絶景
朝からずっと落ち着かなかった。
何度も時計を見ては、意味もなくスマートフォンを確認した。
緊張しているのは、自分でも分かっていた。
「なんでそんなに緊張してるの?」
美咲が笑った。
「だって、緊張するでしょ」
「結婚するの私なんだけど」
「俺もちょっと緊張してるけどな」
拓也が横から言った。
「拓也は緊張してていいの」
美咲が笑う。
「じゃあ、私は?」
「楽しんでればいいの」
「今日まで長かったね」
私が言うと、美咲は少し考えてから頷いた。
「長かった。大学からだもんね」
「もう十年か」
拓也が言った。
十年。口にすると、思っていたより長く感じた。
「今日は絶対泣くでしょ」
美咲が私を見る。
「どうだろう」
「絶対泣く。私より泣きそう」
「それはない」
「あるって」
三人で笑った。
楽しかったし、嬉しかった。それでも緊張は消えなかった。
もうすぐだったから。
披露宴が始まる四十分ほど前。
「美咲がいない」
最初にそう言ったのは、拓也だった。
私は控室の前にいた。
最初は誰も深刻には考えていなかった。
トイレかもしれない。誰かと電話しているのかもしれない。少し外の空気を吸いに行っただけかもしれない。そんな声があちこちから聞こえた。
でも、十分経っても、二十分経っても、美咲は戻ってこなかった。
「電話は?」
「出ない」
拓也は何度もスマートフォンを耳に当てていた。
「もう一回かけてみる」
「うん」
少しして、控室からスタッフの人が出てきた。
「新婦様の携帯電話なんですが……」
美咲のスマートフォンは、控室にあった。
財布もあった。
ドレスも残されていた。どこかで着替えたらしい。
それなのに、誰も美咲が出ていくところを見ていなかった。
式場のスタッフが、館内を探し始めた。
「俺、外見てくる」
拓也が言った。
「待って」
私は止めた。
「スタッフの人も探してくれてるし、美咲が戻ってくるかもしれないでしょ」
「でも」
「拓也までいなくなったら、連絡来たとき困るよ」
拓也は一度、立ち止まった。
「すぐ戻る」
そう言って、結局そのまま走っていった。
私は、その背中を見送った。
美咲のことが、本当に好きなんだと思った。
警察が来たのは、それからしばらくしてからだった。
披露宴は中止になった。
事情を知らない招待客たちは、式場の人から説明を受け、少しずつ帰っていった。
さっきまで、美咲と拓也の結婚を祝うために集まっていた人たち。
今はみんな、美咲がどこへ行ったのかを話していた。
私は、その様子を見ていた。
式場の防犯カメラには、美咲の姿が映っていた。
黒いコートを羽織り、一人でスタッフ用の通路から外へ出て、式場の近くに停まっていた車に乗っていた。
車の持ち主は、亮介だった。
美咲の元彼。
高校時代から付き合っていて、大学に入って間もなく別れた人だった。
私は、美咲から何度か話を聞いたことがある程度だった。
別れてからも、たまに連絡を取っていたらしい。
警察は亮介から事情を聞いた。
美咲から連絡が来た。
迎えに来てほしいと言われた。
車に乗せた。
途中で降ろした。
亮介が話したのは、そういうことだったらしい。
「それだけですか?」
私は警察の人に聞いた。
「今は詳しくお話しできません」
「でも、美咲が最後に乗った車なんですよね」
「確認できることは、すべて確認しています」
私は少し迷ってから聞いた。
「亮介、本当にちゃんと調べてもらえてるんですか」
「もちろんです」
その言葉を聞いて、私は黙って頷いた。
拓也が戻ってきたのは、かなり経ってからだった。
息を切らしていた。
「どこ行ってたの?」
「この辺。駅の方とか、公園とか」
「一人で?」
「うん」
拓也は、どこをどう探したのか自分でも整理できていないようだった。
「美咲は?」
「まだ」
私がそう答えると、拓也は何も言わなかった。
拓也は椅子に腰を下ろし、組んだ両手を見つめていた。
ただ、必死だったのだと思う。
その日は、結局、美咲は見つからなかった。
次の日も。
その次の日も。
式場で見た人たちの顔を、何度も思い出した。
拓也。
美咲の家族。
集まっていた友人たち。
時間が経つにつれて、
「どこにいるんだろう」という言葉を、
聞かなくなっていった。
代わりに、誰も口にしないことを、みんなが考え始めているように見えた。
それでも、時間だけは過ぎていった。
四日後。
美咲が見つかった。
死んでいた。
連絡を受けたとき、私は泣いた。
涙が、なかなか止まらなかった。
大学一年の春に美咲と出会い、そのあと拓也と出会った。
三人で講義を受け、ご飯を食べ、旅行にも行った。卒業してからも何度も会った。二人が付き合い始め、結婚すると聞いたときは、本当に嬉しかった。
そんな十年分の出来事が、一度に頭に浮かんだ。
それから、警察に何度か話を聞かれた。
美咲と最後に話したのはいつか。
最近、変わった様子はなかったか。
拓也との関係はどうだったか。
亮介のことを、どこまで知っているか。
私は、一つずつ答えた。
葬儀の日。
拓也は、ほとんど話さなかった。
美咲の遺影の前に座っていた。
焼香を終えても、しばらく動かなかった。
後ろに人が待っていても、気づいていないようだった。
係の人に声をかけられて、ようやく立ち上がった。
私は少し離れたところから、その姿を見ていた。
十年も知っている拓也が、その日は知らない人のように見えた。
警察は、亮介を調べ続けていた。
私も、そうなると思っていた。
でも、少しずつ話が変わっていった。
美咲と拓也は、結婚を前に何度か言い争っていたらしい。
拓也は、最初の聞き取りでは、そのことを話していなかった。
結婚式の前夜にも、二人は口論していた。
そして、美咲がいなくなったあと。
拓也が一人で探しに出た時間。
本人が話した行動と、確認できた行動には、合わない部分があった。
それだけではなかった。私たちの知らなかった事情や、警察が調べて初めて分かったこと。偶然の重なりもあった。
小さな疑問が一つずつ、拓也の方へ向かっていった。
それでも私は、亮介の名前が頭から離れなかった。
だって、拓也だけは違う。
そう思っていた。
数日後。
私は家で、テレビをつけたまま夕食を食べていた。
ニュースから聞き覚えのある地名が流れ、私は箸を止めた。
画面には拓也の顔が映っていた。
「……拓也?」
涙が出た。
大学の頃の拓也。
美咲と付き合い始めた頃の拓也。
結婚すると報告してきたときの拓也。
十年分の記憶が、一気によみがえった。
けれど、次の言葉を聞いた瞬間、涙が止まった。
拓也が、逮捕された。
しばらく、テレビの音だけが聞こえていた。
十年前。
大学で美咲と出会った。
そのあと拓也と出会って、三人になった。
三人で笑って、卒業して、二人が付き合って、結婚式の日を迎えた。
十年。
長かった。
大学一年の春には、美咲と友達になるなんて、思ってもいなかった。
その美咲が、拓也を連れてくることも。
二人が付き合うことも。
結婚することも。
振り返れば、思いがけないことばかりだった。楽しいことも、驚くことも、予定になかったことも、たくさんあった。
それでも、ここまで来た。
ずいぶん遠くまで来たと思う。
人生は、旅に似ているのかもしれない。
どこで誰と出会うのか。
誰と一緒に歩くのか。
その途中で、何が起きるのか。
出発したときには、誰にも分からない。
私たちも、そうだった。
そして、私たち三人の旅は、ここまでだった。
長い、十年間の旅だった。
終
あれから、五年が経った。
私は、机の一番下の引き出しを開けた。
黒いノートを取り出す。
前より、少し厚くなった。
ページをめくる。
名前。
日付。
短い文章。
何ページも続いている。
いくつものページの末尾に、同じような文字が並んでいた。
《成功》
《成功》
《失敗》
《成功》
《成功》
……。
さらに、数ページめくる。
《成功》
《成功》
《成功》
五年前と比べると、
《失敗》は減った。
美咲のときに、考え直したことがいくつもあった。
人は、思っているより動く。
感情は、思っているより大きくなる。
自分の知らないところで、関係も変わっていく。
あの旅は《失敗》だった。
でも、無駄ではなかった。
私は、ページを戻した。
五年前。
美咲。
その名前の横には、
《失敗》
と書いてある。
私は、人を見るのが好きだった。
誰が誰を好きで、誰を嫌っているのか。何を隠しているのか。
そこから一人がいなくなったとき、残された人たちはどう動くのか。
誰を疑い、誰を庇い、誰に嘘をつくのか。
私が始めた。
そして、終わるところまで見届けた。
誰かに任せたことはない。
それでは、意味がないから。
私が敷いたレールの上を、人が進んでいく。
疑い、庇い、嘘をつきながら、思い描いた場所へ近づいていく。
私が設定した人間が、逮捕されるところまで。
そこまで行けば、
《成功》。
私が見たいのは、そこまでだった。
そのあと釈放されても、不起訴になっても、裁判まで進んでも構わない。
その先は、もうどうでもいい。
旅行から帰ったあと、その街に雨が降ろうと晴れようと、私には関係ない。
もう、そこにはいないのだから。
私の旅も、そこで終わっている。
美咲と出会ったのは、大学一年の春だった。
今から、十五年前。
その少し前、大学に入って最初の旅を終えた。
その人がいなくなれば、いくつかの予定が変わる。人が動き、空く場所ができる。
そこまで、私は考えていた。
そして予定通り、空いた席に座った。
前でも、後ろでも、隣でもよかった。
近くに座った誰かと、少し話してみる。
考えていたのは、そのくらいだった。
隣にいたのが、美咲だった。
講義が終わって、私が席を立とうとしたときだった。
「これ、次の講義でも使うんだっけ?」
美咲が、私の机に置いていた教科書を指さした。
「たぶん使うと思う」
「やっぱり? ありがとう」
それが、最初の会話だった。
そこから先は、予定にはなかった。
次の講義でも、美咲は近くに座った。
その次も。
一緒にご飯を食べるようになった。
気づけば、友達になっていた。
しばらくして、美咲が言った。
「今度、友達も連れてきていい?」
「いいよ」
連れてきたのが、拓也だった。
拓也のことは、何も知らなかった。
私の予定には、どこにもいなかった。
だから、嬉しかった。
知らない人が一人増える。
その人が誰かと知り合う。
仲良くなる。
嫌いになる。
好きになる。
それだけで、考えられることが増える。
予定が壊れるのではない。選択肢が増えるのだ。
そういう偶然が、私はとても好きだった。
それから、三人でいることが増えた。
大学の四年間、三人で遊んで、笑った。どこにでもいる、普通の友達だった。
卒業が近づいた頃。
三人で話しているとき、私は冗談っぽく言った。
「二人、付き合えば?」
美咲が笑った。
「何それ」
拓也も笑っていた。
私も笑った。
そのときは、それで終わった。
でも、しばらくして、二人は本当に付き合った。
卒業してからも、二人の関係は続いた。
そして、結婚すると聞いた。
二人の結婚は、これまで別々だった人たちの関係も広げていく。
それが、私には嬉しかった。
その頃、高校時代のグループLINEにも、久しぶりに通知が来た。
六人ほどのグループだった。
高校を卒業してからも、たまに誰かが写真を送ったり、近況を報告したりしていた。
その中の一人が、メッセージを送ってきた。
《報告! 赤ちゃんできました》
お祝いの言葉が続いた。
私も、
《おめでとう!》
と送った。
《久しぶりにみんなで集まろうよ》
誰かがそう言って、本当に集まることになった。
何年も会っていない友人たちは、今どんな人になっているのだろう。
それに、今度は一人増えるらしい。
子供。
最後に子供を間近で見たのは、いつだっただろう。
私は、予定を見直した。
美咲は、もう少し先でもいいと思っていた。
十年も知っている。拓也もいる。結婚すれば、新しいつながりも生まれる。
まだ、いくらでも待てると思っていた。
でも、子供は違う。生まれてから、家族や友達、学校へと、その世界は広がっていく。
その先にも、きっといろいろある。
それなら、もう少し見ていたい。
そう思った。
だから、順番を変えた。
美咲を、先にした。
結婚式の日。
美咲がいなくなった。
私が設定していたのは、亮介だった。
でも、逮捕されたのは、拓也だった。
だから、
《失敗》だった。
拓也だけは違う。
あのときは、拓也ではなかった。
美咲がいなくなったとき、拓也は一人で探しに出た。
私は止めた。
スタッフが探している。
美咲が戻ってくるかもしれない。
拓也までいなくなったら、連絡が来たとき困る。
どれも、間違ったことは言っていない。
それでも、拓也は行った。
私が思っていたより、ずっと必死に。
その時間が、あとから拓也自身を疑わせることになった。
美咲が見つかった日に、私は泣いた。
あれは、演技ではなかった。
十年かけて、ようやくここまで来た。
その間に予定は何度も変わった。美咲も拓也も、少しずつ変わっていった。
それでも、ここまで来た。
あとは、最後の景色を待つだけだった。
そのとき、どんな景色が見えるのか。
私にも分からなかった。
まだ見たことのない絶景が、もうすぐそこまで来ている。
そう思ったら、涙が出た。
涙は本物だった。
ただ、見ていた景色が違っただけだ。
拓也が逮捕されたニュースを見たときも、最初は涙が出た。
画面に拓也が映った瞬間、十年間が戻ってきた。
「……拓也?」
そこで、涙が止まった。
違う。
拓也じゃない。
私が、そこに置いたのは拓也じゃない。
十年かけて進んできたものが、最後の最後で、私の知らない方へ進んでいた。
葬儀の日のことも、思い出した。
美咲の遺影の前に座ったまま、なかなか動かなかった拓也。
係の人に声をかけられて、ようやく立ち上がった。
あのときは、呆然としているだけだと思っていた。
でも、あとになって分かった。
拓也は、あの場所から離れたくなかったのだ。
美咲のそばから。
私は、拓也が美咲を好きなのは知っていた。
二人が付き合う前から、ずっと見ていた。
ただ、一緒にいる間に、私が思っていたより、ずっと大きくなっていた。
あのとき、ノートの端に書いた。
《感情》
《想定より大きくなる》
《動く余白まで予定に入れる》
人が予定より大きく動くなら、その分まで考えておけばいい。
五年前、私が間違えたのはそこだった。
それからしばらくして、拓也は不起訴になった。
その知らせを聞いた瞬間、胸が軽くなった。
「よかった」
思わず、声まで出た。
嬉しかった。
やっぱり。
ちゃんと調べれば分かる。
拓也も、何もしていない。
当然だった。
今までだって、私以外は何もしていない。
拓也には、
《無理しないでね。何かあったらいつでも連絡して》
とだけ送った。
しばらくして、
《ありがとう》
と返ってきた。
それ以上は、送らなかった。
今は、そっとしておこう。
その日は、機嫌がよかった。
帰りに、いつもは買わない酒まで買った。
これで、また元に戻る。
そう思った。
その数日後、拓也は死んだ。
自殺だった。
美咲を失ったからなのか。
一度でも疑われたことに耐えられなかったのか。
それとも、他に何かあったのか。
そこは、どうでもよかった。
理由が分かったところで、拓也が戻ってくるわけではない。
悲しい、とは少し違った。
がっかりした。
それから、少し腹が立った。
少しくらい、こっちの予定も考えてくれてもいいのに。
……。
さすがにそれは無理か。
拓也は、私の予定なんて知らない。
当たり前だ。
それでも、少し恨めしかった。
私は、
《いつか》と書かれたページを開いた。
その下には、名前が並んでいた。
美咲。
拓也。
大学時代の知り合いの名前。
前の職場で知り合った人の名前。
何年も会っていない人の名前。
そして、高校時代の友人の名前。
その名前の下に、もう一つ。
小さな名前が書かれている。
五年前には、まだなかった名前。
その小さな名前には、もう線が引かれていた。
その少し下には、夫の名前がある。
そして、子供の名前。
順番に意味はない。
次という意味でもない。
半年後かもしれない。
何年も先かもしれない。
そのまま、何もないかもしれない。
「ご飯できたよ」
リビングから、夫の声がした。
そのあと、あの子の声が聞こえた。
「今行く」
私は、ノートを閉じた。
リビングに行くと、夫が料理を並べていた。
あの子は、椅子に座って、スプーンを握っていた。
私を見ると、嬉しそうに笑った。
「お待たせ」
隣に座って、ずれていたエプロンを直す。
「今日はちゃんと食べてる?」
「さっきからそればっかり食べてるよ」
夫が指さした。
「好きだもんね」
私が言うと、あの子がまた笑った。
口の横に、ご飯粒がついていた。
指で取って、そのまま自分の口に入れる。
「それ俺がやったら怒るじゃん」
「当たり前でしょ」
「何が違うの」
「全部」
夫が笑った。
私も笑った。
「いただきます」
食事の途中、あの子がコップを倒しかけた。
「あ、危ない」
手を伸ばして、ぎりぎりで止めた。
「今日やんちゃだね」
「いつもだろ」
「今日は特に」
あの子は、何も分かっていない顔で笑っている。
私も笑った。
この子が生まれてから、こういうことが増えた。
夜中に起こされることもある。
熱が出れば心配する。
少し食欲がないだけで、何度も様子を見る。
初めて立った日は、夫と二人で喜んだ。
初めて私を呼んだときは、何度も動画を見返した。
可愛くて仕方がない。元気に大きくなってほしいし、どんな子になるのか楽しみだった。
そして、この子が大きくなるほど、知り合う人も増えていく。
保育園や学校、友達。その友達の家族。
私だけなら、一生出会わなかったかもしれない人。
この子はこれから、私の知らないところまで世界を広げていく。
ありがたいと、心から思う。
「何笑ってるの?」
夫が聞いた。
「ん?」
私は、あの子の頭を撫でた。
「大きくなったなと思って」
「まだ小さいだろ」
「前よりは大きいよ」
「そりゃそうだけど」
私は笑った。
嘘ではなかった。
テレビでは、ニュースが流れていた。
画面が切り替わる。
一年前に起きた、子供の死亡事件だった。
逮捕された母親は、裁判でも一貫して関与を否定していた。
今日、判決が出たらしい。
有罪。
夫は箸を止めて、画面を見た。
「これ、覚えてる?」
「覚えてるよ」
「もう一年経つんだな」
「早いね」
「ずっと自分はやってないって言ってた人だよな」
「うん」
「それでも有罪か」
私は、味噌汁を一口飲んだ。
「もう少し我慢できてたら、よかったのにね」
夫が私を見る。
「何が?」
私はテレビを見た。
「分かんない。なんとなく」
「なんだそれ」
夫が笑った。
私も笑った。
「これ美味しい」
「話変えるの早くない?」
「美味しいから」
「じゃあ許す」
もう一口食べる。
「また作って」
「気が向いたら」
「明日でもいいよ」
「早すぎるだろ」
二人で笑った。
あのグループLINEも、今はもう動いていない。
いつからだったか。
一人が抜けて。
また一人、何も送らなくなって。
気づけば、誰も話さなくなった。
最後のメッセージが何だったのかも、もう覚えていない。
本当は、もう少し待つつもりだった。
大きくなれば、もっと面白くなる。それは分かっていた。
それでも、待てなかった。
一年ほど前。
私は、予定より早く、その旅を始めた。
結果は、
《成功》。
失敗ではない。それでも、少し悔しかった。
もう少し待てばよかった。
あと一年。
あと二年。
それだけでも、見える景色は違ったかもしれない。
あの旅が終わった夜。
私は、ノートを開いた。
そのページの余白に、
《我慢》
と書いた。
少し考えて、その下にもう一つ。
《待つのも予定のうち》
五年前は人の感情を読み違え、一年前は自分を抑えきれなかった。
そのたびに考えることが増え、《失敗》も減っていった。
旅を重ねるたびに、知らなかったことを一つずつ覚えていく。
同じところで道を間違えないようにする。そうやって、少しずつ行きたい場所まで辿り着けるようになった。
私は、少し前のページまで戻った。
美咲。
拓也。
二本の線が並んでいる。
今でも、あの二人の名前を見ると思う。
もったいなかった。
十年かけて、ようやくここまで来たのに。最後の最後で、レールから外れた。
拓也は不起訴になった。これなら、またいつか会える。
そう思えたばかりだった。
なのに、自分でいなくなった。
美咲だけでなく、拓也までいなくなった。
五年経っても、やっぱり、もったいなかったと思う。
その夜。
あの子を寝かせたあと、リビングに戻ると、夫がソファに座っていた。
「寝た?」
「やっと」
「今日元気だったもんな」
「寝る直前まで元気だった」
私は、夫の隣に座った。
「お疲れさま」
夫が言った。
「ありがとう。そっちもお疲れさま」
少しだけ、夫にもたれた。
夫は何も言わず、テレビの音を少し小さくした。
こういう時間は、好きだった。
しばらくして、夫が先に寝室へ行った。
私は、テーブルの上を片づけた。
最後に、あの子の部屋を覗く。
布団を蹴っていた。
「もう」
小さな声で言って、掛け直す。
頬にかかっていた髪を、指で避けた。
起こさないように、そっと頭を撫でる。
よく眠っていた。
大きくなったら、どんな子になるのだろう。
楽しみだった。
私は、静かに扉を閉めた。
寝る前。
私は、机の前に座った。
一番下の引き出しから、黒いノートを取り出す。
《いつか》と書かれたページ。
そこには、まだいくつも名前が残っている。
夫の名前。
子供の名前。
どちらにも、まだ線は引いていない。
いつになるのかは、分からない。
半年後かもしれない。
十年後かもしれない。
そのまま、何もないかもしれない。
自分の家族を相手に旅をしたことは、まだない。
そのとき何が見えるのかも、知らない。
美咲と拓也のときでさえ、胸が高鳴った。
十年かけて、二人を見てきた。
その先に、まだ見たことのない景色があると思うだけで、胸が高鳴った。
それが、夫なら。
あの子なら。
毎日一緒にいて、笑って、心配して、大切にしている人。
今までより、もっと長く一緒にいたあとなら。
私は、どんな気持ちになるのだろう。
どんな景色になるのだろう。
想像しようとしても、まだうまくできない。
だからこそ、楽しみだった。
きっと、これまでとは違う景色になる。
いつか。
もし、その日が来たら。
今度こそ、最後まで見てみたい。
私は、そのままページをめくった。
次のページには、もう名前が書いてある。
その名前は、その先のページにも続いていた。
日付。
短い文章。
その人の周りにいる人たち。
変わったこと。
気づいたこと。
考え直したこと。
書き足した言葉と、消した跡。
決まっていることも、まだ決めていないこともある。
ページは、少しずつ埋まっていた。
今回の人は、もう決まっている。
名前を書いて、計画を立て始めたときから、私の旅は始まっていた。
私は、今日書き足したところを読み返した。
少し違う。
鉛筆を持って、一行だけ直す。
その下に、新しく一つ書き足した。
悪くない。
でも、まだ足りない。
もっと考えられるし、もっと待てる。
五年前のように人の感情を読み違えず、一年前のように自分から急ぎすぎないように。
今度は、急がない。
せっかくなら、最後まで行きたい。
私が決めた場所まで。
「まだ寝ないの?」
寝室から、夫の声がした。
「今行く」
「明日起きれなくても知らないよ」
「起こして」
「毎回それ言うよね」
「起こしてくれるから」
「はいはい」
私は、ノートを閉じた。
一番下の引き出しに戻した。
部屋の明かりを消し、寝室へ向かってベッドに入った。
「あの子、また布団蹴ってたよ」
「また?」
「掛けといた」
「ありがとう」
少しして、夫が言った。
「おやすみ」
「おやすみ」
隣で、夫が目を閉じた。
私は、暗い天井を見た。
今回の旅は、どんな景色になるのだろう。
予定通り、最後まで進めるだろうか。
考えていると、目が冴えてきた。
私は、小さく笑った。
今夜もたぶん、
楽しみで眠れない。
旅が始まった夜は、
いつもそうだった。
そういえば、
ずっと私を見ていた人がいる。
あなたと、
旅をするのは、
いつになるのだろう。




