眠る記憶の水底<2017年8月25日>
「あ、奏夜ッ」
夜の公園に集まったのは、二人だけだった。
僕と沙紀だけ。
他には誰もいなくて、暗闇の中にポツンポツンと街灯の明かりが灯るばかりだった。
午後九時。
時折バイクの音が傍を通りすぎていって、けたたましさが聞こえる夜。
汗が首筋を伝った。
眼の前には、照れくさそうに微笑む少女がいた。
「えへへぇ……奏夜と夜に会うのは初めてだねッ」
「……部屋ではよくあってるよ?」
「外でッ」
「う、うん……」
ギュッと手を繋ぐ感触が懐かしい。
これが最後だと思うと、なんだか悲しいけど、僕は照れくさくてぎこちなく微笑んだ。
「じゃあ、いこっか……」
「うん……」
僕らは手を繋いで歩きだす。
学校は少し遠くて、ここからじゃ見えないけれど、歩けばすぐだった。
「学校……楽しかったねぇ」
「うん……」
すぐの、はずだった。
だけど、足取りは少し重たかった。
一週間後にいなくなる大切な幼馴染。
新しくなる周りの人達。
大切なものが、僕の手から零れおちていく――――
「奏夜、今も魔法って使える?」
「うん。後で見せるよ。暗いところも照らせるよ?」
「えへへ、だから今日は懐中電灯持ってこなかったッ」
「うん。ぼくが沙紀の前に立つね」
「うんっ」
「だから……」
「?」
「だから――――沙紀は僕の後ろにいてね」
「……うんっ」
――――寂しかった
僕は、ここにいたかった。
だから、出来るだけゆっくりとした足取りで夜の学校まで歩いて行った。
彼女も、ゆっくりと歩いてくれた。
同じ足取りで、同じ足音が誰もいない町に響いた。
手が熱かった。
「それでね、昨日はね、近所のおばちゃんがね、町内会の司会のお礼ってねスイカ一個くれたのッ」
「大きいねぇ……」
「後で奏夜に半分上げるねッ。お母さんが切ってまだ半分冷蔵庫に残ってるの」
「うん。ちゃんと食べるよ」
「――――来年もね、一緒に食べようね。今度は奏夜の家で一緒にッ」
「……うん」
「約束だよッ」
「――――うんっ」
「絶対だよッ」
ギュッと指が手の甲に食い込んだ。
痛かった。
でも、彼女の手を、離したくなかった。
「……あ……」
――――見えてきたのは、大きな建物。
四階建ての校舎。
四百人ぐらいが入る大きな建物の周りには、広いグラウンドがあって、今も大きなトラックが白せんで引かれていた。
藤真第二小学校。
夜の学校の正門が眼の前にあり、その奥に大きな校舎が見えた。
見える、はずだった。
「――――」
そこには、巨大な闇が広がっていた。
ぶよぶよの肉の塊のようなものが、校舎全体を覆って、正門から流れ出していた。
質感はなく、蜃気楼の様なものだけど、確かにそこには黒い靄が広がっていた。
「……どうして」
――――魔法使いの父からよく知らされている事だった。
世界の向こう側にある生き物。
世界と世界の狭間、その深い所に澱む大地。
全ての光を透過する水晶の世界。
全ての光を反射する鏡の世界。
全ての光を受け付けない、闇の底。
深淵。
世界の底に広がる、魂の輝きすら受け付けない最初の暗闇が眼の前にあった。
「どうしたの奏夜?」
「……」
――――沙紀には見えていなかった。
どうしようと、迷った。
危険だ。
頭の中でリフレインする警告音。
下がれと、逃げろと頭が叫ぶ。
退けと――――
「奏夜?」
――――一緒にいたい。
胸が張り裂けそうだった。
このまま、終わりたくなかった。
このまま、逃げ出したくなかった。
――――この闇は、ソレほど危ないものではないと、聞かされていた。
なんとかなると、勘違いしていた。
離れたくなかった。
ずっと一緒にいたかった。
この時間を終わらせたくなかった。
だから――――
「……なんでも、ない」
「?」
「行こうッ。沙紀」
――――だから僕は正門に一歩を踏み出した。
僕は、沙紀を連れて、黒い靄に覆われた校舎へと歩いて行った。




