ここでは、安心して話してください。
美緒が旅行を楽しみにしている。
それだけで、今夜はいい夜だった。
画面には、こんな質問が出ていた。
《一泊二日の旅行です。二人で行きます。何を持っていけばいいですか》
着替え。歯ブラシ。タオル。充電器。
一覧になった文字を、僕はひとつずつ確かめた。こうして並べてみると、知らない場所で一晩を過ごすために必要なものは、案外少ない。
美緒は昔から、荷物の多い人だった。泊まりがけとなると、二人分の暮らしをそのまま鞄に押し込もうとする。絆創膏も、裁縫道具も、予備の予備みたいな靴下も持っていく。
それなのに、自分の充電器だけは忘れる。
「旅先で買ったら、お土産になるでしょ」
初めて一緒に泊まった夜、美緒はホテルのベッドでそう言った。
コンビニで買った白い充電器を振りながら、ずいぶん上手な言い訳を思いついた、という顔をしていた。
僕は笑った。美緒も笑った。
あのときの充電器は、まだ使える。
ケーブルを軽く巻いて、机の下に開いた青いスーツケースへ入れた。
青は、美緒が好きだと言っていた色だ。角がひとつ白く擦れていて、車輪の片方が少しうるさい。買い替えようと勧めたこともあるけれど、彼女はこれがいいと言った。
だから、これにした。
壁の向こうで、鈍い音が三度した。
僕はキーボードから手を離した。
しばらく待ったが、四度目はなかった。
時計は午後九時を少し回っていた。
出発は明日の朝七時だ。
急ぐことはない。
画面に、次の質問が出た。
《お財布とスマートフォンは、持っていったほうがいいですか》
僕は唇を噛んだ。
せっかく、いい調子だったのに。
貴重品は、こちらでまとめて管理することになっていた。移動中に落としたり、知らない人に連絡して話がややこしくなったりしないためだ。
そのことは、美緒にも何度も説明した。
でも、同じことを僕が言うと、彼女は反対したくなるらしい。
夫婦には、そういう時期があるのだと思う。
《必要な持ち物は、旅の内容によって変わります。
同行者が管理するものも含めて、一度確認してみましょう》
僕は文章の終わりまで読んだ。
そうだ。確認すればいい。
気持ちと事実は、分けて考えたほうがいい。
書斎のドアを開け、廊下の先を見た。
寝室のドアの下から、細い明かりが漏れていた。
*
温めた牛乳に、蜂蜜を少し入れた。
美緒が眠れないとき、昔から作ってやっていたものだ。
マグカップを盆に載せ、廊下を歩く。
ポケットの中で鍵が触れ合った。僕は立ち止まり、音がしないよう束を握り込んだ。
寝室の前で、二回ノックした。
「入るよ」
少し待ってから、鍵を回す。
美緒はベッドに座っていた。
膝に載せていたタブレットを、両手で裏返す。その動作が少し速すぎて、隠したことがかえってわかってしまった。
僕は、見なかったふりをした。
「準備、進んでる?」
美緒の目が、僕の顔と、手に持った盆の間を行き来した。
「明日、本当に、出かけるの」
「そう言っただろ。七時には出るから」
「車で?」
「うん」
牛乳を小さな机に置いた。
机の端には、行き先の写真を印刷した紙があった。白い建物と、細い道と、木の間から見える海。美緒が見やすいように、部屋の写真だけは大きくしてある。
彼女は、その紙を見なかった。
「駅には、寄らない?」
「なんで?」
僕が尋ねると、美緒は指先をパジャマの袖に引っ込めた。
「お弁当とか」
「途中で買えるよ。おにぎりでも、サンドイッチでも」
「……そう」
昔は、そういう会話がもっと長く続いた。
卵のサンドイッチは食事なのか、おやつなのか。駅で食べるうどんは、どうしてあんなにおいしいのか。美緒は、答えの出ないことを話すのが好きだった。
最近は何を聞いても、途中で話をやめてしまう。
僕が答えを出してやるのが、早すぎるのかもしれない。
「海、見たいって言ってたじゃないか」
ベッドの下に、灰色の靴下が落ちていた。
片方だけ、裏返しになっている。
拾おうとかがむと、美緒が両足を引いた。
僕は、伸ばしかけた手で自分の膝を払った。
「冷めないうちに飲んでね」
返事はなかった。
ドアを閉める直前、彼女が小さく言った。
「お母さんに、行ってきますって、言いたい」
僕はドアノブを握ったまま、しばらく考えた。
「帰ってからでいいよ。今、また心配をかけてもしょうがないだろ」
美緒は顔を上げなかった。
タブレットの黒い背面に、彼女の指が五本、白く浮いていた。
廊下に出て、鍵をかけた。
かちり、という小さな音がした。
それから、内側で牛乳のカップが置き直される音がした。
*
書斎に戻ると、質問がひとつ増えていた。
《旅行先で、同行者と別行動をしてもいいですか》
美緒には、自分で調べる時間を持ってもらいたかった。
わからないことを、全部僕に聞く必要はない。自分の気持ちを言葉にして、誰かに伝える。それだけでも、少しは前向きになれるかもしれない。
タブレットを渡したのは、一週間前だ。
「調べものくらい、自分でしたい」
彼女が何度もそう言うので、用意した。
初めて手渡したとき、美緒は端末ではなく、僕の顔を見た。
「これ、使っていいの?」
「もちろん」
「何を聞いても?」
僕は頷いた。
「何でも」
あんなふうに僕を見たのは、久しぶりだった。
だから、うれしかった。
最初の質問は、植木の水やりについてだった。
次は、ミルクティーについた染みの落とし方。
それから、昔飼っていた猫の夢を見る理由。
僕が部屋をのぞくと、彼女はいつも画面を見ていた。返事が出るまでにずいぶん時間がかかっても、飽きずに待っていた。
美緒はもともと、知らない相手に話しかけることを怖がらない人だった。
旅行中に道を尋ねれば、そのまま店のおばさんと仲良くなる。電車で隣に座った人から、降りるころには飴をもらっている。
僕だけが置いていかれるような気がしたものだ。
今は、その心配はない。
画面を読み直した。
《旅行先で、同行者と別行動をしてもいいですか》
別行動。
嫌な言葉だった。
初めての旅行も、二日目の朝、美緒はひとりで散歩に出た。
目を覚ますと、隣のベッドが空だった。カーテンの向こうは白く、枕元の時計だけがひどく大きな音を立てていた。
僕は何度も電話をかけた。
美緒が戻ってきたのは、四十分後だった。
紙袋から焼きたてのパンの匂いがした。
「起こしたら悪いと思って」
心配した僕に、彼女はそう言った。
怒鳴ったのは、そのときが初めてだったと思う。
彼女は結局、パンをひとつも食べなかった。
僕も食べなかった。
あの紙袋が、昼過ぎには油で半透明になっていたのを覚えている。
ああいうことは、もう起こしたくない。
《予定にない行動は、同行者の心配につながることがあります。
まずは、お二人で決めた計画を確認しましょう》
返事が画面に並んだ。
しばらくして、次の文章が現れた。
《二人で決めたわけではありません》
僕は椅子に座り直した。
《わたしは、行き先を教えてもらっていません》
写真は見せた。
海の近くだとも言った。
まだ何が足りないのだろう。
《何県ですか、と聞いたら怒られました》
怒ったのではない。
話をしている途中で、何度も同じことを聞かれたから、声が大きくなっただけだ。
それに、詳しい住所を伝える前に、まず美緒が旅行を楽しめるようになることのほうが大切だった。
僕は鼻から息を吸った。
ゆっくり吐いた。
文章は、まだ続いていた。
《同行者というのは、夫です》
僕は手を止めた。
《家の鍵と携帯電話を取り上げられています》
少し間があいた。
《二か月、外に出ていません》
また、止まった。
入力中の印だけが点滅した。
美緒は、すぐには続きを書かなかった。
《明日、知らないところに連れていかれます》
僕は、机の下のスーツケースを見た。
きれいに畳んだセーター。歯ブラシ。白い充電器。
ひとつも足りないものはなかった。
《これは、旅行の相談ではありません》
隣の部屋で、ベッドのばねが鳴った。
《助けてください》
*
モニターの右端に、小さな入力欄がある。
上には、美緒には表示されない灰色の文字で、「返答を作成」と書いてある。
僕はそこをクリックした。
まず、受け止める。
それから、落ち着かせる。
行動について話すのは、そのあとでいい。
《話してくれてありがとうございます。
一人で不安を抱えていたのですね》
ここまで打って、読み直した。
悪くない。
《ここでは、安心して話してください》
送信する。
少しして、壁の向こうで小さな通知音が鳴った。
僕は待った。
美緒には、自分のペースで話してもらったほうがいい。
あのタブレットは、本物のChatGPTにはつながっていない。
画面の見た目だけを、それらしく整えてある。
仕事で作った対話画面の試作品を流用した。美緒が書いた文章は僕のモニターに届き、僕が入力した返事は彼女の画面へ出ていく。
返事が届くまでの間を変えることも、文字が少しずつ増えるように見せることもできた。
少し待たせたほうが、美緒は落ち着いて読んでくれるようだった。
彼女には、電話やメール、ほかのサイトは使えないが、質問や相談はできると説明した。
それは、嘘ではない。
質問もできる。相談もできる。
僕は、どんな質問にも、できるだけ答えている。
植木の水やりも、本で調べた。
ミルクティーの染みは、自分のシャツで試した。
昔の猫の名前だって、美緒から何度も聞いて知っている。
僕が言っても聞いてくれないことを、画面の向こうからなら、彼女は読んでくれた。
牛乳を飲んだほうがいいこと。
よく眠ったほうがいいこと。
他人との関わりを、いったん休んでもいいこと。
あの白い画面は、僕よりずっと上手に、美緒のそばにいられた。
新しい文章が届いた。
《警察に連絡してもらえませんか》
僕は返答欄に文字を打った。
《私は、この画面から電話をかけることはできません》
正直に答えたほうがいいときもある。
《ほかに、この相談を読んでくれる人はいませんか》
美緒は、ずいぶん長いあいだ返事を待っていた。
僕は、その時間を使って、牛乳のついた小鍋を洗った。
こびりつくと、あとが面倒だからだ。
戻ってくると、文章が増えていた。
《急にこんなことを書いて、すみません》
《うまく説明できなくて、すみません》
《いなくならないでください》
僕は濡れた指をズボンで拭いた。
《いますよ》
送信した。
やがて、壁の向こうで、細く息を吸う音がした。
《ありがとうございます》
画面に出たその言葉を、僕はしばらく見ていた。
美緒に礼を言われたのは、何か月ぶりだろう。
*
彼女は、僕に話さなくなったことを、ひとつずつ書いた。
玄関から出ようとしたら腕をつかまれたこと。
母親に送ろうとした文章を、途中で消されたこと。
寝室の窓が、内側から開けられなくなったこと。
それぞれについて、僕には理由があった。
話し合っている途中で、逃げてほしくなかった。
お義母さんには、誤解されたくなかった。
窓は、危ないと思った。
美緒の書く文章には、その理由がひとつも入っていなかった。
《夫は、わたしが具合が悪いからこうしていると言います》
《でも、夫がいないときは、普通に息ができます》
僕は、そこを二度読んだ。
何か言いたくなったけれど、やめた。
今は、話を受け止める時間だった。
《明日、家を出たら、人のいるところで助けを呼びたいです》
僕は、旅程表を開いた。
早朝出発。車移動。休憩。到着。
美緒が不安になりそうなところを、ひとつずつ確認した。
机の引き出しで、美緒のスマートフォンが震えた。
画面を確かめると、お義母さんからだった。
〈明後日、そっちへ行くね。もうメッセージだけじゃ安心できない。顔を見せて〉
ここ二か月、お義母さんへの返事は僕が考えていた。
美緒には、余計な負担をかけたくなかった。
元気にしていること。今は静かに暮らしたいこと。心配しなくていいこと。
何度も伝えていたのに、今週になってからは、会いに行くという話ばかりだった。
僕は画面を伏せた。
出発を明日にしておいて、よかった。
今回、美緒を連れていくのは、父が残した海辺の家だ。
しばらく使っていなかったが、先週、僕が掃除に行ってきた。
美緒の服の大半も、もう運んである。
彼女が目にするスーツケースには、一晩分だけ入れておけばよかった。
隣家はない。
今の部屋のように、夜中の音について階下から苦情を言われることもない。
美緒は、もう人に気を遣わずに暮らせる。
旅程表には、帰りの欄がなかった。
《今は無理に行動せず、安全を保つことを優先しましょう。
明日も、ここで相談できます》
返事が来るまで、少し時間がかかった。
《明日も、あなたはいますか》
僕はすぐに答えた。
《もちろんです》
《家を出ても、つながりますか》
《端末を持っていれば、大丈夫です。
ただし、返事に時間がかかることがあります》
家を離れても、この二つの画面がつながるようにはしてある。
僕のスマートフォンからも返事ができる。
運転中は待ってもらうことになるが、車を停めればいい。
明日になったら、急に彼女を一人にするつもりなどなかった。
美緒の文章から、少しずつ「すみません」が減ってきた。
《最初は、夫に見られるのが怖くて、普通のことしか聞けませんでした》
《今日も、旅行のことに見えるように、少しずつ聞こうと思っていました》
《でも、明日ここを離れたら、どこにいるのかも説明できなくなるかもしれません》
僕は、最初の質問まで画面を戻した。
一泊二日の旅行です。
二人で行きます。
何を持っていけばいいですか。
財布とスマートフォンは、持っていったほうがいいですか。
同行者と別行動をしてもいいですか。
美緒は、旅行を楽しみにしていたのではなかった。
それは、少し残念だった。
でも、まだ出発してもいない。
これからだ。
《まず、気持ちと事実を分けて、ひとつずつ考えていきましょう》
いつものように送信した。
返事は来なかった。
入力中の印がついて、消えた。
またついて、消えた。
壁の向こうが、ひどく静かだった。
ベッドのばねも、衣擦れの音も、しなかった。
やがて、一行だけ届いた。
《夫も、そう言います》
僕は、自分が送った文章を見た。
《気持ちと事実を分けなさい、って》
左手の親指が、机の縁を押していた。
少し痛くなるまで、気づかなかった。
《あなたは、夫ではないですよね》
寝室の床が、かすかに鳴った。
ドアの前に、美緒が来ているのかもしれない。
僕が返事を打つ音を、聞こうとしているのかもしれない。
僕はキーボードに触れなかった。
《違いますよね》
画面の時計が、一分進んだ。
《お願いです》
僕はマウスで、あらかじめ用意していた定型文の一覧を開いた。
クリックの音は、ほとんどしない。
《私はAIアシスタントです。
あなたの話を、ここで聞いています》
返事が表示される時刻を、少し先にした。
それから席を立ち、盆を持って廊下へ出た。
*
「カップ、下げるよ」
ノックをすると、内側で何かが擦れた。
鍵を開けて入る。
美緒は、ベッドの端に座っていた。
タブレットは、膝の上で伏せられていた。
カップの底には、溶け残った蜂蜜が、金色の薄い輪になっていた。
「飲めたんだ」
美緒は頷いた。
僕を見たまま、瞬きをしなかった。
カップを盆に載せる。
盆の両側を持ち直したところで、タブレットが鳴った。
美緒の肩が跳ねた。
彼女は、僕の顔を見た。
それから、盆を持っている両手を見た。
「返事、来たんじゃない?」
僕が言うと、美緒はゆっくり端末を起こした。
白い画面が、頬の下を照らした。
僕は、何も言わずに待った。
カップの中の蜂蜜が、盆の傾きに合わせて、ゆっくり片側へ寄っていった。
美緒はもう一度、僕の手を見た。
ずっと上がっていた肩が、ほんの少し下がった。
「まだ眠れない?」
「……うん」
「無理しなくていいけど、明日は早いからね」
彼女は頷いた。
僕がドアを閉めるまで、画面から目を離さなかった。
鍵を回して、台所へ戻る。
カップを洗い終えてから書斎に戻ると、文章が届いていた。
《疑ってすみませんでした》
その下に、もう一行あった。
《もう、あなたにしか話せません》
*
僕は、返答欄にカーソルを置いた。
美緒が次の文章を送ってくるまで、そのまま待った。
《夫を安心させたほうがいいですか》
入力中の印が点滅した。
《この部屋から出るために、旅行を楽しみにしていると言ってもいいですか》
僕は、ゆっくり息を吐いた。
《はい。今は、ご自身の安全を優先してください》
《出発まで、できるだけ普段どおりに過ごしましょう》
送信する。
壁の向こうで、短い通知音が鳴った。
しばらく返事はなかった。
そのあいだに、僕はスーツケースの中身をもう一度確認した。
着替え。歯ブラシ。タオル。
それから、白い充電器。
これは手荷物に入れてやったほうがいい。
タブレットにも使えることは、確かめてある。移動中に必要になったとき、スーツケースを開けずに済む。
僕はケーブルを巻き直した。
美緒から、文章が届いた。
《言ってみます》
僕は白い充電器を持って、寝室へ向かった。
鍵を開けると、美緒が顔を上げた。
目の下が赤かった。
今度は、タブレットを裏返さなかった。
「充電器、こっちに置いておくね」
机の上に、白い塊を置いた。
美緒はそれを見てから、僕を見た。
「明日のことなんだけど」
「うん」
「……楽しみ」
その言葉を、彼女はほとんど息だけで言った。
聞き返しかけた僕に、もう一度言った。
「楽しみに、してるから」
僕は笑った。
すぐに笑えて、よかったと思った。
「そう。よかった」
美緒の指が、膝の上で重なっていた。
自分で自分の手を押さえつけているみたいだった。
「これ、持っていってもいい?」
タブレットを指す。
「いいよ」
「途中で、取り上げたりしない?」
「しないよ」
美緒は、膝の上の手をほどいた。
端末の縁を、指先でそっと撫でた。
僕は、彼女の髪に触れた。
今度は、よけなかった。
頬の横の髪を、耳にかけてやることができた。
「帰ってきたら、パンを買いに行こうか」
ふと思いついて、僕は言った。
「駅前にあるだろ、あの店。前から入ってみたいって言ってたじゃないか」
美緒は、僕を見た。
何かが顔を横切った。
泣きそうなのかと思ったが、違った。
「今度は、一緒に行こう」
彼女は、口の両端を少しだけ持ち上げた。
「うん」
懐かしい笑い方だった。
僕は部屋を出た。
鍵を回しても、向こうから音がしなかった。
廊下の途中で足を止め、しばらく、そのまま立っていた。
美緒が笑ってくれたのは、僕を油断させるためだった。
髪に触らせてくれたのも、部屋から出るためだった。
もちろん、わかっている。
僕がそうするように勧めたのだから。
でも、形から始めることだって、大切だ。
楽しかったころのように話していれば、少しずつ、楽しかったころを思い出せる。
僕たちは、一度はうまくやれていたのだから。
書斎に戻ると、美緒から文章が届いていた。
《言えました》
《笑ってくれました》
《すごく怖かったです》
僕は椅子に座った。
《よく頑張りましたね》
送信する。
少しして、壁の向こうで通知音が鳴った。
《ありがとうございます》
《あなたがいてくれて、よかった》
僕は、その二行を消さずに置いた。
何度でも、読み返せるように。
*
午前零時を回ったころ、支度はすべて終わった。
美緒の財布とスマートフォンは、書斎の引き出しに戻した。
彼女から預かっていた玄関の鍵もそこに入れ、引き出しに鍵をかけた。
僕の鍵束は、明日着る上着のポケットに入れた。
持っていかなくていいものを減らすと、荷物はずっと軽くなる。
スーツケースを閉じた。
車輪を一度回してみる。
片方だけが、から、から、と鳴った。
充電器だけが、一覧の横で丸をつけられずに残っていた。
僕は「本人の手荷物」と書き添えた。
これで、忘れ物はない。
画面に、最後の質問が出た。
《この相談を、あとから夫に読まれることはありませんか》
僕は文章を打った。
今回は、ひと文字ずつ、丁寧に。
《ありません。
安心してください。ここで話したことが、あなたの夫に伝わることはありません》
送信した。
通知音のあと、壁の向こうから、声が聞こえた。
とても小さくて、最初は何と言ったのかわからなかった。
「よかった」
美緒の声だった。
僕は、部屋の明かりを消した。
明日は、きっといい旅行になる。
それから出発まで、美緒は一度も壁を叩かなかった。
旅行の準備では、忘れ物がないか、何度も確認してしまいます。
着替え、財布、充電器。ひとつずつそろえていくと、知らない場所へ出かける不安も、少しずつ小さくなる気がします。
今回は、そんな安心を作るはずの行為を、ホラーにしてみました。
必要なものをそろえてくれる人。
心配事に答えてくれる人。
「大丈夫」と言ってくれる人。
それぞれを別々に見ているうちは、どれも親切に思えるのですが。
読み終えたあと、最初の質問や、青いスーツケースの中身をもう一度見ていただけたら、うれしいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
どうか、よい旅を。




