皇太子殿下の毒見役になったはずが、毎日食卓に並ぶのは私の好物ばかりです ~殿下が自ら厨房に立つ理由は、偶然ではないそうです~
皇太子付きの毒見役。
その求人の貼り紙を見たとき、私の頭に浮かんだのは、命の危険でも名誉でもなく、給金の欄に書かれた数字だった。
「……ニーナ、本当に行くのかい」
出発の朝、父は玄関先で何度も同じことを聞いた。
アルトマイヤー子爵家。名前だけは立派だけれど、屋敷の屋根は雨漏りがひどく、使用人は年老いた家令のペーターひとりきり。三年前の不作で抱えた借金は、利子だけが元気に育っている。
「行きます。毒見役の給金なら、二年で借金が返せますもの」
「しかし、毒見だぞ。前の毒見役は……」
「倒れたけれど、命は助かったと聞いています」
父が言葉に詰まる。
私はできるだけ明るく笑ってみせた。
「大丈夫です、お父様。おばあさまに仕込まれた舌がありますから」
薬師だった祖母は、幼い私に薬草の味を一つずつ覚えさせた。苦いもの、渋いもの、舌がぴりりと痺れるもの。毒になる草とならない草の、ほんのわずかな味の違い。
何の役に立つのかと思っていたその知識が、まさか皇宮で役に立つ日が来るなんて。
(……役に立つ、で済めばいいけれど)
膝が少しだけ震えたのは、朝の冷え込みのせいということにしておいた。
皇宮の食堂は、子爵家の屋敷がまるごと入りそうなほど広かった。
長い長い卓の端に、その人はひとりで座っていた。
ヴィクトール・ラインフェルト皇太子殿下。
銀の髪に、冬の湖のような青い瞳。笑ったところを誰も見たことがないという噂の、氷の皇太子。
「本日より殿下の毒見役を務めます、ニーナ・アルトマイヤーと申します」
膝を折って挨拶をすると、殿下は私をじっと見た。
長い沈黙。
「……子爵家の令嬢が、なぜ毒見役に」
「給金がよろしいので」
正直に答えてしまってから、しまったと思った。
侍従のオットーさんが、隣で小さく咳払いをする。
けれど殿下は、怒るでもなく、ただ眉を寄せただけだった。
「……そうか」
それきり、殿下は何も言わなかった。
運ばれてきたのは、鴨の煮込み、白身魚の香草焼き、根菜のポタージュ、焼きたてのパン。
私は小さな銀の匙で、一皿ずつ少量を口に運ぶ。
舌の上で転がし、香りを確かめ、喉の奥に残る後味を探る。
(鴨。赤葡萄酒。月桂樹。……大丈夫)
(魚。ローズマリーに、檸檬の皮。……大丈夫)
ひと皿ごとに、心臓が嫌な音を立てた。
それでも私は顔に出さないよう努めて、最後のパンをちぎった。
「すべて問題ございません。どうぞお召し上がりください」
顔を上げると、殿下はなぜか、ひどく苦いものを噛んだような顔をしていた。
(……あれ? 私、何か粗相をした?)
殿下は黙って食事を始め、私は壁際に下がった。
食事が終わるまで、殿下は一度も私のほうを見なかった。
嫌われたのだと思った。
翌朝。
食堂に向かうと、扉の前でオットーさんが困り果てた顔をして立っていた。
「アルトマイヤー嬢。本日の朝食は、こちらではございません」
「え?」
「……厨房へ、お越しください」
意味が分からないまま案内された皇宮の厨房には、白い前掛けをつけた料理人たちが、一列に並んで固まっていた。
その視線の先。
かまどの前に、銀の髪の男性が立っていた。
袖をまくり、前掛けをつけ、手には木べら。
「……殿下?」
「来たか」
殿下は振り返りもせずに言った。
鍋の中で、何かが盛大に焦げる匂いがした。
「あの、殿下。これは一体」
「今日から、私の食事は私が作る」
「……はい?」
「私が作れば、毒見は要らない」
料理長のグスタフさんが、天を仰いだ。
私は、言葉の意味を理解するまでにたっぷり三つ数えた。
(毒見は、要らない)
(……つまり、私は要らない?)
さっと血の気が引いた。
給金。借金。雨漏りの屋根。父の顔。
「お、お待ちください! それでは私は解雇ということでしょうか!?」
「解雇はしない」
「では、私は何を」
「……そこに座っていればいい」
殿下が木べらで示したのは、厨房の隅に置かれた、小さな椅子と小さな卓だった。
どう見ても、昨日まではなかったものだ。
「座って、何をすれば」
「食べればいい」
「毒見を、ですか」
「毒見ではない」
殿下はようやく振り返った。
青い瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「朝食だ」
そうして目の前に置かれたのは、端が黒く焦げた卵焼きと、なぜか白く濁ったスープだった。
毒見は要らない、と殿下は言った。
けれど私は毒見役だ。給金をいただいている以上、役目は果たさねばならない。
だから私は、殿下が自分の皿に匙をつける前に、素早く殿下の皿のスープをひと匙すくった。
「おい」
「規則ですので」
舌に乗せた瞬間、私は固まった。
(しょっぱい!!)
しょっぱい。しょっぱすぎる。海の水を煮詰めたらこうなるのではないかという塩辛さ。
毒の味を探すどころではない。舌が塩に溺れている。
「……どうだ」
殿下が、妙に真剣な顔でこちらを見ている。
私は涙目になりながら、どうにか言葉を絞り出した。
「毒は、入っておりません」
「そうか」
「……塩は、少々入りすぎておりますが」
厨房の奥で、誰かが吹き出しかけて、慌てて咳でごまかした。
殿下は無言でスープを口に運び、無言で眉間に皺を寄せ、無言で水を飲んだ。
「……少々ではないな」
「はい。だいぶです」
あっ、と口を押さえたけれど、もう遅い。
皇太子殿下の料理に、だいぶしょっぱいと言ってしまった。今度こそ解雇だ。
ところが殿下は、前掛けの隠しから小さな手帳を取り出すと、何かを書き付けた。
「塩、半分以下。……他には」
「え」
「他に、気づいたことは」
「……卵焼きは、火が強すぎると思います。弱火で、ゆっくり巻くほうが」
「弱火。ゆっくり」
さらさらと、殿下の手が動く。
私はぽかんとそれを見つめた。
(この方、本気でお料理をなさるつもりなんだわ)
氷の皇太子と呼ばれる人が、前掛け姿で手帳に「弱火」と書いている。
その光景があまりに不思議で、怖いはずの殿下が、少しだけ怖くなくなった。
二日目のスープは、塩が足りなかった。
三日目のスープは、ちょうどよかった。
五日目には、卵焼きがきれいな黄色になった。
七日目には、焼き魚の皮がぱりっと香ばしくなった。
殿下は、驚くほどの速さで上達していった。
朝は誰より早く厨房に立ち、昼は政務の合間に仕込みをし、夜はグスタフさんに頭を下げて包丁の扱いを習っているらしい。
「殿下は、あの調子で執務もこなしておられるのですか?」
ある日、こっそりオットーさんに聞いてみた。
オットーさんは遠い目をした。
「睡眠時間を削っておられます」
「えっ」
「お止めしたのですが、聞く耳をお持ちでなく」
「どうして、そこまで……」
オットーさんは何か言いかけて、口をつぐんだ。
「それは、殿下ご本人にお尋ねください」
尋ねる勇気は、なかった。
代わりに私は、今日も殿下の皿からひと匙すくう。毒見役として。
「毒は入っておりません」
「……君は、まだそれを言うのか」
「規則ですので」
「私が作ったのだぞ」
「存じております。それでも、食材が運ばれる途中で何かあるかもしれませんから」
殿下は、また苦いものを噛んだような顔をした。
初日に見たのと、同じ顔だった。
(やっぱり、私の毒見がお嫌いなのね)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
異変に気づいたのは、十日目の朝だった。
卓に置かれた皿を見て、私は思わず声を上げた。
「……林檎と蕪のスープ」
淡い黄色の、とろりとしたスープ。
すりおろした林檎の甘さと、蕪のやさしさ。仕上げにほんの少しの胡椒。
子爵領の、冬の家庭料理だ。皇宮で出るような品ではない。
ひと匙すくって、私は息を止めた。
(……おばあさまの味に、似てる)
もちろん、まったく同じではない。けれど、林檎の甘さが勝ちすぎない加減とか、蕪を最後まで煮崩さない食感とか。
「どうだ」
「……毒は、入っておりません」
それしか言えなかった。
声が震えないようにするので、精一杯だったから。
殿下は「そうか」とだけ言って、自分も黙ってスープを飲んだ。
その日から、食卓は少しずつおかしくなっていった。
ライ麦の黒パン。くるみと干し葡萄入り。
これは私が子どものころ、誕生日にだけ祖母が焼いてくれたものだ。
鱒の塩焼き。香草はディルだけ。
子爵領の川でよく獲れる魚で、私はこれが何より好きだった。
焼き林檎。芯をくり抜いて、蜂蜜とシナモンを詰めたもの。
……これは、私が熱を出したとき、父が不器用な手つきで作ってくれた。
(偶然、よね?)
(偶然に決まっているわ。どれも素朴な料理だもの。殿下が、たまたま、作りやすいものを選んでいらっしゃるだけで)
そう言い聞かせながら、私は毎朝、毎晩、匙を口に運んだ。
毒の味を探すために。
そして毎回、毒の代わりに、泣きたくなるほど懐かしい味を見つけてしまった。
「……どうだ」
「毒は入っておりません」
「そうか」
決まり文句のようなやりとり。
けれど、殿下の「そうか」の声が、日に日にやわらかくなっていく気がした。
気のせいだと思うことにした。
毒見役が、皇太子殿下の声のやわらかさなんて、気にしてはいけないのだ。
二十日目。
厨房の隅の小さな卓に、とうとうそれが出てきた。
苺のタルト。
さくさくの生地に、薄く敷いたカスタード。その上に、つやつやの苺がぎっしり。
私は固まった。
苺のタルトは、私がこの世で一番好きなお菓子だ。
そして、子爵家が傾いてから、一度も口にしていないものだ。
(どうして)
(どうして、殿下がこれを)
偶然では、もう、片付けられなかった。
「……殿下」
「なんだ」
「どうして、私の好きなものばかりお作りになるのですか」
殿下の手が、ぴたりと止まった。
厨房の料理人たちが、そろってこちらに背を向けた。全員、急に鍋の様子が気になり出したらしい。
「……好きなものなのか」
「とぼけないでください。林檎と蕪のスープも、くるみの黒パンも、鱒も、焼き林檎も、全部、私の」
「――それは、よかった」
殿下が、ふっと息を吐いた。
ほんの、ほんのわずかに。
口元がゆるんだ。
(……笑っ、た?)
氷の皇太子が笑ったところを、誰も見たことがない。
その噂を、私は今、目の前で踏み潰してしまった。
「よかった、ではなくて! どうやってお調べになったのですか!?」
「それは」
「殿下、北の離宮より急使が」
オットーさんの声が、厨房の入り口で響いた。
殿下の顔から、すっと表情が消える。
「……すぐ行く。ニーナ、タルトは全部食べていい」
「え、あの、毒見は」
「要らないと、何度言えば分かる」
前掛けを外しながら、殿下は厨房を出ていった。
残された私は、苺のタルトをひと口かじった。
(……おいしい)
毒の味は、やっぱりしなかった。
代わりに、胸のあたりが甘く苦しくなった。
(ヴィクトール視点)
毒見役が来ると聞いたとき、私は断るつもりでいた。
前の毒見役、老いたハインツは、私の皿に盛られた毒で倒れた。
一命は取り留めたが、今も手の震えが止まらない。
私の代わりに。
私が食べるはずだったものを食べて。
もう、誰にもあんな思いはさせたくなかった。
だが、宰相も皇帝陛下も首を縦に振らなかった。皇太子に毒見役がいないなど、ありえないと。
そうしてやってきたのが、ニーナ・アルトマイヤーだった。
小柄な娘だった。
給金がよいので、と真顔で答えた娘だった。
そして、銀の匙を持つ手が、ずっと小さく震えていた。
顔だけは平気なふりをして、ひと皿ごとに、まるで崖から飛び降りるような覚悟で口に運んでいた。
あれを毎日、毎食、私のために。
――冗談ではない。
あの日、私は自分の皿の料理がまったく喉を通らなかった。彼女の顔を見ることすら、できなかった。
毒見役を解雇すれば、彼女は困るだろう。借金のことはオットーに調べさせて知っていた。
だから、解雇はしない。
けれど、彼女の匙を、毒の可能性がある皿には二度と近づけさせない。
ならば答えは一つだった。
私が作ればいい。
食材を選ぶところから、皿に盛るところまで、すべて私の目と手で。
最初のスープは、ひどいものだった。
それでも彼女は、涙目で「毒は入っておりません」と言ったあと、「塩は少々入りすぎておりますが」と付け足した。
その瞬間、彼女の顔から、ほんの少しだけ怯えが消えた。
毒を探す顔ではなく、料理を味わう顔になった。
私はそれを、もう一度見たいと思った。
何度でも見たいと思った。
グスタフに頭を下げて、包丁の持ち方から習った。
オットーに頼んで、アルトマイヤー子爵領の郷土料理を調べさせた。
子爵家の家令ペーターに、手紙を書いた。
――お嬢様は、何がお好きか。
返事は便箋十二枚に及んだ。林檎と蕪のスープ。くるみの黒パン。鱒。熱を出したときの焼き林檎。そして、苺のタルト。
家が傾いてから、彼女が一度も「食べたい」と口にしなくなったこと。
ご自分の分の菓子を、いつも父君に譲っていたこと。
読みながら、私は何度も手を止めた。
毎朝、彼女は私の皿からひと匙すくう。
規則ですので、と言って。
そのたびに私は、自分の料理がまだ彼女から怯えを取り去れていないのだと思い知らされる。
だから、もっとうまくならなければならない。
彼女が、毒見のためではなく、ただおいしいから食べたいと思える皿を作らなければならない。
――それに。
林檎と蕪のスープを出した朝。
彼女は「毒は入っておりません」と言いながら、目の縁をほんのり赤くしていた。
あの顔を見てしまったら、もう、やめられるはずがなかった。
毒見の顔を見ていたのではない。
私はずっと、彼女がおいしいと思ったときの顔を探していたのだ。
殿下が北の離宮へ発ってから、三日が過ぎた。
その間、私の食事はグスタフさんが用意してくれた。
皇宮の料理長の料理は、言うまでもなく完璧だった。完璧に、おいしかった。
なのに。
(……何か、足りない)
焦げた卵焼きが恋しいなんて、どうかしている。
しょっぱすぎるスープが懐かしいなんて、もっとどうかしている。
「殿下は、今夜お戻りだそうですよ」
オットーさんの言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。
オットーさんが、意味ありげに目を細める。
「戻られたらすぐに厨房に立つと仰せです。夕食をご一緒にと」
「ご、ご一緒にというのは、毒見を」
「さあ、どうでしょうね」
オットーさんは、はぐらかすのがとてもお上手だ。
その夜。
久しぶりに厨房に立った殿下は、旅装を解く間も惜しむように前掛けをつけた。
少しやつれたように見える。それでも、包丁を握る手つきは、初日とは別人のように滑らかだった。
「今夜は、ニーナの領地の煮込みを作る」
「……殿下、私の領地の料理をご存じなのですか」
「調べた」
あっさり言われて、私は返す言葉を失った。
(調べた。調べたって、どうやって。どうして)
聞きたいことは山ほどあるのに、殿下の真剣な横顔を見ていると、なぜか何も聞けなかった。
鍋がことことと音を立てる。
玉葱と人参と、塩漬けの豚肉。月桂樹の葉。仕上げに、林檎酒をひと回し。
やさしい匂いが厨房に満ちていく。
殿下は木皿に煮込みをよそい、一つを私の前に、一つを自分の前に置いた。
私はいつものように、殿下の皿へ匙を伸ばした。
「……規則ですので」
「分かっている」
殿下は、もう止めなかった。
ただ、少しだけ寂しそうな顔をした。
私は匙を口に運び――
舌の先に、かすかな違和感が走った。
(……え?)
林檎酒の甘い香りの奥に、ほんのわずか、ぴりっとした刺激。
喉の奥に残る、金気のような苦み。
子どものころ、祖母に何度も舐めさせられた味。
『いいかい、ニーナ。これがドクゼリだよ。少しなら舌が痺れるだけ。でも、たくさんなら――』
背筋が、凍った。
「殿下、召し上がらないで!!」
気づいたときには、殿下の手から匙を払い落としていた。
銀の匙が床で跳ね、甲高い音を立てる。
厨房が、しんと静まり返った。
「ニーナ?」
「毒です。……ドクゼリの根です。おそらく、林檎酒に」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
舌の先が、じんと痺れている。ほんのひと匙だ。命に関わる量ではない。祖母の教えが正しければ。
けれど指先が、どうしようもなく震えた。
殿下の顔から、すべての色が消えた。
「――グスタフ!! 林檎酒はどこから入った!!」
聞いたこともない殿下の怒声が、厨房を揺らした。
犯人は、すぐに見つかった。
皇宮に林檎酒を納める商人のひとりが、皇弟ベルンハルト殿下の息のかかった者から金を受け取っていた。
殿下が自ら厨房に立つようになり、皿に毒を盛る機会を失った者たちは、殿下が「自分で選んだ食材」に手を伸ばしたのだ。
殿下が北の離宮へ発った三日の間に、殿下専用の棚の樽ごと入れ替えられていたらしい。
そこまでを、私は医務室の寝台の上で聞いた。
宮廷医の診立ては、舌の軽い痺れのみ。一晩休めば治るとのことだった。
オットーさんがすべてを話し終えて出ていくと、入れ違いに、殿下が入ってきた。
前掛けを、つけたまま。
「……殿下。その格好のまま、ここまで」
「外すのを忘れていた」
殿下は寝台の傍らの椅子に、どさりと腰を下ろした。
両手で顔を覆い、深く、深く息を吐く。
「……私のせいだ」
「いいえ、殿下のせいではありません。悪いのは、毒を入れた者です」
「私が、北へ行っている間に食材を確かめなかった」
「殿下」
「君に、食べさせた」
殿下の声が、かすれた。
「毒の皿を、君にだけは運ばせたくなかった。……だから、作っていたのに」
私は、息を呑んだ。
毒見役が来た初日の、苦いものを噛んだような顔。
規則ですのでと言うたび、殿下が見せた寂しそうな顔。
私の毒見がお嫌いなのだと思っていた。
違った。
殿下は、私が毒を探して震えていることが、ずっとお嫌だったのだ。
(……私、なんて馬鹿なの)
胸の奥が、熱くなった。
「殿下」
「…………」
「私、毒見役で、よかったと思います」
殿下が、顔を上げた。
青い瞳が、驚いたように揺れている。
「毒見役だったから、殿下をお守りできました。……給金のためだけに来たはずなのに、私、今日、殿下が匙を口に運ぶ前に間に合って、本当に、本当によかったって」
言いながら、涙がこぼれた。
ほっとしたのか、怖かったのか、自分でもよく分からない。
殿下の大きな手が、そっと私の頬に触れた。
包丁の小さな傷がいくつもある、料理人の手だった。
「……ニーナ」
「はい」
「毒見役は、今日で終わりにしてほしい」
さあっと、頭から冷たいものが落ちてきた。
(解雇……)
当然だ。毒見に失敗したわけではないけれど、こんな騒ぎを起こしてしまったのだから。
借金。雨漏り。父の顔。
うつむいた私の耳に、殿下の声が落ちてきた。
「代わりに、私の料理を毎日食べてほしい」
「……え?」
「毒見役としてではなく」
殿下は、前掛けの隠しから、くたびれた手帳を取り出した。
初日に「塩、半分以下」と書き付けていた、あの手帳だ。
開かれたページには、びっしりと文字が並んでいた。
『林檎と蕪のスープ。目の縁が赤くなった。成功』
『くるみの黒パン。二つ目に手を伸ばしかけてやめた。次は最初から二つ出す』
『鱒。ディルだけがいいらしい。食べ終わるのが一番早かった』
『焼き林檎。少し笑った。シナモンはもう少し多めに』
『苺のタルト。――今まで見た中で、一番いい顔だった』
読みながら、顔がどんどん熱くなっていく。
毒見のたびに、殿下がじっと私を見ていた理由。
毒の有無を確かめていたのではなかった。
「君が、おいしいと思ったときの顔を、ずっと探していた」
殿下は、手帳を閉じた。
「家令のペーターに手紙を書いた。君の好きなものを全部教えてもらった。君が家のために、苺のタルトを食べたいと言わなくなったことも」
「ペーターが……!?」
「便箋十二枚だった」
(ペーター!!)
あの忠実で口うるさい家令が、皇太子殿下に便箋十二枚も何を書いたのか。考えるだけで顔から火が出そうだった。
「借金のことも、もう手は打ってある。アルトマイヤー子爵領の林檎を皇宮御用達にした。今日の件で、林檎と林檎酒の納め先が一つ空いたからな」
「そ、それは、職権濫用というのでは」
「正当な取引だ。君の領地の林檎は、私が作ったスープを、一番おいしくした」
真顔で言われて、言葉が出てこない。
殿下は、私の手を取った。
そして、ためらうように一度目を伏せてから、まっすぐに私を見た。
「ニーナ・アルトマイヤー。私の妃になってほしい」
厨房で聞いた怒声とはまるで違う、静かな声だった。
「これから先、私の作るものを、毒を探す顔ではなく、ただおいしいという顔で食べてほしい。……毎日、一生」
私は、しばらく何も言えなかった。
氷の皇太子と呼ばれる人の手が、少しだけ震えている。
初めて食堂で毒見をした日の、私の手と同じように。
(ああ、この方も、怖いのね)
そう思ったら、胸の奥でかたく凍っていたものが、ゆっくりと溶けていった。
「……殿下」
「ああ」
「一つ、条件があります」
「何でも言え」
「私にも、お料理を教えてください」
殿下が、目を瞬いた。
「殿下ばかりが私の好物を知っているのは、不公平です。私も、殿下のお好きなものを作れるようになりたいので」
長い、長い沈黙のあと。
殿下が、笑った。
ほんのわずかに口元をゆるめる程度ではなく、目尻を下げて、声を立てて。
冬の湖に、春の陽が差したような笑顔だった。
「……私の好物か。それなら、いい手本がある」
「何でしょう?」
「焦げた卵焼きと、しょっぱすぎるスープだ」
「……それは、殿下が初日にお作りになった」
「ああ。あの朝、君が初めて、怯えていない顔をした」
殿下は私の手の甲に、そっと唇を落とした。
「あれ以上の好物を、私は知らない」
それから半年後。
皇太子殿下のご成婚の祝宴で、氷の皇太子と呼ばれた方は、自ら厨房に立ったという。
来賓たちを驚かせたのは、宴の最後に運ばれてきた、ひときわ大きな苺のタルトだった。
そして、それを最初に口にした皇太子妃が、毒見の決まり文句の代わりにこう言ったことを、皇宮の料理人たちは長く語り継ぐことになる。
「――おいしいです、ヴィクトール様」
皇太子殿下の手帳の、最後のページには、短い一文が書き足された。
『一番いい顔を、更新した』
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
焦げた卵焼きから始まった殿下の料理修業、楽しんでいただけましたでしょうか。
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