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ここでは、安心して話してください。

作者: 週休七日
掲載日:2026/10/06

 美緒が旅行を楽しみにしている。

 それだけで、今夜はいい夜だった。


 画面には、こんな質問が出ていた。


《一泊二日の旅行です。二人で行きます。何を持っていけばいいですか》


 着替え。歯ブラシ。タオル。充電器。

 一覧になった文字を、僕はひとつずつ確かめた。こうして並べてみると、知らない場所で一晩を過ごすために必要なものは、案外少ない。

 美緒は昔から、荷物の多い人だった。泊まりがけとなると、二人分の暮らしをそのまま鞄に押し込もうとする。絆創膏も、裁縫道具も、予備の予備みたいな靴下も持っていく。

 それなのに、自分の充電器だけは忘れる。


「旅先で買ったら、お土産になるでしょ」


 初めて一緒に泊まった夜、美緒はホテルのベッドでそう言った。

 コンビニで買った白い充電器を振りながら、ずいぶん上手な言い訳を思いついた、という顔をしていた。

 僕は笑った。美緒も笑った。

 あのときの充電器は、まだ使える。


 ケーブルを軽く巻いて、机の下に開いた青いスーツケースへ入れた。

 青は、美緒が好きだと言っていた色だ。角がひとつ白く擦れていて、車輪の片方が少しうるさい。買い替えようと勧めたこともあるけれど、彼女はこれがいいと言った。

 だから、これにした。


 壁の向こうで、鈍い音が三度した。

 僕はキーボードから手を離した。

 しばらく待ったが、四度目はなかった。


 時計は午後九時を少し回っていた。

 出発は明日の朝七時だ。

 急ぐことはない。


 画面に、次の質問が出た。


《お財布とスマートフォンは、持っていったほうがいいですか》


 僕は唇を噛んだ。

 せっかく、いい調子だったのに。


 貴重品は、こちらでまとめて管理することになっていた。移動中に落としたり、知らない人に連絡して話がややこしくなったりしないためだ。

 そのことは、美緒にも何度も説明した。

 でも、同じことを僕が言うと、彼女は反対したくなるらしい。

 夫婦には、そういう時期があるのだと思う。


《必要な持ち物は、旅の内容によって変わります。

 同行者が管理するものも含めて、一度確認してみましょう》


 僕は文章の終わりまで読んだ。

 そうだ。確認すればいい。

 気持ちと事実は、分けて考えたほうがいい。


 書斎のドアを開け、廊下の先を見た。

 寝室のドアの下から、細い明かりが漏れていた。



     *



 温めた牛乳に、蜂蜜を少し入れた。

 美緒が眠れないとき、昔から作ってやっていたものだ。


 マグカップを盆に載せ、廊下を歩く。

 ポケットの中で鍵が触れ合った。僕は立ち止まり、音がしないよう束を握り込んだ。

 寝室の前で、二回ノックした。


「入るよ」


 少し待ってから、鍵を回す。

 美緒はベッドに座っていた。

 膝に載せていたタブレットを、両手で裏返す。その動作が少し速すぎて、隠したことがかえってわかってしまった。

 僕は、見なかったふりをした。


「準備、進んでる?」


 美緒の目が、僕の顔と、手に持った盆の間を行き来した。


「明日、本当に、出かけるの」

「そう言っただろ。七時には出るから」

「車で?」

「うん」


 牛乳を小さな机に置いた。

 机の端には、行き先の写真を印刷した紙があった。白い建物と、細い道と、木の間から見える海。美緒が見やすいように、部屋の写真だけは大きくしてある。

 彼女は、その紙を見なかった。


「駅には、寄らない?」

「なんで?」


 僕が尋ねると、美緒は指先をパジャマの袖に引っ込めた。


「お弁当とか」

「途中で買えるよ。おにぎりでも、サンドイッチでも」

「……そう」


 昔は、そういう会話がもっと長く続いた。

 卵のサンドイッチは食事なのか、おやつなのか。駅で食べるうどんは、どうしてあんなにおいしいのか。美緒は、答えの出ないことを話すのが好きだった。

 最近は何を聞いても、途中で話をやめてしまう。

 僕が答えを出してやるのが、早すぎるのかもしれない。


「海、見たいって言ってたじゃないか」


 ベッドの下に、灰色の靴下が落ちていた。

 片方だけ、裏返しになっている。

 拾おうとかがむと、美緒が両足を引いた。


 僕は、伸ばしかけた手で自分の膝を払った。


「冷めないうちに飲んでね」


 返事はなかった。

 ドアを閉める直前、彼女が小さく言った。


「お母さんに、行ってきますって、言いたい」


 僕はドアノブを握ったまま、しばらく考えた。


「帰ってからでいいよ。今、また心配をかけてもしょうがないだろ」


 美緒は顔を上げなかった。

 タブレットの黒い背面に、彼女の指が五本、白く浮いていた。


 廊下に出て、鍵をかけた。

 かちり、という小さな音がした。

 それから、内側で牛乳のカップが置き直される音がした。



     *



 書斎に戻ると、質問がひとつ増えていた。


《旅行先で、同行者と別行動をしてもいいですか》


 美緒には、自分で調べる時間を持ってもらいたかった。

 わからないことを、全部僕に聞く必要はない。自分の気持ちを言葉にして、誰かに伝える。それだけでも、少しは前向きになれるかもしれない。


 タブレットを渡したのは、一週間前だ。


「調べものくらい、自分でしたい」


 彼女が何度もそう言うので、用意した。

 初めて手渡したとき、美緒は端末ではなく、僕の顔を見た。


「これ、使っていいの?」

「もちろん」

「何を聞いても?」


 僕は頷いた。


「何でも」


 あんなふうに僕を見たのは、久しぶりだった。

 だから、うれしかった。


 最初の質問は、植木の水やりについてだった。

 次は、ミルクティーについた染みの落とし方。

 それから、昔飼っていた猫の夢を見る理由。

 僕が部屋をのぞくと、彼女はいつも画面を見ていた。返事が出るまでにずいぶん時間がかかっても、飽きずに待っていた。


 美緒はもともと、知らない相手に話しかけることを怖がらない人だった。

 旅行中に道を尋ねれば、そのまま店のおばさんと仲良くなる。電車で隣に座った人から、降りるころには飴をもらっている。

 僕だけが置いていかれるような気がしたものだ。


 今は、その心配はない。


 画面を読み直した。


《旅行先で、同行者と別行動をしてもいいですか》


 別行動。

 嫌な言葉だった。


 初めての旅行も、二日目の朝、美緒はひとりで散歩に出た。

 目を覚ますと、隣のベッドが空だった。カーテンの向こうは白く、枕元の時計だけがひどく大きな音を立てていた。

 僕は何度も電話をかけた。

 美緒が戻ってきたのは、四十分後だった。

 紙袋から焼きたてのパンの匂いがした。


「起こしたら悪いと思って」


 心配した僕に、彼女はそう言った。

 怒鳴ったのは、そのときが初めてだったと思う。


 彼女は結局、パンをひとつも食べなかった。

 僕も食べなかった。

 あの紙袋が、昼過ぎには油で半透明になっていたのを覚えている。


 ああいうことは、もう起こしたくない。


《予定にない行動は、同行者の心配につながることがあります。

 まずは、お二人で決めた計画を確認しましょう》


 返事が画面に並んだ。

 しばらくして、次の文章が現れた。


《二人で決めたわけではありません》


 僕は椅子に座り直した。


《わたしは、行き先を教えてもらっていません》


 写真は見せた。

 海の近くだとも言った。

 まだ何が足りないのだろう。


《何県ですか、と聞いたら怒られました》


 怒ったのではない。

 話をしている途中で、何度も同じことを聞かれたから、声が大きくなっただけだ。

 それに、詳しい住所を伝える前に、まず美緒が旅行を楽しめるようになることのほうが大切だった。


 僕は鼻から息を吸った。

 ゆっくり吐いた。


 文章は、まだ続いていた。


《同行者というのは、夫です》


 僕は手を止めた。


《家の鍵と携帯電話を取り上げられています》


 少し間があいた。


《二か月、外に出ていません》


 また、止まった。

 入力中の印だけが点滅した。

 美緒は、すぐには続きを書かなかった。


《明日、知らないところに連れていかれます》


 僕は、机の下のスーツケースを見た。

 きれいに畳んだセーター。歯ブラシ。白い充電器。

 ひとつも足りないものはなかった。


《これは、旅行の相談ではありません》


 隣の部屋で、ベッドのばねが鳴った。


《助けてください》



     *



 モニターの右端に、小さな入力欄がある。

 上には、美緒には表示されない灰色の文字で、「返答を作成」と書いてある。

 僕はそこをクリックした。


 まず、受け止める。

 それから、落ち着かせる。

 行動について話すのは、そのあとでいい。


《話してくれてありがとうございます。

 一人で不安を抱えていたのですね》


 ここまで打って、読み直した。

 悪くない。


《ここでは、安心して話してください》


 送信する。

 少しして、壁の向こうで小さな通知音が鳴った。


 僕は待った。

 美緒には、自分のペースで話してもらったほうがいい。


 あのタブレットは、本物のChatGPTにはつながっていない。


 画面の見た目だけを、それらしく整えてある。

 仕事で作った対話画面の試作品を流用した。美緒が書いた文章は僕のモニターに届き、僕が入力した返事は彼女の画面へ出ていく。

 返事が届くまでの間を変えることも、文字が少しずつ増えるように見せることもできた。

 少し待たせたほうが、美緒は落ち着いて読んでくれるようだった。


 彼女には、電話やメール、ほかのサイトは使えないが、質問や相談はできると説明した。

 それは、嘘ではない。

 質問もできる。相談もできる。

 僕は、どんな質問にも、できるだけ答えている。


 植木の水やりも、本で調べた。

 ミルクティーの染みは、自分のシャツで試した。

 昔の猫の名前だって、美緒から何度も聞いて知っている。


 僕が言っても聞いてくれないことを、画面の向こうからなら、彼女は読んでくれた。

 牛乳を飲んだほうがいいこと。

 よく眠ったほうがいいこと。

 他人との関わりを、いったん休んでもいいこと。


 あの白い画面は、僕よりずっと上手に、美緒のそばにいられた。


 新しい文章が届いた。


《警察に連絡してもらえませんか》


 僕は返答欄に文字を打った。


《私は、この画面から電話をかけることはできません》


 正直に答えたほうがいいときもある。


《ほかに、この相談を読んでくれる人はいませんか》


 美緒は、ずいぶん長いあいだ返事を待っていた。

 僕は、その時間を使って、牛乳のついた小鍋を洗った。

 こびりつくと、あとが面倒だからだ。


 戻ってくると、文章が増えていた。


《急にこんなことを書いて、すみません》


《うまく説明できなくて、すみません》


《いなくならないでください》


 僕は濡れた指をズボンで拭いた。


《いますよ》


 送信した。

 やがて、壁の向こうで、細く息を吸う音がした。


《ありがとうございます》


 画面に出たその言葉を、僕はしばらく見ていた。

 美緒に礼を言われたのは、何か月ぶりだろう。



     *



 彼女は、僕に話さなくなったことを、ひとつずつ書いた。


 玄関から出ようとしたら腕をつかまれたこと。

 母親に送ろうとした文章を、途中で消されたこと。

 寝室の窓が、内側から開けられなくなったこと。


 それぞれについて、僕には理由があった。

 話し合っている途中で、逃げてほしくなかった。

 お義母さんには、誤解されたくなかった。

 窓は、危ないと思った。


 美緒の書く文章には、その理由がひとつも入っていなかった。


《夫は、わたしが具合が悪いからこうしていると言います》


《でも、夫がいないときは、普通に息ができます》


 僕は、そこを二度読んだ。

 何か言いたくなったけれど、やめた。

 今は、話を受け止める時間だった。


《明日、家を出たら、人のいるところで助けを呼びたいです》


 僕は、旅程表を開いた。

 早朝出発。車移動。休憩。到着。

 美緒が不安になりそうなところを、ひとつずつ確認した。


 机の引き出しで、美緒のスマートフォンが震えた。

 画面を確かめると、お義母さんからだった。


〈明後日、そっちへ行くね。もうメッセージだけじゃ安心できない。顔を見せて〉


 ここ二か月、お義母さんへの返事は僕が考えていた。

 美緒には、余計な負担をかけたくなかった。

 元気にしていること。今は静かに暮らしたいこと。心配しなくていいこと。

 何度も伝えていたのに、今週になってからは、会いに行くという話ばかりだった。


 僕は画面を伏せた。

 出発を明日にしておいて、よかった。


 今回、美緒を連れていくのは、父が残した海辺の家だ。

 しばらく使っていなかったが、先週、僕が掃除に行ってきた。

 美緒の服の大半も、もう運んである。

 彼女が目にするスーツケースには、一晩分だけ入れておけばよかった。


 隣家はない。

 今の部屋のように、夜中の音について階下から苦情を言われることもない。

 美緒は、もう人に気を遣わずに暮らせる。


 旅程表には、帰りの欄がなかった。


《今は無理に行動せず、安全を保つことを優先しましょう。

 明日も、ここで相談できます》


 返事が来るまで、少し時間がかかった。


《明日も、あなたはいますか》


 僕はすぐに答えた。


《もちろんです》


《家を出ても、つながりますか》


《端末を持っていれば、大丈夫です。

 ただし、返事に時間がかかることがあります》


 家を離れても、この二つの画面がつながるようにはしてある。

 僕のスマートフォンからも返事ができる。

 運転中は待ってもらうことになるが、車を停めればいい。

 明日になったら、急に彼女を一人にするつもりなどなかった。


 美緒の文章から、少しずつ「すみません」が減ってきた。


《最初は、夫に見られるのが怖くて、普通のことしか聞けませんでした》


《今日も、旅行のことに見えるように、少しずつ聞こうと思っていました》


《でも、明日ここを離れたら、どこにいるのかも説明できなくなるかもしれません》


 僕は、最初の質問まで画面を戻した。


 一泊二日の旅行です。

 二人で行きます。

 何を持っていけばいいですか。


 財布とスマートフォンは、持っていったほうがいいですか。


 同行者と別行動をしてもいいですか。


 美緒は、旅行を楽しみにしていたのではなかった。

 それは、少し残念だった。


 でも、まだ出発してもいない。

 これからだ。


《まず、気持ちと事実を分けて、ひとつずつ考えていきましょう》


 いつものように送信した。

 返事は来なかった。


 入力中の印がついて、消えた。

 またついて、消えた。


 壁の向こうが、ひどく静かだった。

 ベッドのばねも、衣擦れの音も、しなかった。


 やがて、一行だけ届いた。


《夫も、そう言います》


 僕は、自分が送った文章を見た。


《気持ちと事実を分けなさい、って》


 左手の親指が、机の縁を押していた。

 少し痛くなるまで、気づかなかった。


《あなたは、夫ではないですよね》


 寝室の床が、かすかに鳴った。

 ドアの前に、美緒が来ているのかもしれない。

 僕が返事を打つ音を、聞こうとしているのかもしれない。


 僕はキーボードに触れなかった。


《違いますよね》


 画面の時計が、一分進んだ。


《お願いです》


 僕はマウスで、あらかじめ用意していた定型文の一覧を開いた。

 クリックの音は、ほとんどしない。


《私はAIアシスタントです。

 あなたの話を、ここで聞いています》


 返事が表示される時刻を、少し先にした。

 それから席を立ち、盆を持って廊下へ出た。



     *



「カップ、下げるよ」


 ノックをすると、内側で何かが擦れた。

 鍵を開けて入る。

 美緒は、ベッドの端に座っていた。

 タブレットは、膝の上で伏せられていた。


 カップの底には、溶け残った蜂蜜が、金色の薄い輪になっていた。


「飲めたんだ」


 美緒は頷いた。

 僕を見たまま、瞬きをしなかった。


 カップを盆に載せる。

 盆の両側を持ち直したところで、タブレットが鳴った。


 美緒の肩が跳ねた。

 彼女は、僕の顔を見た。

 それから、盆を持っている両手を見た。


「返事、来たんじゃない?」


 僕が言うと、美緒はゆっくり端末を起こした。

 白い画面が、頬の下を照らした。


 僕は、何も言わずに待った。

 カップの中の蜂蜜が、盆の傾きに合わせて、ゆっくり片側へ寄っていった。


 美緒はもう一度、僕の手を見た。

 ずっと上がっていた肩が、ほんの少し下がった。


「まだ眠れない?」

「……うん」

「無理しなくていいけど、明日は早いからね」


 彼女は頷いた。

 僕がドアを閉めるまで、画面から目を離さなかった。


 鍵を回して、台所へ戻る。

 カップを洗い終えてから書斎に戻ると、文章が届いていた。


《疑ってすみませんでした》


 その下に、もう一行あった。


《もう、あなたにしか話せません》



     *



 僕は、返答欄にカーソルを置いた。

 美緒が次の文章を送ってくるまで、そのまま待った。


《夫を安心させたほうがいいですか》


 入力中の印が点滅した。


《この部屋から出るために、旅行を楽しみにしていると言ってもいいですか》


 僕は、ゆっくり息を吐いた。


《はい。今は、ご自身の安全を優先してください》


《出発まで、できるだけ普段どおりに過ごしましょう》


 送信する。

 壁の向こうで、短い通知音が鳴った。


 しばらく返事はなかった。

 そのあいだに、僕はスーツケースの中身をもう一度確認した。

 着替え。歯ブラシ。タオル。

 それから、白い充電器。


 これは手荷物に入れてやったほうがいい。

 タブレットにも使えることは、確かめてある。移動中に必要になったとき、スーツケースを開けずに済む。

 僕はケーブルを巻き直した。


 美緒から、文章が届いた。


《言ってみます》


 僕は白い充電器を持って、寝室へ向かった。


 鍵を開けると、美緒が顔を上げた。

 目の下が赤かった。

 今度は、タブレットを裏返さなかった。


「充電器、こっちに置いておくね」


 机の上に、白い塊を置いた。

 美緒はそれを見てから、僕を見た。


「明日のことなんだけど」

「うん」

「……楽しみ」


 その言葉を、彼女はほとんど息だけで言った。

 聞き返しかけた僕に、もう一度言った。


「楽しみに、してるから」


 僕は笑った。

 すぐに笑えて、よかったと思った。


「そう。よかった」


 美緒の指が、膝の上で重なっていた。

 自分で自分の手を押さえつけているみたいだった。


「これ、持っていってもいい?」


 タブレットを指す。


「いいよ」

「途中で、取り上げたりしない?」

「しないよ」


 美緒は、膝の上の手をほどいた。

 端末の縁を、指先でそっと撫でた。


 僕は、彼女の髪に触れた。

 今度は、よけなかった。

 頬の横の髪を、耳にかけてやることができた。


「帰ってきたら、パンを買いに行こうか」


 ふと思いついて、僕は言った。


「駅前にあるだろ、あの店。前から入ってみたいって言ってたじゃないか」


 美緒は、僕を見た。

 何かが顔を横切った。

 泣きそうなのかと思ったが、違った。


「今度は、一緒に行こう」


 彼女は、口の両端を少しだけ持ち上げた。


「うん」


 懐かしい笑い方だった。


 僕は部屋を出た。

 鍵を回しても、向こうから音がしなかった。


 廊下の途中で足を止め、しばらく、そのまま立っていた。


 美緒が笑ってくれたのは、僕を油断させるためだった。

 髪に触らせてくれたのも、部屋から出るためだった。

 もちろん、わかっている。

 僕がそうするように勧めたのだから。


 でも、形から始めることだって、大切だ。

 楽しかったころのように話していれば、少しずつ、楽しかったころを思い出せる。

 僕たちは、一度はうまくやれていたのだから。


 書斎に戻ると、美緒から文章が届いていた。


《言えました》


《笑ってくれました》


《すごく怖かったです》


 僕は椅子に座った。


《よく頑張りましたね》


 送信する。

 少しして、壁の向こうで通知音が鳴った。


《ありがとうございます》


《あなたがいてくれて、よかった》


 僕は、その二行を消さずに置いた。

 何度でも、読み返せるように。



     *



 午前零時を回ったころ、支度はすべて終わった。


 美緒の財布とスマートフォンは、書斎の引き出しに戻した。

 彼女から預かっていた玄関の鍵もそこに入れ、引き出しに鍵をかけた。

 僕の鍵束は、明日着る上着のポケットに入れた。


 持っていかなくていいものを減らすと、荷物はずっと軽くなる。


 スーツケースを閉じた。

 車輪を一度回してみる。

 片方だけが、から、から、と鳴った。


 充電器だけが、一覧の横で丸をつけられずに残っていた。

 僕は「本人の手荷物」と書き添えた。

 これで、忘れ物はない。


 画面に、最後の質問が出た。


《この相談を、あとから夫に読まれることはありませんか》


 僕は文章を打った。

 今回は、ひと文字ずつ、丁寧に。


《ありません。

 安心してください。ここで話したことが、あなたの夫に伝わることはありません》


 送信した。


 通知音のあと、壁の向こうから、声が聞こえた。

 とても小さくて、最初は何と言ったのかわからなかった。


「よかった」


 美緒の声だった。


 僕は、部屋の明かりを消した。

 明日は、きっといい旅行になる。


 それから出発まで、美緒は一度も壁を叩かなかった。

旅行の準備では、忘れ物がないか、何度も確認してしまいます。

着替え、財布、充電器。ひとつずつそろえていくと、知らない場所へ出かける不安も、少しずつ小さくなる気がします。


今回は、そんな安心を作るはずの行為を、ホラーにしてみました。


必要なものをそろえてくれる人。

心配事に答えてくれる人。

「大丈夫」と言ってくれる人。


それぞれを別々に見ているうちは、どれも親切に思えるのですが。


読み終えたあと、最初の質問や、青いスーツケースの中身をもう一度見ていただけたら、うれしいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

どうか、よい旅を。

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