欠けた記憶の断片<2017年8月24日>
―――2017年。8月24日。
「え……来週?」
「うん……」
――――引っ越す事を、ぼくは口に出した。
母が言うには、『最強の封印魔術師』になるための魔術の訓練だそうだった。
父が言うには、最強と謳われる『深淵の獣』を退治することらしかった。
どちらにしろ、僕は遠い彼方の地へと行く事になってしまった。
沙紀は、とても悲しそうに俯いて、それからしばらく僕と口を聞いてくれなかった。
「それで……」
「……」
「あのね、沙紀……」
「……」
彼女の部屋の中で沈黙が長く続いた。
彼女は、とても悲しそうだった。
ぼくも、悲しかった。
「あの、沙紀」
「……残念、だね」
五分ぐらいだろうか。
沙紀は顔を上げてそう言った。
今思えば、目一杯のセリフなのだろう。ぼくはぎこちなく笑って頷いた。
「手紙、書くよ……だから、その」
「……。帰って」
「沙紀……」
「お願い……今日はもう帰って」
「……うん」
何も言えなかった。
言われるままに帰って、それから少しだけ泣いた。
このまま一週間したら、ぼくは父と一緒に遠くの地に連れていかれて、何か訓練をやらされる。
延々と魔術書を読みふけり、怖い魔物と戦い、傷つき、それでも戦い続けないといけない。
そんな事をずっと続けてそこから離れられなくて、もう沙紀には会えない。
そう考えると、もっと涙が出た。
離れたくなかった。
もっとずっといたかった。
ずっと手を繋いで大人になってもずっと一緒で。
それから、一緒に家に暮らして。
それから――――
「……ぼく……」
――――伝えたい。
頭がおかしくなりそうだった。
今にも、彼女の家に走り出してしまいそうだった。
心のぐるぐるが止まらなくて、吐きそうで、ぼくは夜までベッドの上で悶々としていた。
そして夜のなると、『コンッ』って窓がなった。
それはいつも合図。
沙紀がぼくの部屋の窓に、消しゴムを投げてる音。
慌てて顔を上げて窓を開くと、すぐ隣の家の二階の部屋の窓から明りが洩れていた。
ライトを背に、沙紀が窓辺に立っていた。
ムスッとした顔。
ぷくっと膨れた頬っぺた。
少し泣き腫らして、目元が紅く滲んでいた。
いつもの彼女だった。
一週間後には見られなくなる、沙紀の顔だった。
「……あの」
「……奏夜ッ」
少し泣いて掠れた声で沙紀は叫ぶ。
「えと、何?」
「――――明日、肝試しに行かない?」
「え……?」
「いいよね。奏夜だって日本のお化けを知っておかないと、向こうの友達に自慢できないでしょ?」
「で、でも……」
「決まり。明日、夜九時に学校の正門で待ち合わせ」
「守衛さんとかいるよ……?」
「いいからッ」
「でも危ないよ、遊園地のお化け屋敷でも……」
「いいから!」
彼女の怒声が夜に響いた。
凄く悲しげで、彼女は直ぐに背中を向けて窓を閉めて、カーテンを閉めて、ぼくから離れた。
ぼくは何も言えなかった。
当てつけなのか、寂しいのか、思い出を作りたいのか。
それとも全部なのか。
何がしたいのか、彼女の意図が理解できないまま、ぼくは小さく頷いた。
胸をかきむしればドクンドクンと心臓が高鳴った。
多分、明日が最後のチャンスだと思うから。
「……うん」
――――伝えよう。
ぼくは唇をかみしめて強く頷いた。
夜が過ぎるのをまって、明日が来るのを望んで、ぼくはすぐにベッドにくるまって眠りについた。
明日が来ないだろうか。
何を伝えようか。
眠りにつくまでそんな事ばかり考えていた。
そして、あの日はすぐにやってきた。
2017年、8月25日。
――――俺の、最悪の夜が。




