夜明けの地平に願いを込めて<2017年8月26日>
闇が眼の前に広がった。
僕の意識は暗い底にあった。
何もなかった。
ただ、眠りだけが広がった。
このまま死ぬのか。
消えていくのか、僕は……僕は……。
――――奏夜、さぁ、起きなさい。
誰かは、わからなかった。
闇の中に聞こえるそれは、母親のような、懐かしい友達のような少し低くて優しくて、暖かい声。
――――そうだ……お前は、ずっと我と共に。
闇の中に、誰かが手を伸ばす。
光の向こうへと僕を引き上げていく。
瞼に、朝焼けが差し込む――――
「……奏夜、奏夜ぁ!」
――――聞こえてくるのは、悲痛な声。
眼を開けると、そこには沙紀が泣きそうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。
ポタポタと涙が零れて僕の顔に当たった。
暖かい。
彼女は、目の前で生きているんだ。
「……沙紀。生きてる?」
「バカぁ! こっちが聞きたいのよッ。奏夜、急に倒れて……」
「……」
――――記憶があやふやだった。
確か、大きなお兄さんが靄の奥からあられて、光って、それから沙紀が起き上がって。
その後、逃げるように教室から出て――――
「……ここは?」
「屋上……奏夜がここまで連れてきてくれたんだよ?」
「そうなの……?」
「そうだよ……! なのに、急にここにきて倒れるんだからッ」
起き上がるままに、周囲を見渡す僕に、彼女は眼を擦りながらすすり泣きつつそう言ってくれた。
振り返れば、そこには屋上の入り口。
何か大きな力でドアが破れて床に転がり、ドアの奥には、未だに黒い靄が渦巻いていた。
だけど、こちらには入ってこない。
なぜ―――――
「あ……」
ふと足元を見下ろせば、そこには長い影。
振り返れば、街のビルの向こうから朝日が昇って光が覆い被さるように、街に押し寄せてきていた。
茜色に色づく空。
景色が熱と色を帯びて、朝が街全体に広がっていく。
夜明けがやってきていた――――
「……」
もうしばらくすれば、靄は消えるだろう。
そんな予感がして、僕は立ち上がると、フェンスに覆われた屋上から朝日を見つめた。
「――――終わったね」
「え?」
駆けよる沙紀を横目に、僕は少し照れくさそうに笑みを滲ませると、彼女の手を取った。
そして強く握る――――
「肝試し……終わったね」
「ん……怖かった。凄く」
「……だね。ぼくも怖かった」
言葉が互いにとぎれとぎれだった。
昇る朝日が滲んだ。
声が、少し震えた。
「僕……やっぱり怖いや」
「何が?」
「……沙紀がいなくなるの」
「――――私も、奏夜がいなくなるの、凄く怖い……」
「ん……」
「ずっと一緒にいたい……離れたくない」
「このまま、遠くに行けたらね……」
「うん……うんッ」
「……」
今日は8月26日。
もうすぐ、僕はこの街から去らないといけない。
それで、彼女と離れ離れになる。
いやだなぁ。
いやだ。
「……沙紀」
「ぐすっ……何?」
――――だから、ずっと一緒にいよう。
「結婚しよう」
「え?」
ポカンとする沙紀の顔を覗き込み、僕は少し照れくささに顔をしかめてそう言った。
ギュッと握る手に汗が滲む。
でも、離したくない―――――
「……ダメ?」
「で、でも……奏夜と私……小学生だし……その……」
「じゃあ、僕のファミリーネームだけでも貰って」
「で、でででもッ」
沙紀は顔を真っ赤にして戸惑ったように、声を震わせて何度も首を振る。
「結婚なんてまだ早いよッ。私達小学生だよッ!」
「そんなことないよぉ。ただ沙紀の家でずっと一緒に暮らすってだけじゃんッ」
「そ、それは……」
「一緒にいたいから。僕は沙紀の所に住むッ」
「でもでもっ、奏夜すっごい格好いいし、ハーフだし、私なんかより可愛い女の子一杯見つかるし。
向こうに行った方が奏夜、綺麗なお嫁さん見つかるだろうし、ダメだよッ」
「僕は沙紀といたい。だったら沙紀の家に住んだ方がいいよね?」
「ぜ、全然人の話聞いてない」
「だめ?」
「だ、だ……だっ」
――――願いは、想いに詰め込んで形になる。
願うだけじゃだめだと思うから。
行動しよう。
多分、それは僕らが魔術師でなくてもできる、最高の行い。
「わ、わわわ私ね、私もぉ!」
「沙紀」
「……ふぇ?」
「手を出して」
「う、うん……」
「ちゃんと握って」
「う、うん……」
――――今は叶わないかもしれない。
でも、未来では、そうじゃないかもしれない。とても、成功しているのかもしれない。
だって、朝日の向こうには、何があるか分からないじゃないか。
「綺麗……これ……指輪?」
「今作った。……今願って、今叶えた」
「魔法で?」
「これはね、願いを込めた指輪。ずっと一緒にいられるようにって」
「奏夜……」
「ずっと一緒にいよう。願うだけじゃなくて、一緒にいよう」
「……うんッ」
未来に繋がるために、今を実現させよう。
願うんじゃなくて、叶えよう。
僕ら人間には、その力があると、思うから――――
「僕ね、今日父さんにお願いしてみる。こっちに残っていいかって、頼んでみる」
「奏夜……」
「それで、もしこっちに残れたら、また一緒に学校に行ってくれる?」
「――――ハイッ」
「沙紀ッ」
「ウンッ」
「僕は、君が大好きだッ」
朝日に頬に受けて、沙紀は涙を浮かべながら、嬉しそうに微笑んでいた。
「うんッ。私も……奏夜が大好きッ」
僕は彼女の手を握りしめた。
とても暖かった。




