夕闇に沈む想い
――――頬を撫でる、風の感触。
聞こえるのは、木々のささめきと地面を叩き、街を駆ける囁くような風の足音。
瞼にジンワリと、地平に沈んだ夕日の茜が僅かに滲む。
夜と夕闇の狭間で、黄昏が広がり、身体に染みこんでいく。
眠りが、意識を静かに闇へと誘う―――――
「奏夜……」
――――聞こえるのは、風の音色のような綺麗な声。
心が震える。
闇に手を伸ばせと魂が囁く。
奏夜は闇に手を伸ばす――――――
「うう……」
「まったく……どうも体に無茶ばかりをしてしまうな」
体が反応し、勝手に四肢が動く。
チクリとした痛みが背中を走る。
その度に、視界が明滅し、奏夜は身をよじるままに瞼を開くと、顔を引きつらせながら、暗闇に目を細めた。
「お前……」
「おはよう……もう夕闇時だがな」
――――優しく微笑む蒼い瞳。
そこには褐色の肌の少女が一人、膝の上に眠っていた奏夜をじっと見下ろしていた。
夕風に揺れる長い銀色の髪。
膝に奏夜を抱え、覗きこむように、そっと汗ばむ額を手で拭っていた。
ヒンヤリとした小さな指。
冷たく、そして心地いい――――
「……」
「魂の鼓動が、随分と弱っている。……どうだ目が覚めたか、主よ?」
「誰だよ……」
「お前の永遠の伴侶だ」冗談めかして告げるその少女の笑顔に、口元が引きつった。
身体をよじり、奏夜は少女の膝から身体を起こした。
視界に入るのは、次々に灯り始める街灯の明り。
辺りを見渡せば、そこには夜に沈みゆく公園だった。
よく知っている――――
「……家の近くの」
「お前は良く眠る。それだけ眠れば、身体も少しは癒えたであろう?」
「……。お前、誰だよ」
黄昏の薄暗い闇の中、奏夜はベンチから足を下ろしながら、眼を細めて覗きこんだ。
地平線の向こう、夜に沈む夕焼け空を背に佇む小さな背。
聞こえるのは、柔らかな少女の声。
ほっそりとした脚から影が伸びて、奏夜を捉える。
その唇はうっすらと紅色に滲んで、夕闇を見下ろし、紅い瞳を細め、銀色の髪を靡かせる。
夏風を背に受け、褐色肌の少女が、夕闇に向き合い奏夜を見上げて微笑む。
「覚えていないか? 愛しき主よ」
「……」
「なぁ……奏夜」
濡れた唇から息が零れて、チロリと舌が覗かせる。
艶めかしく微笑む紅い瞳は奏夜をじっと捉えて離さず、その小さな両手は惚ける奏夜の手を包む。
クイッと背伸びをするままに、踵が地面から離れる。
股の間に身体を埋めるままに、少女はピンとつま先立ちになって奏夜の瞳を覗き込む。
八重歯を覗かせ、唇が僅かに歪み、瞳が愛おしそうに揺れる――――
「……ふふ。可愛い顔だ、何百年経っても私好みの顔だ」
「……」
「口元も、眼も、髪も、声も、背丈も、肉つきも、匂いも全て……私を虜にする。
愛しているぞ……我が主よ……」
――――少女は優しく微笑む。
その包み込むような言葉遣いに、奏夜はハッとなって視線を落とすと、つま先立ちの少女の顔を覗き込んだ。
その瞳は透き通るほどに蒼かった。
その髪は、風に靡く波のように、長く透き通っていた。
「……。お前、俺の頭の中にいた……」
「然り……お前の事は、誰よりもよく知っている」
「……」
「名は語らなくていい。魂はソレを告げるだけの光を宿してはいない」
「……?」
「ああ……本来は、私は深淵を抜けだし、こちら側に戻る力はまだない。まだ肉も得ていないのだから。
それでも……会いたかった」
濡れた唇から、甘いと息が零れる。
少し頬を膨らませ、ジトリと睨みつけるままに、少女はソッと唇を近づけ奏夜の頬に舌を這わせた。
「なっ!?」
奏夜は慌てて顔を引くままに、ヒョイッと膝に飛び乗る少女の背中を見下ろす。
「な、何をする!?」
「ネンネじゃあるまいし、お前とて幼馴染に何回同じことをした?」
「――――」
「可愛い娘と同じベッドで眠れば興奮で眠れない。……我が主はとことんまでド変態で困る。
まったく……私がありながらいつもこうだ」
そう言って唇を尖らせ頬を膨らませる褐色肌の少女に、奏夜は顔を引きつらせながら呻いた。
「お、お前……ずっと見てたのか? 子どものときから?」
「当然だ。我は主の影、主の闇。主がその魂を輝かせれば、我はその闇を深めて力を帯びる。
封印とは解放と同義。魂の輝きに引き寄せられ、我らは現世に肉を得るのだ」
「な……」
「妹も言ったはずだ。……お前は最高の魔術師だとな」
顔を真っ赤にして奏夜は凍りつき、少女は紅い目を細めて微笑む。
「だから私はお前を愛している。私はお前の永久の従者なのだからな」
「さ、最悪だ……」
「いいではないか……知らない仲でもあるまいて」
そう言って頬を胸板に擦りつけて、しなだれる少女を受け止めながら、奏夜は顔を真っ赤にした。
「お、お前、あのでかい腕じゃないのか?」
「私の姿は、主の意思によって変わる。……力を求めればその形は力強く変わる。
心が弱まれば、お前を助けるために、私はお前の『女』になる」
そう言って俯くと、少女は胸元から、紐を一本取り出すと、長い銀色の髪をまとめ上げた。
フワリと夕風に舞う艶やかな銀髪。
そうしてまとめ上げた髪をリボンで結うと、少女は奏夜の膝の上で振り返った。
黄昏の夕闇の中、少女はくるりと振り返って小首を傾げて、苦い表情の奏夜の顔を覗き込む。
上目遣いの幼い表情に、懐かしさを覚える。
その瞳は、誰よりも誰かによく似ていた――――
「……どうして」
「似合ってるか?」
コツリ……
奏夜の胸板に頭を擦りつけるように、少女は結った銀髪を夕闇に靡かせ、俯く彼を見上げた。
奏夜は躊躇いがちに首を横に振る。
その瞳はどこか不安げに揺れていた。
「……誰だよ、お前」
「さてな……誰だと思う?」
「……」
「ふふっ、好きだろう、ポニーテール? お前さえよければ、今後はこの髪型で出てきてもいいぞ?」
「別に……」
「沙紀は知っている。……お前がこの髪型が好きなのを」
ヒョイッと飛び上がる華奢な背中。
夕風に靡く銀色の髪が、火を受けて僅かに色づき、少女はブランコへと飛び乗った。
キィと軋む音が静かに公園に響く。
ブランコが前後に揺れるたび、その横顔が結った銀髪と共に映り、奏夜は顔をしかめて顔を背けた。
そのあどけない表情は幼馴染によく似ていた。
「……沙紀は、知っているのか?」
「ああ。……あの娘が寝ている間にお前が何をしていたか、どんな表情で自分を見ているか。
あの娘、以外に聡いのでな」
「……頭がいいからな」
「ああ。お前の好みも全て存じている」
ブランコの軋み、甲高い金属の擦れる音が夕闇に音を奏でる。
それは夕闇に溶けて、引く波の如く、夏風に流されていく――――
「……沙紀」
「だから毎日している――――お前も良く知っているのではないか?」
「……ああ」
「そしてお前は知らぬふりをしている、彼女の伺うような上目遣いの目線が心地いいから。
彼女に見られるのが、心地いいから」
「……ああ」
「――――彼女が、好きだから」
奏夜は力なく項垂れた。
そして口を力なく動かす。
「……ああ」
「このド変態め」
「うるせぇ……」
「ふふっ……だから私はお前が好きだ」
「――――沙紀を助けたい」
軋む音が小さくなる。
ゆっくりとブランコが速度を落とす。
俯く奏夜に、やがて少女は優しく微笑んだまま、鎖を両手に掴んだまま振り返ると、首をひねった。
「あの女は強いぞ。お前の『存在』に只管に恋焦がれて、時を貫き、終にアルクトゥルスを取り込んだ。
その闇の深さ、尋常ではない」
「……ボコボコにしたい」
「魔術師としての腕も技術も装備も、あの女が数段上だ。今のお前ではフィフテにすら叶わんさ」
「……助けたい」
「是非も無し……」
小さなため息が唇から零れる。
ヒョイッと飛び上がる華奢な身体。
短いスカートがめくれて、褐色肌の脚が覗かせるままに、少女は顔を上げる奏夜の下へと飛び降りた。
そうしてその分厚い手を掴み、少女はジッと青年の蒼い瞳を覗き込む。
唇を僅かに噛みしめ、幼い表情を強張らせる。
その瞳に、憂鬱な奏夜の表情を映す――――
「可愛いな……今にも大切なものを失わんとする、その濡れた子犬の眼」
「……」
「その目に、火を灯したい。獣のような、狼のような目で、私を射抜き、心を掴み、ただ見てほしい。
奏夜、我はお前を愛している……何年、何千、何万年と前から」
「……俺は沙紀を助けたいだけだ」
「なら、取引をしよう。……悪魔の私と、人間のお前が契約を結ぶのだ」
スッと柔らかな胸元に手を吸い寄せるままに、褐色の少女は妖しく微笑んで見せた。
奏夜の表情が刹那、強張り指先に熱が走る。
「怖いか?」
「……。人間は信用ならんぜ?」
「お前に裏切られるなどあり得ない」
「なぜ?」
「お前の全ての行動を、私は受け入れるからだ」
「……」
「契約の反故も私の想定のうちだ。それでもお前が助けたいというのなら、私は対価を以って手を貸す」
「……何が望みだ」
「お前の精子……」
「はぁ!?」
たまらず叫ぶ声が公園に響く。
スルリ……
胸元に添えていた奏夜の手を、少女は掴んで下腹部に押し付けると、頬を僅かに赤らめた。
そうしてため息が零れて、濡れた瞳を慌てふためく青年に向ける。
「はぅ……手が熱い……トクントクン言ってる……」
「な……なぁ!?」
「次は……ここにお前の太いものが入ると思うと……んん、変な気分だ」
「何言ってるの!?」
「怖いか? 良いではないか、我はお前の永遠の伴侶。子どもぐらいつくってもよかろう?」
「バカが! どういう事だよ!?」
「――――ずっとだ」
「はぁ!?」
「お前の魂にずっと付き従い、今まで傍でお前を見続けた。
苦しい時も、悲しい時も、雄々しい時も全て――――私はお前の背中だけを見続けてきた。
お前はいつも最高の魔術師だった。
歴史には載らずとも、我ら深淵の獣を魅了するに足る、強き魂の輝きを持つ者よ……」
「な、何言ってる……何を言ってる!?」
「一目ぼれのベタ惚れだ、バカ者……」
そう言ってため息とともに、静かに手を離すと、夕風を背に少女は嬉しそうに微笑んで告げた。
「我が主、奏夜・アルトナ・オズワルド」
「……なんだよ。これ以上俺の頭をどうにかさせる気か?」
「我と永遠に結婚してくれ」
「ああああああああああ!?」
「私からの条件だ」
「何言ってんだよッ!?」
「いやか……?」
「しょんぼりするな、そういう問題じゃないッ」
立ち上がる奏夜に、少女は不思議そうに首をひねって見せた。
「どうした? 興奮してるのか?」
「何言ってるの!? お前は俺を混乱させたいのか?」
「ふふっ、お前の困った顔は見てみたい」
僅かに頬を赤らめ、にんまりと満足げな笑みを覗かせる少女に、奏夜は頭を抱えて黄昏空を仰ぎ見た。
「……勘弁してくれ」
「そんなにいやか?」
「……。もっとこう、魂が欲しいだのというかと……」
「欲しいさ。……だが欲しいのはお前の全てだ。魂も欲しいし、身体も欲しいし、全てが欲しい。
何より、お前の愛が私に欲しい」
蒼い瞳を優しく細め、少女は結った長い銀髪を夜風に靡かせる。
その表情は少し照れくさそうにしていた。
その唇からは、熱っぽいため息が漏れた。
その瞳は潤んで、奏夜を見つめていた。
じっと、視線を外すことなく――――
「奏夜……」
「……。沙紀を忘れろと?」
「違う……私はお前が欲しいだけだ:
「そんな事をするくらいなら、とっくの昔にその女を殺している」
「……どうしたいんだよ?」
「我は永遠の時を生きる獣。女が寿命で死んだ後も、お前が死んで魂を闇に堕とした後でも生き続ける。
我は永遠にお前を護り、共に生き続ける……それだけだ」
「……」
「ただ――――お前との繋がりと、形が欲しいのだ」
「……」
「私は……お前との子どもが欲しいのだ」
はにかんだ笑みを浮かべて、褐色肌の少女は髪を風に靡かせ、上目遣いに覗きこんだ。
その紅い瞳は宝石のように澄み、じっと戸惑う奏夜を見つめる。
濡れた唇からため息が零れる――――
「……奏夜。我が愛しき主よ」
「……」
考えること十分。
夜の公園の真ん中で頭を抱える事五分。
「――――理由はわからんが、何を考えてるのかも知らんが……」
「ふふ……可愛い顔だ」
「……いいだだろう」
「……」
「やってやる……さ」
「ほ、本当か……?」
「二度も言わせるな……」
既に周囲は暗く、街灯が地面に長い影を伸ばしていた。
深いため息とともに奏夜はそう言うと、強張った表情はそのままにぎこちなく視線を落とした。
そこには嬉しそうにニッコリと笑う少女がいた。
足元に影はなく、街灯の明かりに銀色の髪が靡く。
そしてその手には、いつの間にか、長い木の棒が握ら荒れていた。
「ふふっ、これはお前の持ち物だ」
グッと引き抜けば、明りを吸い込む水晶の刃。
それは、鞘におさめられた一振りの刀だった。
「……これで戦えと?」
「気が早いな」
スッとほっそりとした両腕で少女は刀を差し出す。
自信たっぷりにそう告げる少女に差しだされるままに、奏夜はぎこちなく刀の柄を握りしめた。
手に吸いつく感触があった。
それはまるで子どものころからずっと触ってきていたかのような――――
「……これ」
「おまえのものだ……」
「……俺の? 覚えがない……記憶が、ない」
「名は無刃・閻魔獄――――昔、お前が刀鍛冶に作らせたものだ」
「……知らねぇよ」
「その刀は、奏者の魂の輝きを映し、全ての魂を吸い取る力を持つ。
存在の根源たる魂、その輝きを情報化し、一定の方程式へと変換した、ゴードン一家の魔術に対するアンチソフトウェアだ」
「……。姉貴に対抗できるのか?」
「せっかちだな。床で我より先にイッたら許さんからな」
そう言ってクスクスと笑い声を洩らす少女に、奏夜は複雑な表情と共に顔を背けた。
「それで、どうするんだよ?」
「それで我を貫け」
「――――え?」
「我を殺せ、我が愛しき主よ」
少女は微笑んだ。




