうに眼を背けた。
「ふん……魔術書のコピーか」
「五百円使ってコンビニでガーガーって刷ってきた。うるさいよねコンビニの印刷機って」
「うちの会社のを使えばタダだ」
「職権乱用じゃんそれ」
「私は部長だからな」
「うだつの上がらない部長さんね……」
「そんな粗悪品を使っても、魔獣一匹とて召喚できんぞ?」
「そりゃそうでしょ。正直コピーの写りが悪いから私でも何書いてあるか、全然把握できないもん」
ボッ……
火の粉を散らし、夜をかき消す小さな明かりが手の中で灯る。
そうして、ニッコリと微笑み少女はその手のメモ帳を燃やしつつ、眉をひそめる初老の男ににじり寄った。
「でも情報量は殆ど変わらない。だって書いてあることは一緒だもん」
「便利な世の中だ」
「断片的な回路の繋がりが悪くて詠唱できなくても、膨大なデータの断片が封入されている。この情報の前には、『世界』だって壊す事が出来る」
「論理爆弾か」
「それは『呪い』に変わり、魂を崩壊させる」
「気色の悪い……」
「あんたの脳味噌に直接打ち込んでもいいけど……欲しい?」
「いらないな」
「答えて……お兄ちゃんをどうしたいの?」
「このまま平和に暮らせるならそれも良い」
「自分の道具にする気?」
「それも良かろうて」
「道具の分際でペラペラと口だけを動かす。日和見主義もここまでくれば害悪ね。語る言葉もないわ」
「悪いね」
―――暗闇に翳す皺だらけの手の平。
バサリ……
背中を叩く風を受けスーツが靡き、初老の男は険しい表情と共に手の向こうに炎を手に立つ少女を捉えた。
その手の平が、細めた少女の蒼い瞳に映る――――
「……深淵。お兄ちゃんの力」
「中々手に馴染まんでな。吸収するのに苦労したぞ」
「その力を返しなさい……」
「いつまで『お兄ちゃん』と呼べるか楽しみだ……!」
「むかつく……」
「深き闇の澱みよ……トラスティオ・テトラ・グラマトン」
――――開く『深淵』
キィイインッ
空気の切り裂く音と共に浮かび上がるは、黒く小さな球体。
その黒き球体は開いた手の中で歪に拍動し、ソレと共に初老の男の身体が蒼く輝きを放つ。
肌に浮かぶ文様が禍々しく刻まれ、少女の目に映る。
ニィと八重歯を覗かせ口の端が歪む。
炎を持たないもう片方の手を虚空にかざして、エリスは月明かりの夜風に囁く。
「フィフテの神獣よ……!」
「マスターの意には反するが、今一度、お前を『深淵』の澱みに送り返してやろう……」
「やってみなさいよ、私の『闇』は少し怖いわよ」
――――激しい轟音。
ドォオンッ
民家の屋根が激しく割れ、土埃が立ち上る。
そして晴れた土煙が黒い球体へと吸い込まれていき、月明かりを体に浴び、少女の傍に何かが現れる。
それは黒き翼を広げ、両腕に矛槍を構えた化生の存在。
ヌルリと大きな口腔を開き、その暗き『闇』は、主と対峙する初老の男を五つの瞳で睨む。
――――出来そこないの人形め……。
グルルルルルゥ
閑静な住宅街に響く唸り声。
爪で屋根を削り、黒き『悪魔』は身体を低く構え、今にも飛び出そうとする。
そして少女は、宵風に長い髪を靡かせ、優しく微笑む。
「正直、あなたに用はないの……」
「舐めるなよ……」
「死にたくなかったら、お姉ちゃんを出して」
「……出してほしかったらやることがあるだろうが。とりあえずしゃぶれよ」
「……。今の私は気が短いの」
「ちょうどいい。早く終わらせたいんだ。ゴードン・オズワルド、いくぞ」
「――――殺してやる」
火の粉が尾を引く。
そしてエリスの手から呪いの炎が離れ、弧を描いて初老の男へと投げつけられる。
「異界の呪いよ、万物を穢せ……」
「いくぞ……!」
夜空に投げつけるネクタイ。
スーツを靡かせ、男は黒き球体を片手に飛び出し、爆ぜる炎をかいくぐり黒き巨獣へと飛び出す。
――――消えされ!
「化け物が……全て滅殺してくれるッ」
そして手に持った黒き球体を突き出す。
その見開いた片目に、槍を振り上げる黒き『悪魔』を捉える―――