蛾
細く弓なりの月が夜空に輝いていた。見切り品の惣菜と缶ビールが入ったスーパーのビニール袋を持って、彼は勤めからの帰り道を歩いていた。着古したスーツに疲れの抜けない体を包み、時折ひどく咳き込みながら、彼は歩いた。
4月も終わりに近づき、夜も暖かくなっていた。街灯の明かりに、まばらに虫が集まるようになっているのに彼は気づいた。風が吹いて、家々の間を縫うように抜けていくと、その度にそこかしこの庭に植えられた、葉桜になった桜の枝から、花びらが散った。だから、彼が玄関前の階段を登って、古びた照明にぼんやり浮かび上がったドアの前に立った時、自分の前にひらひらと落ちてきたものを、彼は最初、花びらだと思った。
そのまま地面に落ちていくように見えたそれは、見えない空気の流れに弄ばれるように、少しの間舞い続け、そのうち急に目の前に上ってきた。彼が花びらと思ったものは、蛾だった。羽ばたきの気味の悪い音が聞こえてきて、思わず彼は顔をのけぞらせた。羽がぶつかったような気がして、彼は手で髪を払った。虫を目で追いかけると、波長の安定しない白い光に照らされてぼうっと光るその羽は、残像を浮かび上がらせながら、光の届かない、暗い庭の方に向かって飛んでいった。
(誰が明かりを点けたのだろう)
彼は玄関を照らす明かりに目を戻して思った。彼の頭に浮かんだ疑問は、たちまち心を覆い尽くした。一人で暮らし始めてから、帰宅した時の為に玄関の明かりをつけておくことを、彼はしたことがなかった。母親か、父親だろうかとも思ったけれど、離れて暮らす両親が、何の連絡も無しに突然出向いてくる訳はない。−−家族。妻と幼い娘の姿が脳裏に浮かんだ。いつも彼の帰りを待ってくれていた彼の家族は、この前の春に、自動車事故でこの世を去っていた。一時停止を無視した高齢者の運転する車が、娘を乗せた妻の車に衝突したのだった。
妻子を見送ってからも、自分の家族が突然この世からかき消えたことを、受け入れられない日々が続いた。がらんとして、生活する者の息づかいのない家に一人きりでいる時、彼はしばしば月日を数えて想った。ひと月前の今日は生きていた・・・4ヶ月前のこの日に誕生日を祝った・・・去年の秋には生きていた、そうだ、一緒にぶどう狩りに行った・・・そして、そんな風な回想はかならず、“現在”という現実に行きあたって終わるのだった。不眠がちになった彼が、まれに良質な眠りにめぐまれて、朝にすっきり目が覚めた時には、台所や居間で妻と子がかつてのように一日を始めているような気がした。けれども、そういう夢の様な気分は必ず孤独に打ち破られた。そのうち、自然と彼の心は塞ぎがちになった。勤めは続けていたけれど、休みの日は家に引きこもって暮らした。
空き巣だろうか?いや、盗みに入ってわざわざ明かりをつける空き巣がいるだろうか。仮にそうだとしても、盗る物など何もないさ・・・出掛けにうっかり肩でスイッチに触ったのかもしれない・・・頭の中で、とりとめもなく考えを巡らせながら、彼はドアノブに鍵を差し込み、回した。すると、シリンダーは何の手応えもなく回った。かかっていなかった鍵穴から鍵をぬきながら、きっとぼんやりしていたんだ、最近は体調もよくない。と、ふたつの出来事の原因を自分に帰するように考えた。けれど、ドアを開けるとすぐ、長い間そこに並ぶ事のなかった、二組の靴があるのに彼は気づいた。ヒールのついた妻の靴と、娘の小さな可愛らしいピンクの靴。彼の頭はもう考えることをしなかった。そのまま玄関に立ち尽くして、次に起こる出来事を待った。奥で扉の開く音。足音。その足音が誰のものか、彼にはわかった。
「あなた?」彼の目の前に妻が現れた。
「・・・・・・おまえ・・・」
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「おかえりなさい、今日も遅かったのね・・・どうしたの?びっくりしたような顔して」妻は玄関に立ち尽くす彼の表情を見て、おかしそうに言葉を継いだ。「鳩が豆鉄砲を食ったような顔っていうのかしら?」まるで理解できないといった風だ。
「どうしたんだ・・・どうして・・・」彼の言葉は声にならなかった。思わず手を伸ばして妻に触りそうになるのをこらえた。彼の内心の混乱と驚きに反して、あまりにも自然な妻の振る舞いがそうさせたのだった。彼は自分がこの場でどう振る舞っていいのかわからなかった。
「いやね、何?早く上がって着替えて」
「あ、ああ・・・」妻に促されて、彼はようやく靴を脱いだ。
家に上がると、ネクタイをゆるめながら、彼は子供部屋を覗きこんだ。開いた扉の隙間から漏れ入る光の中に、穏やかに眠る娘の姿があった。
「起こさないようにしてね、ついさっき寝ついたんだから。・・・食事は済んだの?残り物で良かったら支度するけど・・・」
これは、かつての彼の生活と同じだった。家に帰ると妻がいて、帰宅した彼を迎えてくれる。幼い娘は父親の帰りを待ちながら、いつしか眠ってしまう。勤めのある日なら、彼はいつも娘の寝顔に一日が無事に終わったことを知らされるのだった。
「まだなんだ・・・食べるよ」彼はごく自然な口ぶりで答えた。
ダイニングテーブルの上には、湯気を立てるご飯の盛られた茶碗や、ロールキャベツのトマトソース煮、スープにイタリアンパセリのサラダといった料理が並んでいて、料理の皿の隣には、缶ビールとグラスが置いてある。
彼が椅子に座りグラスを持つと、妻は彼がそうするより早く、ビールの缶をとりあげ、中身をグラスに注いだ。グラスに満たされた金色の液体と、それにかぶさる白い泡を見つめながら、彼はこの現実と折り合いをつけようと決めた。
「温めたから、冷めないうちに食べて」妻の言葉に促されて、彼は食事を始めた。食器に盛り付けられた温かい食事。湯気が運ぶ料理の香り。箸が食器に当たる音。口の中に広がる味わい。上唇にあたるビールの冷たい感触。自分のために用意された食卓。彼の感覚は食事の細かな、あらゆる出来事に向けられた。今夜の食事はこれまでの、一人で摂る作業のようなものではなかった。
「今日、恵麻の幼稚園の制服を取りに行ってきたわ」空のグラスを手に、向かいに座った妻が話し始める。
「試着してみたら袖丈がちょっと短いみたいなの。仕立ての時に間違ったのかしらね、成長するって言ったって、20日ちょっとでそんなに変わるわけ無いわよね」と、自分のグラスにビールを注ぎながら話し続ける。
彼にとって1年振りに見る妻は、記憶の中にあるその人の姿と全く変わっていなかった。肩に届くボブの髪型、切れ長の目、小さなあご、好んで着ていたニットのセーターにジーンズ。シルバーのネックレス、指輪・・・彼が聞いていようがいまいが続けられるおしゃべり・・・。
「環状線に出る手前の三叉路でね、車が飛び出して来たの・・・ぶつかる寸前で止まってくれたけど、運転してたのお年寄だったわ・・・全然見てないのよ、標識とか周りとか。恵麻も乗ってるのに・・・心臓が止まるかと思った」
思わず、彼の箸が止まった。
「今日は何日?」思わず口に出して彼が訊く。テーブルに置かれた時計を見ると、その時計のデジタル表示は、「あの日」を示していた。
「え?何、急に?・・・今日は3月--日・・・あなた今日、なんか変よ」
「これは・・・続き・・・?」
彼が呆気にとられたように口の中で呟いたとき、隣の居間で電話が鳴った。妻が立ち上がると居間に入っていき、彼の視界から外れた。
「あの日、事故がなければ・・・こんな風に・・・」彼はもう一度呟いた。
妻が電話を取りにいったのにも関わらず、ベルは鳴り続けていた。彼はテーブルに座ったまま、無神経に空間に割り込んで鳴り続ける、ベルの音を聞いていた。
もう妻は現れなかった。
******
「 こちらの方・・・お母様だそうですが、何度か電話をしても応答がないと言うので、訪ねて来られたんだそうです」制服姿の婦人警官が、椅子に座ったままテーブルに突っ伏した遺体を囲む、もう一人の私服の警察官に言う。テーブルの上にはプラスチックの容器に入った総菜と、飲みかけの缶ビールがあった。
「いつごろですか、電話をかけられたのは」私服の警官が母親に訊く。
「金曜の夜ですから、2日前ですか・・・何度かかけたのですが、全然出ないものですから、心配になって・・・去年お嫁さんと娘を一度に亡くしてからは気落ちして・・・元々体の弱い子だったのに、最近は体調を崩しても病院にも行かず・・・」母親と呼ばれた人は、表情に動揺をあらわにしながらも、気丈に答えた。
「細かい事は検死してみないと何とも言えませんが、まずご病気が原因でしょう。何らかの発作で・・・。おい、ストレッチャー持ってこい」しゃがみこんで遺体を確かめていた検死官が顔を上げて、若い警察官に指示を出しながら言った。
「見た感じ、怪しいところもないしな・・・ん?」遺体の顔を覗き込みながら呟いた私服警官が、何かに気付いた。
「これは何だ?この粉みたいなもの」彼がこめかみの辺りを指して訊く。それに応えて、検死官も覗き込む。私服警官が粉みたいと言ったものは、ところどころ鈍く光を反射するように、遺体のこめかみに付着していた。
「確かに粉のようですが、何の粉なんでしょうね・・・。何だか・・・鱗粉みたいですけどね」一緒に覗き込んだ婦人警官が言う。
「そうか?まあ、とりあえずちょっと調べてみましょう・・・おい、キットよこせ、運び出す前に採取するから」検死官が人使いも荒く、もう一度若い警察官に指示しながら言った。
「あら、やだ。蛾」検死官の言葉が終るや、母親が言った。警官達が母親の視線の先を追うと、ダイニングキッチンの窓に、大きな蛾がぴくりとも動かずに張り付いていた。
「いや。あたし、虫ダメなんですよ」婦人警官が顔をしかめながら言う。
「知ってるか?蛾にはな、幻覚作用のある鱗粉を持つヤツがいるんだぞ」私服警官が婦人警官に言った。
「へえ。何でそんな事知ってるんですか」婦人警官が訊く。
「麻薬班の同期に雑談してて聞いたんだよ。自然界には幻覚作用を持つ物質が色々あるってさ」私服警官が答える。
ストレッチャーが持ち込まれて、若い警官が二人掛かりで遺体をその上に寝かせると、遺体は静かに運び出されていった。
「最後にいい夢でも見てくれてたら、いいんですけど」息子を見送る母親が、言った。
(終わり)