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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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絶景

作者: 東雲 溯
掲載日:2026/10/27

朝からずっと落ち着かなかった。


何度も時計を見ては、意味もなくスマートフォンを確認した。


緊張しているのは、自分でも分かっていた。


「なんでそんなに緊張してるの?」


美咲が笑った。


「だって、緊張するでしょ」

「結婚するの私なんだけど」


「俺もちょっと緊張してるけどな」


拓也が横から言った。


「拓也は緊張してていいの」


美咲が笑う。


「じゃあ、私は?」

「楽しんでればいいの」


「今日まで長かったね」


私が言うと、美咲は少し考えてから頷いた。


「長かった。大学からだもんね」

「もう十年か」


拓也が言った。


十年。口にすると、思っていたより長く感じた。


「今日は絶対泣くでしょ」


美咲が私を見る。


「どうだろう」

「絶対泣く。私より泣きそう」

「それはない」

「あるって」


三人で笑った。


楽しかったし、嬉しかった。それでも緊張は消えなかった。


もうすぐだったから。


披露宴が始まる四十分ほど前。


「美咲がいない」


最初にそう言ったのは、拓也だった。


私は控室の前にいた。


最初は誰も深刻には考えていなかった。


トイレかもしれない。誰かと電話しているのかもしれない。少し外の空気を吸いに行っただけかもしれない。そんな声があちこちから聞こえた。


でも、十分経っても、二十分経っても、美咲は戻ってこなかった。


「電話は?」

「出ない」


拓也は何度もスマートフォンを耳に当てていた。


「もう一回かけてみる」

「うん」


少しして、控室からスタッフの人が出てきた。


「新婦様の携帯電話なんですが……」


美咲のスマートフォンは、控室にあった。


財布もあった。


ドレスも残されていた。どこかで着替えたらしい。


それなのに、誰も美咲が出ていくところを見ていなかった。


式場のスタッフが、館内を探し始めた。


「俺、外見てくる」


拓也が言った。


「待って」


私は止めた。


「スタッフの人も探してくれてるし、美咲が戻ってくるかもしれないでしょ」

「でも」

「拓也までいなくなったら、連絡来たとき困るよ」


拓也は一度、立ち止まった。


「すぐ戻る」


そう言って、結局そのまま走っていった。


私は、その背中を見送った。


美咲のことが、本当に好きなんだと思った。


警察が来たのは、それからしばらくしてからだった。


披露宴は中止になった。


事情を知らない招待客たちは、式場の人から説明を受け、少しずつ帰っていった。


さっきまで、美咲と拓也の結婚を祝うために集まっていた人たち。


今はみんな、美咲がどこへ行ったのかを話していた。


私は、その様子を見ていた。


式場の防犯カメラには、美咲の姿が映っていた。


黒いコートを羽織り、一人でスタッフ用の通路から外へ出て、式場の近くに停まっていた車に乗っていた。


車の持ち主は、亮介だった。


美咲の元彼。


高校時代から付き合っていて、大学に入って間もなく別れた人だった。


私は、美咲から何度か話を聞いたことがある程度だった。


別れてからも、たまに連絡を取っていたらしい。


警察は亮介から事情を聞いた。


美咲から連絡が来た。

迎えに来てほしいと言われた。

車に乗せた。

途中で降ろした。


亮介が話したのは、そういうことだったらしい。


「それだけですか?」


私は警察の人に聞いた。


「今は詳しくお話しできません」

「でも、美咲が最後に乗った車なんですよね」

「確認できることは、すべて確認しています」


私は少し迷ってから聞いた。


「亮介、本当にちゃんと調べてもらえてるんですか」

「もちろんです」


その言葉を聞いて、私は黙って頷いた。


拓也が戻ってきたのは、かなり経ってからだった。


息を切らしていた。


「どこ行ってたの?」

「この辺。駅の方とか、公園とか」

「一人で?」

「うん」


拓也は、どこをどう探したのか自分でも整理できていないようだった。


「美咲は?」

「まだ」


私がそう答えると、拓也は何も言わなかった。


拓也は椅子に腰を下ろし、組んだ両手を見つめていた。


ただ、必死だったのだと思う。


その日は、結局、美咲は見つからなかった。


次の日も。


その次の日も。


式場で見た人たちの顔を、何度も思い出した。


拓也。

美咲の家族。

集まっていた友人たち。


時間が経つにつれて、

「どこにいるんだろう」という言葉を、

聞かなくなっていった。


代わりに、誰も口にしないことを、みんなが考え始めているように見えた。


それでも、時間だけは過ぎていった。


四日後。


美咲が見つかった。


死んでいた。


連絡を受けたとき、私は泣いた。


涙が、なかなか止まらなかった。


大学一年の春に美咲と出会い、そのあと拓也と出会った。


三人で講義を受け、ご飯を食べ、旅行にも行った。卒業してからも何度も会った。二人が付き合い始め、結婚すると聞いたときは、本当に嬉しかった。


そんな十年分の出来事が、一度に頭に浮かんだ。


それから、警察に何度か話を聞かれた。


美咲と最後に話したのはいつか。

最近、変わった様子はなかったか。

拓也との関係はどうだったか。

亮介のことを、どこまで知っているか。


私は、一つずつ答えた。


葬儀の日。


拓也は、ほとんど話さなかった。


美咲の遺影の前に座っていた。


焼香を終えても、しばらく動かなかった。


後ろに人が待っていても、気づいていないようだった。


係の人に声をかけられて、ようやく立ち上がった。


私は少し離れたところから、その姿を見ていた。


十年も知っている拓也が、その日は知らない人のように見えた。


警察は、亮介を調べ続けていた。


私も、そうなると思っていた。


でも、少しずつ話が変わっていった。


美咲と拓也は、結婚を前に何度か言い争っていたらしい。


拓也は、最初の聞き取りでは、そのことを話していなかった。


結婚式の前夜にも、二人は口論していた。


そして、美咲がいなくなったあと。


拓也が一人で探しに出た時間。


本人が話した行動と、確認できた行動には、合わない部分があった。


それだけではなかった。私たちの知らなかった事情や、警察が調べて初めて分かったこと。偶然の重なりもあった。


小さな疑問が一つずつ、拓也の方へ向かっていった。


それでも私は、亮介の名前が頭から離れなかった。


だって、拓也だけは違う。


そう思っていた。


数日後。


私は家で、テレビをつけたまま夕食を食べていた。


ニュースから聞き覚えのある地名が流れ、私は箸を止めた。


画面には拓也の顔が映っていた。


「……拓也?」


涙が出た。


大学の頃の拓也。

美咲と付き合い始めた頃の拓也。

結婚すると報告してきたときの拓也。


十年分の記憶が、一気によみがえった。


けれど、次の言葉を聞いた瞬間、涙が止まった。


拓也が、逮捕された。


しばらく、テレビの音だけが聞こえていた。


十年前。

大学で美咲と出会った。


そのあと拓也と出会って、三人になった。


三人で笑って、卒業して、二人が付き合って、結婚式の日を迎えた。


十年。


長かった。


大学一年の春には、美咲と友達になるなんて、思ってもいなかった。


その美咲が、拓也を連れてくることも。


二人が付き合うことも。

結婚することも。


振り返れば、思いがけないことばかりだった。楽しいことも、驚くことも、予定になかったことも、たくさんあった。


それでも、ここまで来た。


ずいぶん遠くまで来たと思う。


人生は、旅に似ているのかもしれない。


どこで誰と出会うのか。

誰と一緒に歩くのか。

その途中で、何が起きるのか。


出発したときには、誰にも分からない。


私たちも、そうだった。


そして、私たち三人の旅は、ここまでだった。


長い、十年間の旅だった。


         終





あれから、五年が経った。


私は、机の一番下の引き出しを開けた。


黒いノートを取り出す。


前より、少し厚くなった。


ページをめくる。


名前。

日付。

短い文章。


何ページも続いている。


いくつものページの末尾に、同じような文字が並んでいた。


《成功》

《成功》

《失敗》

《成功》

《成功》


……。


さらに、数ページめくる。


《成功》

《成功》

《成功》


五年前と比べると、

《失敗》は減った。


美咲のときに、考え直したことがいくつもあった。


人は、思っているより動く。


感情は、思っているより大きくなる。


自分の知らないところで、関係も変わっていく。


あの旅は《失敗》だった。


でも、無駄ではなかった。


私は、ページを戻した。


五年前。


美咲。


その名前の横には、


《失敗》


と書いてある。


私は、人を見るのが好きだった。


誰が誰を好きで、誰を嫌っているのか。何を隠しているのか。


そこから一人がいなくなったとき、残された人たちはどう動くのか。


誰を疑い、誰を庇い、誰に嘘をつくのか。


私が始めた。


そして、終わるところまで見届けた。


誰かに任せたことはない。


それでは、意味がないから。


私が敷いたレールの上を、人が進んでいく。


疑い、庇い、嘘をつきながら、思い描いた場所へ近づいていく。


私が設定した人間が、逮捕されるところまで。


そこまで行けば、


《成功》。


私が見たいのは、そこまでだった。


そのあと釈放されても、不起訴になっても、裁判まで進んでも構わない。


その先は、もうどうでもいい。


旅行から帰ったあと、その街に雨が降ろうと晴れようと、私には関係ない。


もう、そこにはいないのだから。


私の旅も、そこで終わっている。


美咲と出会ったのは、大学一年の春だった。


今から、十五年前。


その少し前、大学に入って最初の旅を終えた。


その人がいなくなれば、いくつかの予定が変わる。人が動き、空く場所ができる。


そこまで、私は考えていた。


そして予定通り、空いた席に座った。


前でも、後ろでも、隣でもよかった。


近くに座った誰かと、少し話してみる。


考えていたのは、そのくらいだった。


隣にいたのが、美咲だった。


講義が終わって、私が席を立とうとしたときだった。


「これ、次の講義でも使うんだっけ?」


美咲が、私の机に置いていた教科書を指さした。


「たぶん使うと思う」

「やっぱり? ありがとう」


それが、最初の会話だった。


そこから先は、予定にはなかった。


次の講義でも、美咲は近くに座った。


その次も。


一緒にご飯を食べるようになった。


気づけば、友達になっていた。


しばらくして、美咲が言った。


「今度、友達も連れてきていい?」

「いいよ」


連れてきたのが、拓也だった。


拓也のことは、何も知らなかった。


私の予定には、どこにもいなかった。


だから、嬉しかった。


知らない人が一人増える。


その人が誰かと知り合う。

仲良くなる。

嫌いになる。

好きになる。


それだけで、考えられることが増える。


予定が壊れるのではない。選択肢が増えるのだ。


そういう偶然が、私はとても好きだった。


それから、三人でいることが増えた。


大学の四年間、三人で遊んで、笑った。どこにでもいる、普通の友達だった。


卒業が近づいた頃。


三人で話しているとき、私は冗談っぽく言った。


「二人、付き合えば?」


美咲が笑った。


「何それ」


拓也も笑っていた。


私も笑った。


そのときは、それで終わった。


でも、しばらくして、二人は本当に付き合った。


卒業してからも、二人の関係は続いた。


そして、結婚すると聞いた。


二人の結婚は、これまで別々だった人たちの関係も広げていく。


それが、私には嬉しかった。


その頃、高校時代のグループLINEにも、久しぶりに通知が来た。


六人ほどのグループだった。


高校を卒業してからも、たまに誰かが写真を送ったり、近況を報告したりしていた。


その中の一人が、メッセージを送ってきた。


《報告! 赤ちゃんできました》


お祝いの言葉が続いた。


私も、


《おめでとう!》


と送った。


《久しぶりにみんなで集まろうよ》


誰かがそう言って、本当に集まることになった。


何年も会っていない友人たちは、今どんな人になっているのだろう。


それに、今度は一人増えるらしい。


子供。


最後に子供を間近で見たのは、いつだっただろう。


私は、予定を見直した。


美咲は、もう少し先でもいいと思っていた。


十年も知っている。拓也もいる。結婚すれば、新しいつながりも生まれる。


まだ、いくらでも待てると思っていた。


でも、子供は違う。生まれてから、家族や友達、学校へと、その世界は広がっていく。


その先にも、きっといろいろある。


それなら、もう少し見ていたい。


そう思った。


だから、順番を変えた。


美咲を、先にした。


結婚式の日。


美咲がいなくなった。


私が設定していたのは、亮介だった。


でも、逮捕されたのは、拓也だった。


だから、

《失敗》だった。


拓也だけは違う。


あのときは、拓也ではなかった。


美咲がいなくなったとき、拓也は一人で探しに出た。


私は止めた。


スタッフが探している。

美咲が戻ってくるかもしれない。

拓也までいなくなったら、連絡が来たとき困る。


どれも、間違ったことは言っていない。


それでも、拓也は行った。


私が思っていたより、ずっと必死に。


その時間が、あとから拓也自身を疑わせることになった。


美咲が見つかった日に、私は泣いた。


あれは、演技ではなかった。


十年かけて、ようやくここまで来た。


その間に予定は何度も変わった。美咲も拓也も、少しずつ変わっていった。


それでも、ここまで来た。


あとは、最後の景色を待つだけだった。


そのとき、どんな景色が見えるのか。


私にも分からなかった。


まだ見たことのない絶景が、もうすぐそこまで来ている。


そう思ったら、涙が出た。


涙は本物だった。


ただ、見ていた景色が違っただけだ。


拓也が逮捕されたニュースを見たときも、最初は涙が出た。


画面に拓也が映った瞬間、十年間が戻ってきた。


「……拓也?」


そこで、涙が止まった。


違う。


拓也じゃない。


私が、そこに置いたのは拓也じゃない。


十年かけて進んできたものが、最後の最後で、私の知らない方へ進んでいた。


葬儀の日のことも、思い出した。


美咲の遺影の前に座ったまま、なかなか動かなかった拓也。


係の人に声をかけられて、ようやく立ち上がった。


あのときは、呆然としているだけだと思っていた。


でも、あとになって分かった。


拓也は、あの場所から離れたくなかったのだ。


美咲のそばから。


私は、拓也が美咲を好きなのは知っていた。


二人が付き合う前から、ずっと見ていた。


ただ、一緒にいる間に、私が思っていたより、ずっと大きくなっていた。


あのとき、ノートの端に書いた。


《感情》

《想定より大きくなる》

《動く余白まで予定に入れる》


人が予定より大きく動くなら、その分まで考えておけばいい。


五年前、私が間違えたのはそこだった。


それからしばらくして、拓也は不起訴になった。


その知らせを聞いた瞬間、胸が軽くなった。


「よかった」


思わず、声まで出た。


嬉しかった。


やっぱり。


ちゃんと調べれば分かる。


拓也も、何もしていない。


当然だった。


今までだって、私以外は何もしていない。


拓也には、


《無理しないでね。何かあったらいつでも連絡して》


とだけ送った。


しばらくして、


《ありがとう》


と返ってきた。


それ以上は、送らなかった。


今は、そっとしておこう。


その日は、機嫌がよかった。


帰りに、いつもは買わない酒まで買った。


これで、また元に戻る。


そう思った。


その数日後、拓也は死んだ。


自殺だった。


美咲を失ったからなのか。


一度でも疑われたことに耐えられなかったのか。


それとも、他に何かあったのか。


そこは、どうでもよかった。


理由が分かったところで、拓也が戻ってくるわけではない。


悲しい、とは少し違った。


がっかりした。


それから、少し腹が立った。


少しくらい、こっちの予定も考えてくれてもいいのに。


……。


さすがにそれは無理か。


拓也は、私の予定なんて知らない。


当たり前だ。


それでも、少し恨めしかった。


私は、

《いつか》と書かれたページを開いた。


その下には、名前が並んでいた。


美咲。

拓也。

大学時代の知り合いの名前。

前の職場で知り合った人の名前。

何年も会っていない人の名前。


そして、高校時代の友人の名前。


その名前の下に、もう一つ。


小さな名前が書かれている。


五年前には、まだなかった名前。


その小さな名前には、もう線が引かれていた。


その少し下には、夫の名前がある。


そして、子供の名前。


順番に意味はない。


次という意味でもない。


半年後かもしれない。

何年も先かもしれない。


そのまま、何もないかもしれない。


「ご飯できたよ」


リビングから、夫の声がした。


そのあと、あの子の声が聞こえた。


「今行く」


私は、ノートを閉じた。


リビングに行くと、夫が料理を並べていた。


あの子は、椅子に座って、スプーンを握っていた。


私を見ると、嬉しそうに笑った。


「お待たせ」


隣に座って、ずれていたエプロンを直す。


「今日はちゃんと食べてる?」


「さっきからそればっかり食べてるよ」


夫が指さした。


「好きだもんね」


私が言うと、あの子がまた笑った。


口の横に、ご飯粒がついていた。


指で取って、そのまま自分の口に入れる。


「それ俺がやったら怒るじゃん」

「当たり前でしょ」

「何が違うの」

「全部」


夫が笑った。


私も笑った。


「いただきます」


食事の途中、あの子がコップを倒しかけた。


「あ、危ない」


手を伸ばして、ぎりぎりで止めた。


「今日やんちゃだね」

「いつもだろ」

「今日は特に」


あの子は、何も分かっていない顔で笑っている。


私も笑った。


この子が生まれてから、こういうことが増えた。


夜中に起こされることもある。


熱が出れば心配する。


少し食欲がないだけで、何度も様子を見る。


初めて立った日は、夫と二人で喜んだ。


初めて私を呼んだときは、何度も動画を見返した。


可愛くて仕方がない。元気に大きくなってほしいし、どんな子になるのか楽しみだった。


そして、この子が大きくなるほど、知り合う人も増えていく。


保育園や学校、友達。その友達の家族。


私だけなら、一生出会わなかったかもしれない人。


この子はこれから、私の知らないところまで世界を広げていく。


ありがたいと、心から思う。


「何笑ってるの?」


夫が聞いた。


「ん?」


私は、あの子の頭を撫でた。


「大きくなったなと思って」


「まだ小さいだろ」

「前よりは大きいよ」

「そりゃそうだけど」


私は笑った。


嘘ではなかった。


テレビでは、ニュースが流れていた。


画面が切り替わる。


一年前に起きた、子供の死亡事件だった。


逮捕された母親は、裁判でも一貫して関与を否定していた。


今日、判決が出たらしい。


有罪。


夫は箸を止めて、画面を見た。


「これ、覚えてる?」

「覚えてるよ」

「もう一年経つんだな」

「早いね」

「ずっと自分はやってないって言ってた人だよな」

「うん」

「それでも有罪か」


私は、味噌汁を一口飲んだ。


「もう少し我慢できてたら、よかったのにね」


夫が私を見る。


「何が?」


私はテレビを見た。


「分かんない。なんとなく」


「なんだそれ」


夫が笑った。


私も笑った。


「これ美味しい」

「話変えるの早くない?」

「美味しいから」

「じゃあ許す」


もう一口食べる。


「また作って」

「気が向いたら」

「明日でもいいよ」

「早すぎるだろ」


二人で笑った。


あのグループLINEも、今はもう動いていない。


いつからだったか。


一人が抜けて。


また一人、何も送らなくなって。


気づけば、誰も話さなくなった。


最後のメッセージが何だったのかも、もう覚えていない。


本当は、もう少し待つつもりだった。


大きくなれば、もっと面白くなる。それは分かっていた。


それでも、待てなかった。


一年ほど前。


私は、予定より早く、その旅を始めた。


結果は、


《成功》。


失敗ではない。それでも、少し悔しかった。


もう少し待てばよかった。


あと一年。

あと二年。


それだけでも、見える景色は違ったかもしれない。


あの旅が終わった夜。


私は、ノートを開いた。


そのページの余白に、


《我慢》


と書いた。


少し考えて、その下にもう一つ。


《待つのも予定のうち》


五年前は人の感情を読み違え、一年前は自分を抑えきれなかった。


そのたびに考えることが増え、《失敗》も減っていった。


旅を重ねるたびに、知らなかったことを一つずつ覚えていく。


同じところで道を間違えないようにする。そうやって、少しずつ行きたい場所まで辿り着けるようになった。


私は、少し前のページまで戻った。


美咲。


拓也。


二本の線が並んでいる。


今でも、あの二人の名前を見ると思う。


もったいなかった。


十年かけて、ようやくここまで来たのに。最後の最後で、レールから外れた。


拓也は不起訴になった。これなら、またいつか会える。


そう思えたばかりだった。


なのに、自分でいなくなった。


美咲だけでなく、拓也までいなくなった。


五年経っても、やっぱり、もったいなかったと思う。


その夜。


あの子を寝かせたあと、リビングに戻ると、夫がソファに座っていた。


「寝た?」

「やっと」

「今日元気だったもんな」

「寝る直前まで元気だった」


私は、夫の隣に座った。


「お疲れさま」


夫が言った。


「ありがとう。そっちもお疲れさま」


少しだけ、夫にもたれた。


夫は何も言わず、テレビの音を少し小さくした。


こういう時間は、好きだった。


しばらくして、夫が先に寝室へ行った。


私は、テーブルの上を片づけた。


最後に、あの子の部屋を覗く。


布団を蹴っていた。


「もう」


小さな声で言って、掛け直す。


頬にかかっていた髪を、指で避けた。


起こさないように、そっと頭を撫でる。


よく眠っていた。


大きくなったら、どんな子になるのだろう。


楽しみだった。


私は、静かに扉を閉めた。


寝る前。


私は、机の前に座った。


一番下の引き出しから、黒いノートを取り出す。


《いつか》と書かれたページ。


そこには、まだいくつも名前が残っている。


夫の名前。


子供の名前。


どちらにも、まだ線は引いていない。


いつになるのかは、分からない。


半年後かもしれない。


十年後かもしれない。


そのまま、何もないかもしれない。


自分の家族を相手に旅をしたことは、まだない。


そのとき何が見えるのかも、知らない。


美咲と拓也のときでさえ、胸が高鳴った。


十年かけて、二人を見てきた。


その先に、まだ見たことのない景色があると思うだけで、胸が高鳴った。


それが、夫なら。


あの子なら。


毎日一緒にいて、笑って、心配して、大切にしている人。


今までより、もっと長く一緒にいたあとなら。


私は、どんな気持ちになるのだろう。


どんな景色になるのだろう。


想像しようとしても、まだうまくできない。


だからこそ、楽しみだった。


きっと、これまでとは違う景色になる。


いつか。


もし、その日が来たら。


今度こそ、最後まで見てみたい。


私は、そのままページをめくった。


次のページには、もう名前が書いてある。


その名前は、その先のページにも続いていた。


日付。


短い文章。


その人の周りにいる人たち。


変わったこと。


気づいたこと。


考え直したこと。


書き足した言葉と、消した跡。


決まっていることも、まだ決めていないこともある。


ページは、少しずつ埋まっていた。


今回の人は、もう決まっている。


名前を書いて、計画を立て始めたときから、私の旅は始まっていた。


私は、今日書き足したところを読み返した。


少し違う。


鉛筆を持って、一行だけ直す。


その下に、新しく一つ書き足した。


悪くない。


でも、まだ足りない。


もっと考えられるし、もっと待てる。


五年前のように人の感情を読み違えず、一年前のように自分から急ぎすぎないように。


今度は、急がない。


せっかくなら、最後まで行きたい。


私が決めた場所まで。


「まだ寝ないの?」


寝室から、夫の声がした。


「今行く」

「明日起きれなくても知らないよ」

「起こして」

「毎回それ言うよね」

「起こしてくれるから」

「はいはい」


私は、ノートを閉じた。


一番下の引き出しに戻した。


部屋の明かりを消し、寝室へ向かってベッドに入った。


「あの子、また布団蹴ってたよ」

「また?」

「掛けといた」

「ありがとう」


少しして、夫が言った。


「おやすみ」

「おやすみ」


隣で、夫が目を閉じた。


私は、暗い天井を見た。


今回の旅は、どんな景色になるのだろう。


予定通り、最後まで進めるだろうか。


考えていると、目が冴えてきた。


私は、小さく笑った。


今夜もたぶん、


楽しみで眠れない。


旅が始まった夜は、

いつもそうだった。



そういえば、


ずっと私を見ていた人がいる。



あなたと、


旅をするのは、


いつになるのだろう。

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