夜明けの指輪・繋がりの印
意識が醒めると、眼の前には男が一人、気だるげな表情でこちらの顔を覗き込んでいた。
「……よぉ。起きたか?」
「――――てめぇかよ」
「見とけって言われたんだよ。俺のご主人にな」
うんざりとした表情で頬杖をつき胡坐をかくホムンクルス・ゴードンを横目に、奏夜は身体を起こした。
そこは校舎の屋上。
眩さに目を細めれば、そこには昇る朝日が、ビルの合間から見えた。
街の夜明けに景色が色づき、夜が西の方角へと遠のいていく。
「……マリアは?」
「お前から奪ったものを返しておけ、とのことだ。うちのご主人、よほどお前にボコボコにされて懲りたようだな。
まぁ、女を調教するには尻を叩くのが一番だしな」
そう言って欠伸交じりに立ちあがる初老の男を前に、奏夜は顔を背けるとヨロヨロと床に手をついた。
「下衆が……」
「好きに言えよ。手札を全捨てした以上、お前に何されても文句ないからな」
「……」
「ともあれ俺の負けだ。マスター・マリアが白旗上げたんだからな」
「……俺の記憶を返せ」
「いや」
ニィと笑って朝日を前にゴードンは襟元のネクタイに手を掛けると、ムスッと奏夜を横目に呻いた。
「マスターの指示だ。一気に戻すと、魂が壊れてしまうかもしれないからな、少しずつ返せとのことだ」
「……さっきの夢は」
「いい夢だったろう? ああやって少しずつ魔力も記憶も全部返してやるから安心しろ」
「……」
「まぁ、それまで俺はお前の『父親』ってことになるんだろうな」
「最悪だ……」
「許せよ息子」
手すりに手を掛け可笑しそうに肩を震わせるゴードンに、奏夜は手持無沙汰に髪を掻きあげた。
「あいつらは?」
「探してきたらどうだ? 俺朝飯作りに帰るわ」
「……」
「家族が増えたからな。全く食費が増えて仕方がない」
そう言って、朝日の向こうに溶けていくゴードンを横目に、奏夜は朝風を背に受け踵を返した。
朝焼けが広がっていた。
ビルの立ち並ぶ地平の向こうから、覆い被さるように光が夜を飲み込んでいく。
色づく街の景色。
空が紅く染まっていく。
雲が茜に染まり、西の空へと流れていく。
風が気持ちいい。
朝が身体を叩く。
夜明けに、奏夜は目を細めて、息を静かに吸い込む―――――
「……沙紀」
「呼んだか?」
――――クスクスと笑う甲高い声。
懐かしさに胸がつぶれそうだった。
悔しさと、熱っぽさに、奏夜は朝焼けを浴びながら、恐る恐る後ろを振り返る。
そして目を細める――――
「……」
「―――久しいな、我が主よ」
「な……」
「いや……さっき会ったばかりか。時の流れはわからぬものだ」
トンと床を叩く小さな足音。
結った銀の髪を靡かせ、褐色の肌に朝日を受け、目の前に少女が一人立っていた。
ニコリと微笑んで、紅き獣は紅い瞳を細めた。
「どうした? 墓の前に立つ未亡人のような面構えだ」
「……沙紀」
「皆は元気だ。……マリアは今、エリスに説教を受けているがな」
「……」
「まったく―――そんな悲しい顔をするな。我はこれでもお前に会えて心が震えているのだぞ」
しょんぼりと肩をすぼめる奏夜に、褐色肌の少女は戸惑いがちに微笑んで、その小さな手を伸ばした。
ギュッと手の甲に食い込む指。
強く握るままに、少女はその節くれだった奏夜の手を覗き込み、軽く唇を重ねた。
「……。強い手だ。この手で、一体何人の我を救った事か」
「……覚えがないんだ」
「我は覚えている。我はずっと見てきた」
「……」
「何度も何度も失敗し、或いは自分を犠牲にして、深淵に沈む事もあった。それでもめげることなく、何度もお前はこの世界に戻り、我を助けてきた」
「……見苦しかったろう」
「ああ」
「……」
「だから助けたかった。我がお前の背中を支えたかった」
「……沙紀」
「いつも――――君が私を支えてくれたように……」
微笑んで、少女はそっと両手から手を離した。
そして、朝焼けに目を細め、照れくさそうに頬を赤らめると、少女はその手をソッと俯く奏夜に開いた。
その手の平は僅かに浅黒かった。
その薬指には、銀色の環が朝焼けを照り返していた――――
「あ……」
「綺麗だろう?」
――――優しく少女は微笑む。
フワリ……
靡くワンピースのスカート。
朝焼けの風が長い銀色の髪を靡かせる。
昇る夜明けに、少女は指輪のはまった手を胸元に添えて、愛おしげに首をすぼめて眼を静かに閉じる。
祈るように囁く。
「……なぁ。覚えてるか?」
――――奏夜は頷いた。
「『あの日』、俺が渡した、小さな指輪、か……」
「ふふっ……これはな小さな魔力が籠ってる」
「……俺の、力」
「そう。願いだ。世界すら破壊した、誰よりも小さな願い」
「……」
「ずっと一緒にいたい……手を繋いで、夜明けを見つめて、どこまでも、永遠に、時間の向こう側までと、願って願って……。
そして、我はお前の傍にいることができる」
僅かに銀の指輪が朝焼けを受けて震える。
その度に身体に刻まれた魔術式が模様となって身体に浮かび、僅かに明滅し、奏夜を呼ぶ。
心が震える。
誰かが遠くから詠んでいる――――
「その指輪で……」
「ああ。この指輪は、お前の魂と繋がっている……私の魂と繋がって、私を縛りつける」
「沙紀……」
「だからずっと追いかけた……この指輪が、お前の場所を、お前の鼓動を、息遣いを教えてくれる……。
お前が私に傍にいてくれと命じた……。
我は……お前の命令に従う……ずっと、ずっと傍にいて、お前を護る」
「……」
「愛している……ずっと傍にいよう。永遠に、我がお前を守り抜こう。獣の名の下に我が主よ」
「……戻れないのか?」
――――少女は顔を上げると、照れくさそうに微笑んだ。
「戻らない」
夜明けの光が、力強く告げる少女の頬を赤らめた。
「今度は、私が貴方を護るから。きみをずっと護り続けるから」
「……沙紀」
「それが、私の願い。君に願う、私の願い」
「……俺」
「うん……」
「――――お前を、護れなかった」
フワリ……
優しく首を振る仕草に、長い銀髪が朝焼けに揺れて煌めく。
「大丈夫……だって、死んでも私は君と一緒にいられた」
「……」
「それだけでいい。それだけで、私は幸せ」
「……沙紀。ごめん……本当に」
「奏夜。あなたは次の『私』を助けてあげて。私は、そんな君を誰よりも強く護り、助けるから」
「沙紀……」
「うん」
「ありがとう……」
「うんッ」
頬を赤らめ俯きがちにそう頷くと、褐色肌の少女はソッと奏夜から手を離し一歩後ずさった。
「さぁ、行って来い浮気者。今の『私』がお前を待っている」
「……ああ」
そう言って歩きだす奏夜の背中を、少女は朝日を背に少し寂しげに見つめて眼を細める。
ギュッとワンピースの胸元に手を添え、苦しげに掻き毟る――――
「奏夜……」
唇から零れると息は熱っぽく、俯いては胸に重ねた手に唇を重ねる。
懐かしい匂いがした。
かつての少年の汗ばんだ匂いがまだ手に残っていた。
それだけで、少女の胸は高鳴って苦しくて、鼻を啜りあげて少女は小さく首を振って見せた。
「……ずっと、君の背中を……どこまでも。我が愛しき主、我が愛しき夫よ」
朝焼けが少女の背中を押した。
長い影が伸びて、歩きだす奏夜の背中へと伸びた。
夜明けが広がる。
そして世界が色づいていく――――
もう少しで終わりです。まぁここまで来たら最後までお付き合いください




