6時の鐘を待っていただけでございます
「リュドヴィク様、こちらのほうが、ずっとお似合いでしてよ」
サラヴィアの白い指が、リュドヴィクの外套の襟を、右へ寄せた。
わたくしは、茶器の縁に指を添えたまま、それを見ていた。
この子の襟は、左に寄るのである。縫い目の癖で、右へ寄せると、昼過ぎには肩の線が歪む。それを知っているのは、16年間この子の襟を見てきた人間だけだ。つまり──もう、この家には、わたくしだけだ。
リュドヴィクが、わたくしのほうを見た。助けを求めるような目、というよりは、許可を求めるような目で。わたくしは、静かに、視線を伏せた。6時の鐘まで、あと11分だった。
「レンティア」
食堂の上座から、父の声がした。
「おまえは、もう、朝に起きなくて良い」
朝の光が、卓の木目を、斜めに走っていた。父の声は、11分後に鳴る鐘の音より、ずっと細かった。
起きなくて良い、と父は仰った。その声音には、娘を気遣う優しささえ、わずかに、混じっていた。──それが、この家の父君であった。
「さようでございますか」
わたくしは、茶器の縁から、指を離した。
「お父様。支度は、もう終わっております。今日のことは、今日のうちに、片付けましょう」
「片付ける、とは」
「朝食のあとに、屋敷を出ます。ただ、それだけのことでございます」
父の視線が、わずかに揺れた。たぶん、わたくしが泣くか、嘆くか、食い下がるか、すると、そうお思いだったのだろう。けれど、そうしたことは、もうずっと以前に、済ませてある。
リュドヴィクが、何か言いかけた。わたくしは、軽く首を振った。この子が遅刻する話は、いま、する話ではない。
6時の鐘が、鳴った。
アシュフィールド伯爵家の灯りは、この鐘と同時に整う。厨房の窓、玄関、厩舎、わたくしの部屋──順番は毎朝同じで、10年間、1度も、狂わせなかった。
ただ、鐘を、待っていただけ、のことである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
鞄は、前夜のうちに詰めてあった。
衣装が2着、靴が1足、母の形見の櫛、暖炉の灰を払うための手袋。それだけで、2週間は足りる。
母方の遠縁にあたるヴァイルハイム公爵家が、北部の領境に、療養館を持っている。館長は、母の従姉で、10年前、母の葬儀で、1度だけ顔を合わせた方だ。いつでも訪ねていらっしゃい──母の遺品の中にあった手紙には、そう書いてあった。10年間、訪ねなかったのは、時間がなかったからではなく、訪ねる理由が、なかったからである。
今、理由は、できた。
「姉上」
玄関ホールで、リュドヴィクが、わたくしの袖を掴んだ。外套を着たまま、まだ王宮に向かっていなかった。あと2分で、出なければ遅刻する。
「6時7分までに、馬車に乗りなさい」
「姉上、僕は、」
「馬車に、乗りなさい」
わたくしは、この子の頭を、ごく短く、撫でた。16年のうち、4度目か、5度目の撫で方だった。
それから、襟を、直した。サラヴィアの手が寄せた方向を、元へ戻す、ただそれだけの動作だった。
「鐘の音を、よく聞きなさい。鐘が鳴り終わる前に、門を出る。それだけで、いいのです」
リュドヴィクは、泣きそうな顔で、頷いた。
わたくしは、振り返らずに、屋敷を出た。空はまだ青黒く、朝の冷気が、鞄の持ち手を握る指に、素直に、入ってきた。
門を出て、通りを左へ、石畳を20歩。
馬の蹄の音が、向こうから、聞こえた。
毎朝この時間、この方角から、同じ馬車が通ることを、わたくしは、知っていた。10年間、同じ時間にわたくしは門の内側にいて、同じ時間に、その馬車が門の外を、通っていたからだ。
ただ、その馬車が誰のもので、どこへ向かうのか、わたくしは、知らなかった。知る必要がなかった。
今朝、知った。
馬車は、わたくしの前で、止まった。
御者が扉を開ける前に、中から降りてこられたのは、濃い灰色の外套の、背の高い方だった。馬車の踏み段に足を下ろすと、その方は、右の手袋を、まず、外された。外したそれを、左手に持ち替えて、それから、扉の取っ手に、触れられた。
「レンティア・アシュフィールド様で、お間違いございませんか」
声は、静かだった。
「……はい」
「ヴァイルハイム公爵家のテオドールと申します。療養館まで、お送りいたします」
公爵家の、と言われて、わたくしは、一瞬、言葉を失った。
テオドール・ヴァイルハイム。名前だけは、存じ上げていた。若くして家督を継ぎ、王宮の政務に通っておられる方。新聞で、2度、見た。
「……あの、わたくしは、自分で、参るつもりで、」
「存じております」
「それで、なぜ、公爵様、御自ら、」
テオドール様は、少しだけ、目元を、和らげられた。笑ったのとは、違う。ただ、空気が、ひとつ、柔らかくなった。
「私は、毎朝、この道を通っております。政務の通い道で、ございますので」
それ以上、この方は、何も仰らなかった。
わたくしは、鞄の持ち手を、1度、握り直した。
「馬車に、お乗りください」
テオドール様は、右の素手で、扉を、もう半歩、広く、開けられた。
「どうぞ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
馬車の中は、思っていたよりも、静かだった。
石畳の上を、車輪が、低く震える。その震えが、膝の上に置いた鞄の持ち手を通って、指先に、届く。馬の蹄の音は、外で聞くより、中で聞くほうが、ずっと柔らかい。そういうことを、わたくしは、今朝、はじめて、知った。
向かい側の座席で、テオドール様は、窓の外を見ておられた。外された右の手袋は、まだ、左手に持たれたまま、膝の上に、置かれていた。
わたくしは、その手袋を、1度だけ、見た。
それから、窓の外に、視線を移した。
通りは、動き始めたばかりだった。パン屋の看板が出され、水桶が路地に運ばれ、子供を連れた女が、角を曲がっていく。──いずれも、6時の鐘までに、済ませておくべき支度である。鐘が鳴ってしまった今、彼女たちは、皆、少しずつ、遅れている。
「寒くは、ございませんか」
テオドール様の声が、1度だけ、した。
「……いいえ」
わたくしは、そう、お答えした。寒さは、あった。ただし、寒さというものは、家を出るときに、すでに覚悟していた種類の冷たさだった。
それきり、テオドール様は、何も、仰らなかった。
わたくしも、何も、訊かなかった。
馬車の揺れは、10年間、毎朝、門の外を通っていた、あの蹄の音と、たしかに、同じ音だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
療養館の鐘は、日の出に合わせて、鳴る。
10年間、鐘のほうが日の出より早い家で朝を回してきた人間にとって、これは、奇妙なことだった。日の出は、毎朝、少しずつ、時刻を動かす。鐘は、世界の始まりではなく、世界の始まりへの応答として、鳴る。
館長のオリヴィア様は、母によく似ていらした。
「よく来ましたね、レンティア」
わたくしの手を取ると、オリヴィア様は、そのまま、少しのあいだ、手を離されなかった。
「お母様のお手紙には、あなたの朝のことが、書いてございました」
わたくしは、それを、知らなかった。
「ですから、もう、朝を守らなくて、良いのですよ」
わたくしは、頷け、なかった。
守らなくて良い、と言われたら、朝という時間が、空白になってしまう気が、した。
「……しばらくは、続けさせて、いただいても」
「ええ、もちろん。鐘の時刻は、わたくしたちで、好きに決められますから」
朝5時半に起きてみた。早すぎた。朝6時に起きてみた。遅かった。2日目は、茶の湯気が立ちきらないうちに、鐘が鳴った。3日目の朝に、ようやく、湯気の立ち上がる時刻と、日の出の鐘が、合った。
3日で、合った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アシュフィールド家の時刻が崩れたことを、わたくしが知ったのは、半月ほどのちのことである。
わたくしが屋敷を出た翌朝、リュドヴィクは、王宮への登城に、17分、遅れた。外套の襟が右に寄ったままで、王宮の守衛が、2度、眉を上げたのだと、のちに、老執事レオンが、苦々しそうに、語った。次の朝には、父が、夜会の打ち合わせに、半刻、遅れた。その次の朝には、厨房の茶が、湯気のちょうどいい段階を、通り過ぎた。
サラヴィアは、厨房に指示を出そうとされたと、聞いた。けれど、厨房の娘たちは、10年間、わたくしの合図で動いてきたのであって、サラヴィアの明るい声で動けるように、できていなかった。
合図というのは、覚えるのに、10年、かかるものである。
2週間が、過ぎた。
公爵邸の茶室で、テオドール様の背後に茶器を置きながら、老執事レオンが、ゆっくりと、わざとらしく、息を吐いた。
「旦那様。御存知で、いらっしゃいますか」
「なんだ、レオン」
「アシュフィールド家の時計が、どうやら、壊れてしまったらしゅう、ございます。なんでも、ずっと家を回しておられたご令嬢が、先日、お出になったそうで。お気の毒に」
「……レオン」
「もっとも、そのご令嬢が、ただいま、わたくしどもの屋敷の、ちょうどそこの廊下の向こうで、茶の支度をしておられるというのは、まったく、関係のない話でございますが」
「関係のない話では、ないな」
「左様で、ございますか」
レオンは、うやうやしく、頭を下げた。下げ方が、わずかに、早すぎた。
早すぎるお辞儀というのは、この世で最も、品のない皮肉の形の1つである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その翌朝、6時の鐘の、10分前に、テオドール様が、厨房の戸口に立っておられた。
公爵家の当主が、厨房を覗かれるのは、珍しいことではない。朝6時の、10分前に覗かれるのは、確実に、珍しいことである。
「おはようございます」
「……おはようございます」
わたくしは、茶葉の匙を、1度、卓に置いた。
テオドール様は、厨房の戸口から、半歩だけ中に入ると、右の手袋を、外された。外したそれを、左手に持ち替えて、卓の縁に、軽く、置かれた。
馬車の踏み段で見たときと、同じ所作だった。馬車の中で、膝の上に置かれていたのと、同じ手袋だった。
「レンティア様。1つ、申し上げたいことが、ございます」
「……はい」
「政務に通う道は、ほかにも、ございました。もっと早い道も、広い道も、馬車の通りやすい道も」
テオドール様は、そこで、1度、言葉を切られた。
「ですが、私は、10年、変えませんでした」
わたくしは、瞬きを、した。
もう1度、瞬きを、した。
「……なぜ、でしょうか」
わたくしがお訊ねしないと、この方は、御自ら、お続けにはならない。そう、感じた。事実、テオドール様は、わたくしが訊ねるまで、待っていらした。
「あの家の門前の灯りが、鐘と同時に整うのを、毎朝、見たかったのです」
わたくしの家の灯りは、厨房の窓から始まって、玄関、厩舎、わたくしの部屋の順に、整った。10年間、その順番を、1度も、変えなかった。どの家よりも正確であろうと、そう思っていたのでは、ない。ただ、それが、わたくしの知っている朝の順番だった。
それを、10年、見ていた方が、いた。
門の、外側から。
「どういう方が、あの家の時刻を守っていらっしゃるのか、私は、10年、存じ上げませんでした。ある朝、守っていた方が、門の外に出ていらしたので、私は、その日、ようやく、お声を掛けたのです」
わたくしは、匙の柄を、握り直した。柄が、朝の光で、少しだけ、揺れた。
──いえ。揺れたのは、柄では、ない。柄を握っている、指のほうだった。
「テオドール、様」
「はい」
「わたくしは、ただ、6時の鐘を、待っていただけで、ございます」
10年間、わたくしは、鐘を待っていた。鐘が鳴る時刻に、家の全部が、動くように、ただ、そのことだけを、毎朝、してきた。
その鐘を、誰かが、門の外側で、聞いていた。
石畳、20歩分だけ、離れた場所で。
同じ音を、10年、聞いていた。
「わたくしは、門の内側で、鐘を、聞いておりました」
「はい」
「テオドール様は、門の外側で、お聞きに、なっていらした、ということで、ございますね」
「はい」
「10年、ですか」
「10年、でございます」
沈黙が、厨房の湯気の上を、ゆっくり、流れていった。
わたくしは、茶葉を入れる前の、空の茶器を、両手で、包んだ。陶の肌が、冷たかった。熱いお湯を入れる前の、いちばん、冷たい温度だった。
「あなたは、わたくしに、なにか、仰りたいのですか」
テオドール様は、1度、目を、伏せられた。
それから、もう1度、顔を上げられた。
「レンティア様。これから、私の家の鐘を、守っていただけませんか」
厨房の戸の外で、老執事レオンの咳払いが、1度、聞こえた。
まったく、関係のない咳払いだったに違いない。
「……守るだけで、よろしいのでしょうか」
「守っていただいているあいだは、私は、その鐘を、あなたと同じ場所で、聞いていたいのです」
鐘が、鳴った。
6時の鐘だった。
公爵邸の鐘も、アシュフィールド家の鐘も、王都のすべての鐘が、この時刻に、同時に、鳴る。
ただ、今朝、わたくしにとって、この鐘は、10年ぶりに、同じ側で聞く鐘だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
半月ののち、アシュフィールド家から、父の使者が、参った。
父は、わたくしに戻るように、言っていた。家の時計が壊れて直らない。サラヴィアとの婚約は、先方から辞退された。リュドヴィクが、朝に、泣く、と。
わたくしは、短い返事を、したためた。
『お父様。鐘は、どの家の上にも、同じ時刻に、鳴ります。お聞きに、なってくださいませ』
使者は、帰った。
父は、2度、手紙を寄越した。2度とも、わたくしは、同じ返事を、書いた。
3度目の手紙は、来なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
かわりに、ある朝、6時の、15分前に、公爵邸の門前に、リュドヴィクが、立っていた。外套の襟が、右に、寄ったままだった。
わたくしは、門を開け、石畳を、20歩、歩いた。
この20歩の距離を、10年、毎朝、誰かが挟んで聞いていた鐘のことを、考えないわけには、いかなかった。
「姉上」
「リュドヴィク」
わたくしは、この子の外套の襟を、左に、直した。縫い目の癖は、16年経っても、直らないのである。
「姉上。僕は、」
リュドヴィクは、そこで、1度、息を、吸った。
「──自分で、鐘を、聞こうと、思います」
「さようで、ございますか」
「だから、もう、姉上は、姉上の、鐘を、」
そこで、この子の声が、震えた。
わたくしは、この子の頭を、もう1度だけ、短く、撫でた。
「お聞き、ください」
リュドヴィクは、お辞儀を、した。
お辞儀の速さは、ちょうど、良かった。
わたくしは、この子の背中が、石畳を、遠ざかっていくのを、門の内側で、見送った。
6時の、鐘が、鳴った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
冬の、朝だった。
公爵邸の食堂の窓から、谷の輪郭が、金色に、縁取られるのが、見えた。
卓の上には、茶器が、2つ。
テオドール様は、右の手袋を、卓の縁に、置いておられた。外してから、座られる。それが、この方の、朝の所作だった。
「レンティア」
もう、様は、付けない。
「はい」
「今朝の茶葉は、3つまみ、だな」
「3日目に、合わせました」
テオドール様の指が、卓の縁の手袋に、1度、触れた。触れて、離れた。それだけの所作だった。
鐘が、鳴った。
6時の鐘、だった。
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