八月のアレキサンダー
就活が終わったのか、それとも今日はただ面接がないだけなのか、真木は私服姿だった。六月のいつかのように、音楽室で再び瞳は真木と二人きりになった。朝から降り続いていた雨が止んで、日の光が窓辺から幽かに射しこんでいた。
オーケストラにもよるけれど、この大学のマンドリンクラブは、半円の向かって左端にマンドリン、中央にマンドラ、セロ、右端にギターが配置されている。2ndマンドリンのパートから、瞳は向かいに座る真木を、ただ、見つめていた。
「ねえ、先輩」
「んー?」
たすけて
「……〈虹彩〉のソロパート、弾いてくれませんか」
瞳は危うく歯の先から出かけた四文字を呑み込んだ。でも、口を衝いて出た言葉も本心だった。きょとんとした真木が瞳を見たあと、「ちょっとだけよぉ。あんたも好きねえ」と言って、屈託なく笑う。
「誰かのマネですか」
「今の子ぉは知らんのかぁ」
ひぇえ。と真木が大げさに顔を歪める。歳はそんなに変わらないじゃないですか。と瞳は思わず反論した。真木は一浪して経済学部に入ったと聞いたが、三、四歳差なんて誤差の範囲だ。
真木がギターヘッドに付けたチューナーを使ってチューニングをする。Eから始まって、A、Ⅾ、G、B、1オクターヴ上のEで調弦が終わる。正しい音の高さになる。
観客が一人しかいない、小さな、ほんの短い演奏会が開かれた。
瞳が瞼を閉じる。
(……ああ)
死ぬんなら、死ねるんなら。
今、ここで死にたい。
これを鎮魂歌に、この世界から跡形もなく消えてしまいたい。
なんて、きれいなんだろう。
優しい音。優しい指。優しい人。
音楽に救われるって、こういうこと。淀んだ魂が、洗われるような音色。
五線譜に踊る黒いオタマジャクシの連なりが。白と黒の、モノクロの世界から生み出された生きものが。こんなにも、輝いて、色づいてみえる。きこえる。熱をもった命を生み出す。
ねえ、テイト。文字と音符って、似てるかもしれないね。
この音を知ったときは、うぶで、無垢で、何の穢れも知らなかったはずなのに。今ではこんなにも汚くなってしまった。
それでも、聞こえる音色は変わらない。耳まで腐ってはいないということか。
目の前の男は変わらない。何一つ。
彼の爪に皮膚を傷つけられなくても。膣壁を傷つけてもらわなくても。搔き混ぜてもらわなくても。
本当は、そんなこと、どうだってよかった。
ただ、彼の爪が紡ぐ音楽を、こんなふうに、そばで聴いていたかっただけだ。
「――さぁて。期末試験もやっとこさ終わったし、ボチボチでええからキノさんも練習出てきぃや」
「今月は合宿もあるでぇ」真木がグッと両腕を上げて伸びをした。
「先輩は、秋の定演で引退ですか?」
「ほやねえ」
「それじゃ、枯れ木で恐れ入りますが、禿山くらい賑わしてあげましょかね」
「言うやんけ。楽しみにしてるわ」
ギターをクロスで拭いてケースにしまいながら真木が笑う。彼が帰り支度をする、一つ一つの挙動を瞳は見ていた。
「ほなね。未来のコンミスさん」
右手を軽く上げて、真木が「バイちゃ」と手を振る。瞳が「お疲れ様です」と頭を小さく下げてそれに応えると、「ほよよー」と真木が少し寂しそうに笑った。
彼がギターケースを背負って、出入り口の大きな窓から出たとき、ピコン、と瞳のスマホにメッセージが届いた。母親からだった。
パイプ椅子から立ち上がり、リュックサックを持っておもむろに室内を移動する。
グランドピアノの前に腰かけ、瞳は鍵盤蓋を開けた。譜面台や屋根までは上げず、その上にリュックサックを置く。臙脂色の、フェルトのキーカバーを軽く畳んで、その上にスマホを載せた。
真木が弾いてくれた、ギターのソロパートを鼻歌で歌いながら、瞳は鍵盤を指で押した。ずっと、ずっとゆっくりの速度で。一音一音を噛みしめるように。
「フ……、フ、フ、フ……」
レ
ミ
ラ
ファ
本当だ。ギターとピアノって、なんだか似ている。耳で憶えた音をすべて拾うように、瞳が両の手を動かす。
「フ、フ、フ……フ、フ、フ……」
ファ
ミ
レ
レ
ド
レ
ぽたり、ぽたり、と白と黒の鍵盤に雫が落ちた。下唇を噛みしめる。
涙が、止まらない。
――元気? がんばりよらっしゃあ?
野菜とアジの開き、送っちょいたで
ひーちゃんはもろみ好きやけん
もろきゅうにして食いんさいね
土曜の午後に届くちよ
込み上げてくる嗚咽を堪えながら、「ばり元気。ありがとう。がんばっとるよ」とメッセージを送る。元気に動くウサギのスタンプと一緒に。「えらかねえ。がんばりぃ」と母から返事がすぐに返ってきた。
ごめんね。を呑み込む。誰に宛てているかもわからない謝罪を。
こうして親に言えないことばかりが増えていって、すべてを周囲に語らないことが当たり前になっていく。でも、子どもってそういうもんなんだろう。大人はそれが当然あるべき姿なんだろう。語られないことのほうが、世の中多いのだ。きっと。だって、もう十九だから。立派な成人ですから。
生きているだけで、息をしているだけで褒めてくれる存在が、そういえば、海の向こうにはいたことを思い出す。今からヒトをひとり殺す自分なんて、人間の屑の屑に思えていたのに。
あの小さな、息苦しい島を抜け出したときと、いったい何が変わったというのだろう。自分はきれいになったのか、汚くなったのか。でも特に、何も変わっていないのかもしれない。だって、あの音楽を美しいと思う心は変わらない。紀野瞳という名前で外界と隔絶された魂が変わらずここに在るように。
ピアノに突っ伏すように額をくっつけていた姿勢から、瞳は不意に、窓の外に視線を移した。
雨上がりの空に、虹の橋が架かっている。副虹もおぼろげに見えた。
その美しさに、頬をピアノにつけたまま、瞳は思わず笑みをこぼした。
リュックサックの外側のポケットから、薬袋を取り出す。二日――四十八時間後の今に鳴るよう設定していたスマホのアラームを、音が鳴り始める数秒前で止める。
半円状になった歯列の、奥歯と頬肉の間に二錠。もう片方にも同じように二錠、錠剤を挟み込む。唾液と混じりあって異物が溶けゆくのを待つ。
あの、無限にも見える色の変化を、人は七色やら六色やらに分類し、名づけることで心の中に書き留めたという。各国で虹脚埋宝伝説が残っているように、その袂に近づこうとしても、決して辿り着くことはできないけれど、それでもあの虹を追う者たちはどこの国でも、いつの時代にも必ず存在する。
二つの、虹。
色の並びを反転し合って。対になって。
まるで、スポットライトの光が似合う、彼らのようだ。決して手の届かないところにいる存在。至高の二人。
死後の世界なんて、ちっとも信じていないけれど。
天国が、あればいいと願った。きれいなものしか、目に映らないような、聞こえないような。そんな安らかで穏やかな場所が。名もなき小さなモノのために。
二つの虹に挟まれた、昏い部分を。
瞳は、瞬きもせず、見つめた。
角膜に、虹彩に、網膜に、焼きつけるように。
――――――――Fin.
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