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6時の鐘を待っていただけでございます

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/23

「リュドヴィク様、こちらのほうが、ずっとお似合いでしてよ」


 サラヴィアの白い指が、リュドヴィクの外套の襟を、右へ寄せた。


 わたくしは、茶器の縁に指を添えたまま、それを見ていた。


 この子の襟は、左に寄るのである。縫い目の癖で、右へ寄せると、昼過ぎには肩の線が歪む。それを知っているのは、16年間この子の襟を見てきた人間だけだ。つまり──もう、この家には、わたくしだけだ。


 リュドヴィクが、わたくしのほうを見た。助けを求めるような目、というよりは、許可を求めるような目で。わたくしは、静かに、視線を伏せた。6時の鐘まで、あと11分だった。


「レンティア」


 食堂の上座から、父の声がした。


「おまえは、もう、朝に起きなくて良い」


 朝の光が、卓の木目を、斜めに走っていた。父の声は、11分後に鳴る鐘の音より、ずっと細かった。


 起きなくて良い、と父は仰った。その声音には、娘を気遣う優しささえ、わずかに、混じっていた。──それが、この家の父君であった。


「さようでございますか」


 わたくしは、茶器の縁から、指を離した。


「お父様。支度は、もう終わっております。今日のことは、今日のうちに、片付けましょう」


「片付ける、とは」


「朝食のあとに、屋敷を出ます。ただ、それだけのことでございます」


 父の視線が、わずかに揺れた。たぶん、わたくしが泣くか、嘆くか、食い下がるか、すると、そうお思いだったのだろう。けれど、そうしたことは、もうずっと以前に、済ませてある。


 リュドヴィクが、何か言いかけた。わたくしは、軽く首を振った。この子が遅刻する話は、いま、する話ではない。


 6時の鐘が、鳴った。


 アシュフィールド伯爵家の灯りは、この鐘と同時に整う。厨房の窓、玄関、厩舎、わたくしの部屋──順番は毎朝同じで、10年間、1度も、狂わせなかった。


 ただ、鐘を、待っていただけ、のことである。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 鞄は、前夜のうちに詰めてあった。


 衣装が2着、靴が1足、母の形見の櫛、暖炉の灰を払うための手袋。それだけで、2週間は足りる。


 母方の遠縁にあたるヴァイルハイム公爵家が、北部の領境に、療養館を持っている。館長は、母の従姉で、10年前、母の葬儀で、1度だけ顔を合わせた方だ。いつでも訪ねていらっしゃい──母の遺品の中にあった手紙には、そう書いてあった。10年間、訪ねなかったのは、時間がなかったからではなく、訪ねる理由が、なかったからである。


 今、理由は、できた。


「姉上」


 玄関ホールで、リュドヴィクが、わたくしの袖を掴んだ。外套を着たまま、まだ王宮に向かっていなかった。あと2分で、出なければ遅刻する。


「6時7分までに、馬車に乗りなさい」


「姉上、僕は、」


「馬車に、乗りなさい」


 わたくしは、この子の頭を、ごく短く、撫でた。16年のうち、4度目か、5度目の撫で方だった。


 それから、襟を、直した。サラヴィアの手が寄せた方向を、元へ戻す、ただそれだけの動作だった。


「鐘の音を、よく聞きなさい。鐘が鳴り終わる前に、門を出る。それだけで、いいのです」


 リュドヴィクは、泣きそうな顔で、頷いた。


 わたくしは、振り返らずに、屋敷を出た。空はまだ青黒く、朝の冷気が、鞄の持ち手を握る指に、素直に、入ってきた。


 門を出て、通りを左へ、石畳を20歩。


 馬の蹄の音が、向こうから、聞こえた。


 毎朝この時間、この方角から、同じ馬車が通ることを、わたくしは、知っていた。10年間、同じ時間にわたくしは門の内側にいて、同じ時間に、その馬車が門の外を、通っていたからだ。


 ただ、その馬車が誰のもので、どこへ向かうのか、わたくしは、知らなかった。知る必要がなかった。


 今朝、知った。


 馬車は、わたくしの前で、止まった。


 御者が扉を開ける前に、中から降りてこられたのは、濃い灰色の外套の、背の高い方だった。馬車の踏み段に足を下ろすと、その方は、右の手袋を、まず、外された。外したそれを、左手に持ち替えて、それから、扉の取っ手に、触れられた。


「レンティア・アシュフィールド様で、お間違いございませんか」


 声は、静かだった。


「……はい」


「ヴァイルハイム公爵家のテオドールと申します。療養館まで、お送りいたします」


 公爵家の、と言われて、わたくしは、一瞬、言葉を失った。


 テオドール・ヴァイルハイム。名前だけは、存じ上げていた。若くして家督を継ぎ、王宮の政務に通っておられる方。新聞で、2度、見た。


「……あの、わたくしは、自分で、参るつもりで、」


「存じております」


「それで、なぜ、公爵様、御自ら、」


 テオドール様は、少しだけ、目元を、和らげられた。笑ったのとは、違う。ただ、空気が、ひとつ、柔らかくなった。


「私は、毎朝、この道を通っております。政務の通い道で、ございますので」


 それ以上、この方は、何も仰らなかった。


 わたくしは、鞄の持ち手を、1度、握り直した。


「馬車に、お乗りください」


 テオドール様は、右の素手で、扉を、もう半歩、広く、開けられた。


「どうぞ」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 馬車の中は、思っていたよりも、静かだった。


 石畳の上を、車輪が、低く震える。その震えが、膝の上に置いた鞄の持ち手を通って、指先に、届く。馬の蹄の音は、外で聞くより、中で聞くほうが、ずっと柔らかい。そういうことを、わたくしは、今朝、はじめて、知った。


 向かい側の座席で、テオドール様は、窓の外を見ておられた。外された右の手袋は、まだ、左手に持たれたまま、膝の上に、置かれていた。


 わたくしは、その手袋を、1度だけ、見た。


 それから、窓の外に、視線を移した。


 通りは、動き始めたばかりだった。パン屋の看板が出され、水桶が路地に運ばれ、子供を連れた女が、角を曲がっていく。──いずれも、6時の鐘までに、済ませておくべき支度である。鐘が鳴ってしまった今、彼女たちは、皆、少しずつ、遅れている。


「寒くは、ございませんか」


 テオドール様の声が、1度だけ、した。


「……いいえ」


 わたくしは、そう、お答えした。寒さは、あった。ただし、寒さというものは、家を出るときに、すでに覚悟していた種類の冷たさだった。


 それきり、テオドール様は、何も、仰らなかった。


 わたくしも、何も、訊かなかった。


 馬車の揺れは、10年間、毎朝、門の外を通っていた、あの蹄の音と、たしかに、同じ音だった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 療養館の鐘は、日の出に合わせて、鳴る。


 10年間、鐘のほうが日の出より早い家で朝を回してきた人間にとって、これは、奇妙なことだった。日の出は、毎朝、少しずつ、時刻を動かす。鐘は、世界の始まりではなく、世界の始まりへの応答として、鳴る。


 館長のオリヴィア様は、母によく似ていらした。


「よく来ましたね、レンティア」


 わたくしの手を取ると、オリヴィア様は、そのまま、少しのあいだ、手を離されなかった。


「お母様のお手紙には、あなたの朝のことが、書いてございました」


 わたくしは、それを、知らなかった。


「ですから、もう、朝を守らなくて、良いのですよ」


 わたくしは、頷け、なかった。


 守らなくて良い、と言われたら、朝という時間が、空白になってしまう気が、した。


「……しばらくは、続けさせて、いただいても」


「ええ、もちろん。鐘の時刻は、わたくしたちで、好きに決められますから」


 朝5時半に起きてみた。早すぎた。朝6時に起きてみた。遅かった。2日目は、茶の湯気が立ちきらないうちに、鐘が鳴った。3日目の朝に、ようやく、湯気の立ち上がる時刻と、日の出の鐘が、合った。


 3日で、合った。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アシュフィールド家の時刻が崩れたことを、わたくしが知ったのは、半月ほどのちのことである。


 わたくしが屋敷を出た翌朝、リュドヴィクは、王宮への登城に、17分、遅れた。外套の襟が右に寄ったままで、王宮の守衛が、2度、眉を上げたのだと、のちに、老執事レオンが、苦々しそうに、語った。次の朝には、父が、夜会の打ち合わせに、半刻、遅れた。その次の朝には、厨房の茶が、湯気のちょうどいい段階を、通り過ぎた。


 サラヴィアは、厨房に指示を出そうとされたと、聞いた。けれど、厨房の娘たちは、10年間、わたくしの合図で動いてきたのであって、サラヴィアの明るい声で動けるように、できていなかった。


 合図というのは、覚えるのに、10年、かかるものである。


 2週間が、過ぎた。


 公爵邸の茶室で、テオドール様の背後に茶器を置きながら、老執事レオンが、ゆっくりと、わざとらしく、息を吐いた。


「旦那様。御存知で、いらっしゃいますか」


「なんだ、レオン」


「アシュフィールド家の時計が、どうやら、壊れてしまったらしゅう、ございます。なんでも、ずっと家を回しておられたご令嬢が、先日、お出になったそうで。お気の毒に」


「……レオン」


「もっとも、そのご令嬢が、ただいま、わたくしどもの屋敷の、ちょうどそこの廊下の向こうで、茶の支度をしておられるというのは、まったく、関係のない話でございますが」


「関係のない話では、ないな」


「左様で、ございますか」


 レオンは、うやうやしく、頭を下げた。下げ方が、わずかに、早すぎた。


 早すぎるお辞儀というのは、この世で最も、品のない皮肉の形の1つである。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その翌朝、6時の鐘の、10分前に、テオドール様が、厨房の戸口に立っておられた。


 公爵家の当主が、厨房を覗かれるのは、珍しいことではない。朝6時の、10分前に覗かれるのは、確実に、珍しいことである。


「おはようございます」


「……おはようございます」


 わたくしは、茶葉の匙を、1度、卓に置いた。


 テオドール様は、厨房の戸口から、半歩だけ中に入ると、右の手袋を、外された。外したそれを、左手に持ち替えて、卓の縁に、軽く、置かれた。


 馬車の踏み段で見たときと、同じ所作だった。馬車の中で、膝の上に置かれていたのと、同じ手袋だった。


「レンティア様。1つ、申し上げたいことが、ございます」


「……はい」


「政務に通う道は、ほかにも、ございました。もっと早い道も、広い道も、馬車の通りやすい道も」


 テオドール様は、そこで、1度、言葉を切られた。


「ですが、私は、10年、変えませんでした」


 わたくしは、瞬きを、した。


 もう1度、瞬きを、した。


「……なぜ、でしょうか」


 わたくしがお訊ねしないと、この方は、御自ら、お続けにはならない。そう、感じた。事実、テオドール様は、わたくしが訊ねるまで、待っていらした。


「あの家の門前の灯りが、鐘と同時に整うのを、毎朝、見たかったのです」


 わたくしの家の灯りは、厨房の窓から始まって、玄関、厩舎、わたくしの部屋の順に、整った。10年間、その順番を、1度も、変えなかった。どの家よりも正確であろうと、そう思っていたのでは、ない。ただ、それが、わたくしの知っている朝の順番だった。


 それを、10年、見ていた方が、いた。


 門の、外側から。


「どういう方が、あの家の時刻を守っていらっしゃるのか、私は、10年、存じ上げませんでした。ある朝、守っていた方が、門の外に出ていらしたので、私は、その日、ようやく、お声を掛けたのです」


 わたくしは、匙の柄を、握り直した。柄が、朝の光で、少しだけ、揺れた。


 ──いえ。揺れたのは、柄では、ない。柄を握っている、指のほうだった。


「テオドール、様」


「はい」


「わたくしは、ただ、6時の鐘を、待っていただけで、ございます」


 10年間、わたくしは、鐘を待っていた。鐘が鳴る時刻に、家の全部が、動くように、ただ、そのことだけを、毎朝、してきた。


 その鐘を、誰かが、門の外側で、聞いていた。


 石畳、20歩分だけ、離れた場所で。


 同じ音を、10年、聞いていた。


「わたくしは、門の内側で、鐘を、聞いておりました」


「はい」


「テオドール様は、門の外側で、お聞きに、なっていらした、ということで、ございますね」


「はい」


「10年、ですか」


「10年、でございます」


 沈黙が、厨房の湯気の上を、ゆっくり、流れていった。


 わたくしは、茶葉を入れる前の、空の茶器を、両手で、包んだ。陶の肌が、冷たかった。熱いお湯を入れる前の、いちばん、冷たい温度だった。


「あなたは、わたくしに、なにか、仰りたいのですか」


 テオドール様は、1度、目を、伏せられた。


 それから、もう1度、顔を上げられた。


「レンティア様。これから、私の家の鐘を、守っていただけませんか」


 厨房の戸の外で、老執事レオンの咳払いが、1度、聞こえた。


 まったく、関係のない咳払いだったに違いない。


「……守るだけで、よろしいのでしょうか」


「守っていただいているあいだは、私は、その鐘を、あなたと同じ場所で、聞いていたいのです」


 鐘が、鳴った。


 6時の鐘だった。


 公爵邸の鐘も、アシュフィールド家の鐘も、王都のすべての鐘が、この時刻に、同時に、鳴る。


 ただ、今朝、わたくしにとって、この鐘は、10年ぶりに、同じ側で聞く鐘だった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 半月ののち、アシュフィールド家から、父の使者が、参った。


 父は、わたくしに戻るように、言っていた。家の時計が壊れて直らない。サラヴィアとの婚約は、先方から辞退された。リュドヴィクが、朝に、泣く、と。


 わたくしは、短い返事を、したためた。


『お父様。鐘は、どの家の上にも、同じ時刻に、鳴ります。お聞きに、なってくださいませ』


 使者は、帰った。


 父は、2度、手紙を寄越した。2度とも、わたくしは、同じ返事を、書いた。


 3度目の手紙は、来なかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 かわりに、ある朝、6時の、15分前に、公爵邸の門前に、リュドヴィクが、立っていた。外套の襟が、右に、寄ったままだった。


 わたくしは、門を開け、石畳を、20歩、歩いた。


 この20歩の距離を、10年、毎朝、誰かが挟んで聞いていた鐘のことを、考えないわけには、いかなかった。


「姉上」


「リュドヴィク」


 わたくしは、この子の外套の襟を、左に、直した。縫い目の癖は、16年経っても、直らないのである。


「姉上。僕は、」


 リュドヴィクは、そこで、1度、息を、吸った。


「──自分で、鐘を、聞こうと、思います」


「さようで、ございますか」


「だから、もう、姉上は、姉上の、鐘を、」


 そこで、この子の声が、震えた。


 わたくしは、この子の頭を、もう1度だけ、短く、撫でた。


「お聞き、ください」


 リュドヴィクは、お辞儀を、した。


 お辞儀の速さは、ちょうど、良かった。


 わたくしは、この子の背中が、石畳を、遠ざかっていくのを、門の内側で、見送った。


 6時の、鐘が、鳴った。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 冬の、朝だった。


 公爵邸の食堂の窓から、谷の輪郭が、金色に、縁取られるのが、見えた。


 卓の上には、茶器が、2つ。


 テオドール様は、右の手袋を、卓の縁に、置いておられた。外してから、座られる。それが、この方の、朝の所作だった。


「レンティア」


 もう、様は、付けない。


「はい」


「今朝の茶葉は、3つまみ、だな」


「3日目に、合わせました」


 テオドール様の指が、卓の縁の手袋に、1度、触れた。触れて、離れた。それだけの所作だった。


 鐘が、鳴った。


 6時の鐘、だった。


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