七月のシーザー
ユーザーNo.9 40歳 独身 ユイコ
中学生の頃からアイドルグループを追いかけていたら、いつの間にか四十になっていた。
何のホラー映画だろう。最近はもう、ネトフリで流行ったホラー映画よりも、四十代で結婚できない女を題材にした漫画を読み進めるほうが怖い。背すじがぞっとする。私、いつまでひとりなんだろうって。
でもそんな漫画にはちゃんと救済がある。魅力的なヒーローが登場し、ヒロインは結婚して、物語は円満に終わる。
漫画のいいところは、夢をみせたままで終わらせてくれるところだ。
漫画の悪いところは、そんなヒーロー、現実世界にはいないということを突きつけてくれないところだ。
四十歳独身女の孤独。嫁き遅れ。売れ残り。薹の立った女。みじめ。ミザリー。
検索サイトのサジェストに出てくる候補を見るたびに、孤独が五臓六腑に沁み渡る心地がする。
誰からも本気で愛されたことがない。フラれてばかりの人生。求められない女。いてもいなくてもいい女。
いったいどうして、こんなことになったのだろう。
「テイトくん」
駅の待ち合わせ場所で、一際目を引く整った顔の男に声をかける。私に気づいた彼が、ニコリとはにかむように笑って手を振ってくれた。心臓が高鳴り、幸せが子宮から込み上げてくる。
テイトは自然に手を繋いで、「行こっか」と私を窺うように見下ろし、小首を傾げた。
今日は何をするでもなく、ランチを一緒に食べるのが目的だった。そのあとは駅に併設された商業施設でウィンドウショッピングを楽しんで解散。性感マッサージはまた今度のお楽しみ。
「テイトくんって、ほんとに二十九歳? もっと若く見えるね」
「そう? ユイコさんとも最初会ったとき、めちゃきれいでびっくりした。今日も髪きれい。触っていい?」
いいよ、と答えて立ち止まり、テイトを見上げる。彼との身長差は十センチほど。巻いた私の髪の毛をくるんと指で扱って、「可愛いね」とテイトがそこに恥ずかしげもなくキスを落とした。
テイトと会う前は必ず美容室に行く。ネイルサロンにも定期的に通っているし、アイサロンも予約する。全身は既に脱毛済みだし、セラピストはハイジニーナが好きだというアンケート結果を見てからは、VIOもツルツルに仕上げている。
私と十一歳差。一回り差でないだけ、干支が違うだけまだ救われた気持ちになる。でも、隣に並んでも大丈夫だよね。おかしくないよね? 私、若く見えるって言われるし。童顔だし。
(ああもう、結婚してくれないかな)
付き合うを通り越して結婚してほしい。彼との子どもが欲しい。私だって子どもが産みたい。母親になりたい。親に孫の顔を早く見せてあげたいよ。
セラピにガチ恋なんて、イタいってわかってる。でも、逆もよくあるって聞くし。セラピが客に沼ることも多いって。女風を扱う漫画や小説も一時期は珍しかったけど、今じゃ全然普通だし。
夢のような時間は一瞬で溶けていく。仕事をしているときの時間は一向に進んでくれないのに。女風の時間は体感で十倍は速度が違う気がする。
別れ際、テイトはいつもキスをしてくれる。人目も憚らず。それって、周りからカップルに見られてもいいってことだよね? 私が隣に並んでもいいってことだよね。テイトの行動一つ一つが私の自信に繋がる。テイトは、「私まだまだいけるじゃん」って思わせてくれる天才だった。
「あの、LINEの連絡先とか、そろそろ教えてくれない、かな」
「……ごめんね。プライベートの連絡先交換するのは、禁止されてて」
失敗した。こんなに貢いでも、まだ、プラべにはなれないのか。勘違いも甚だしかった。「ごめん! 忘れて」と私は咄嗟に顔を俯けた。やばい。泣きそう。目が見られない。直視できない。恥ずかしい。セラピと客。その一線を踏み越えてほしいだなんて。なんておこがましい妄想。願望。
「――でも、ユイコさんには教えるね。特別に」
テイトが私の両頬を温かい手で包み込む。そのまま顔を上げさせて、鼻をこすり合わせるようにキスをしてくれた。「好きだよ」と彼の口が囁く。
天にも舞い上がるような気持ちって、このことか。
あまりの嬉しさに涙がこぼれた。「私も、好き」とえずきながら伝える。ぎゅっと抱きしめてくれながら、テイトは本名を教えてくれた。
テイトの特別になれたこと。この上ない歓び。歓喜の歌が頭の中で流れる。
プラべになれたんだ。いや、これって告白だよね。彼氏になってくれたってことだよね? 私たち恋人どうしだよね?
おそるおそる尋ねると「うん。俺はユイコさんの彼氏」とテイトが笑った。
晴れて付き合うようになっても、二人ですることはあまり変わらなかった。ホテル代はいつも私が出す。お小遣いもあげる。だって早く〝卒業〟してほしいから。セラピストの仕事を辞めてほしかった。私以外の女の股を舐めてるなんて耐えられない。私だけを見てほしい。私だけに愛を囁いてほしい。だって普通そうでしょ? 女なら誰だってそう思うでしょう。
ホスラブのテイトのページを見て、優越感に浸る。リアコ勢にそれとなく匂わせる。「テイト彼女いるよ」って。彼女しか知らない情報を投下する。それだけで蜘蛛の子を散らしたような騒ぎになる。
でも、終わりは突然やってきた。テイトと付き合ってから半年が過ぎた頃だった。
店のテイトのプロフィールページが、消えた。
連絡もまったくつかなくなった。これまで既読スルーはあっても、未読スルーはなかったのに。一日と置かず連絡をくれていたのに。おやすみ、おはよう、ってメッセージを送り合っていたのに。
会社を一週間休んだ。彼氏が消えたから。推しピが消えたから。好きピが消えたから。どうして? 私、彼女じゃなかったの。恋人じゃなかったの。特別、じゃなかったの。
育て? 君営? 本営? 色恋?
まさか。営業じゃないでしょ。だって言ってくれたじゃん。何回も。こんなことするの私だけって。特別って。
噓つき噓つき噓つき。
ホスラブとSNSに醜い感情を吐き出した。だってそうしないと、涙が溢れて止まらなかったから。こんな、セラピに捨てられた孤独な四十女なんて、そこらに落ちた小石よりも価値がないと思えてくるから。
――普通、常連客には一言あるでしょ。これだから風坊って礼儀知らないよね。
――百万はつぎこんだ。
――まだ可愛い。私は新車買えるくらい使った。
――うわ、騙された。やっぱみんなに言ってたんだねww
――本あり?
――LINE教えてもらってたひとー?
――LINEの名前なんだった? Y?
――違う。M。
――ウソww何個名前使い分けてんの
――生きてくのに必要なだけwww
――ハウルかよww
テイトが消えて二週間が過ぎても、ホスラブにはまだテイトのことが書き込まれていた。最初の頃よりも投稿数は下火になっていたけれど。三日ぶりに書き込まれた一つの投稿を機に、再び加速した。
――なんかホテルでテイトの客の風嬢が自殺未遂起こしたらしいよ。
「は?」とその文面を見て、思わず声を漏らす。
――テイトにいつもリプしてたイタい女? ぷいきゅあ、って垢。
――マジでwww全然ニュースなってないじゃん
――すべての事件が報道されるわけないでしょ。バカ?
――すぐバカっていうBBAこそコンプレックスの塊。
――テイトも刺されたらしい
――え、タヒった?
――やば
――生きてる
――よかったね。生きてて。
――すぐに死なれたら困る 生きて償え 客の心もてあそんだ罪
――呪ってやる呪ってやる一緒に死ねばよかったのに死ね死ね死ね死ね死ね死ね
――はい開示。
はあ、はあ、と暗闇でスマホを握り締める。ベッドに横になり、電気を消してから既に二時間が経過していた。文字を打ち込む指が、ページをリロードする指が止まらない。
知っている。開示開示って言っても、どうせそんなコストがかかることしないって。これまでだって、何もなかった。だからきっと今回も大丈夫。
数か月後。テイトのことは過去の汚点として葬り去ろうと、女風体験談のブログを書くことに勤しんでいたときだった。一通の封筒が届いた。中の文書には「発信者情報開示請求に係る意見照会書」と記載されていた。
「え、ウソ」
玄関先で、立ち竦んだ。
*
ユーザーNo.17 50代 既婚 マナミ
旦那とはレス。もう、二十年以上ヤッてない。
あまりにも求めてこないから、必要最低限の性欲しかないんだろうと思っていた。若い頃から旦那は枯れていた。まるで、仏のような男だ。
と思っていたら、浮気された。とんだ煩悩野郎だった。浮気相手に送るメールを、間違えて妻の私に送ってきた。問い詰めたら「どっちも好き」とほざきやがった。知るかバカ。ここは日本だ。嫁一人で我慢できないんだったら中東にでも行ってしまえ。
晴れてサレ妻になったけれど、離婚はしなかった。もう働いていなかったけれど、看護師免許は持っているから、いつでも自活はできた。でも自分にとって、子は鎹だったから。父親を早くに亡くしていた私は、子どもにも同じように父親のいない目に遭わせたくなかった。当時、小学五年生と三年生だった子どもたち。この子たちの名字を変えさせるなんてできない。したくなかった。
今はもう、子どもも大学を卒業して、社会人になって、自立している。旦那と二人きりの生活。毎日ご飯を作っても、早起きして弁当を作ってやっても特に感謝されない。凪のような生活の中で、女風のことを知ったのはいつだっただろう。たぶん、スマホを扱っていた際、視界に飛び込んできた漫画の広告をタップしたときだ。ああ、今はこんなサービスがあるのね。って。新鮮に思った記憶がある。
数か月は、本当に利用するかどうか悩んでいた。でも、無性に寂しくなって、旦那が出張のときに風俗店のサイトに載っていた番号に電話をかけた。
五十を過ぎたおばさんなので、それでもいい人を。
そう言ったのに、ホテルのドアを開けると、思った以上に若い子が来て、驚きを隠せなかった。恐縮だった。はたから見れば、息子と母親じゃないか。
年齢を訊いたら、二十九とのこと。本当に息子と同い年だったことに愕然とする。
「ご、ごめんね。こんなことさせて」
オイルマッサージをさせるのも申し訳ない。こんな筋力の衰えた躰を見せてすまないと思う。垂れた乳。垂れた尻。妊娠線のある、ぽこりと膨れた下腹。セルライトまみれの太腿。潤いなんて疾うの昔になくなった、カサカサの肌。
それでも、「きれいだよ」とセラピさんは言ってくれた。
年甲斐もなく声が漏れる。あられもない格好。旦那だって、嫁のこんな姿見たことない。新婚の頃だって、いつも前戯はほどほどに、鳥並みのスピードで終わるセックスしか体験したことがなかった。
よがったところを、重点的にまさぐられる。おばさんの喘ぎ声なんて聞きたくないだろうから、なるべく声を我慢した。
世界が真っ白にはじける。全力で走ったあとのように息が上がっている。抱きしめてくれた彼の背も、汗が滲んでいた。張りのある肌。若い筋肉が盛り上がっている。
ああ、まだ、自分は女だった。
そう自覚できたとき、涙がこぼれた。
それから、女風を利用するのは月に一度の楽しみになった。一二〇分の娯楽。ホテル代を合わせて三万円弱。もっと楽しむために、看護師、復帰しようかしらとも思い始めてきた。
特定の人は選ばず、色んなセラピストに入ることにしていた。「ああ、またあのBBAか」って思われないように。どんなセラピストも初回は気を遣ってくれるだろうから。女風ではセラピさんに会うことを「入る」ということをSNSで他のユーザーさんが教えてくれた。
でも最初に入ったあのセラピさんは、二回目でも優しいかもしれない。
久しぶりに入ってみようと店に電話したら、彼は既に辞めたことを告げられた。
「あら。あらあらあら」
フラれたとも違う。胸にぽっかりと穴が空いたような心地。手の届かない存在が伴侶を見つけたときのような感覚。ずっと推してきたアスリート、俳優の結婚報道で、心の拠り所が、他の人のものになったことを知ったときのような。得も言われぬ、喪失感。
(どこかで、元気でいるといいのだけれど)
ふう、とスマホで通話終了のボタンをタップして、息を吐いた。
一息つく間もなく、違う風俗店に電話をかける。
「やっぱ回遊しか勝たん」
*
ユーザーNo.21 32歳 元アイドル ミズキ
あの世界は、自分には眩しすぎて、いつも逃げ出したかった。
アイドルを夢みたのは私。それを叶えたのも私。努力し続けたのも私。
でもアイドルを卒業して、蓋を開けてみれば、この歳で彼氏もできたことがない、立派な喪女の出来上がりだった。お芝居でおざなりにした、文字通り表面上のキスしかしたことがない。純粋培養乙女って、何歳まで許されるわけ? 少なくとも三十過ぎてからはイタいでしょ。
三十二歳独身処女。肌の曲がり角はとっくに過ぎた。スッピンなんて誰にも見せられない。見せたくない。この前、頬骨あたりにできたシミは、レーザーで即消した。
アイドル時代、スキャンダルを素っ破抜かれる先輩たちを、バカだなぁと思って見ていた。私にはプロ意識があった。自分はアイドルだという自覚がある。疑似恋愛の対象なのだ。だから現役時代、彼氏は作らなかったし、言い寄られても適当にあしらってきた。
その、反動が今、返ってきている。
それを切に実感している。
卒業した今の私が手に入れたのは、大っぴらに恋愛してもいいという免罪符だったはずだ。
なのになんでだ。誰も三十路過ぎの女には言い寄ってこない。来るのは浮気性の軽い男だけ。
追い打ちをかけるように、同級生たちの慶事が続々と届く。そして早くに結婚した地元中学の同級生の子どもが、今年、自分たちが卒業した中学に入学したと知ったときの絶望。
幸せになるために、アイドルになったんじゃなかったっけ。私って幸せになれるはずの人間じゃ、なかったの? 十六歳でアイドルになってから、ちょうど十六年。ずっと孤独なんですけど。
犠牲にしたものが、大きすぎたんじゃないか。失った若さを、青春を、今更取り戻したかった。十年前に戻れないのはわかっている。とりあえず、この空虚な心を誰かに満たしてほしかった。男と肌を重ね合わせてみたい。触れ合うだけじゃないキスをしてみたい。何なら処女だってもらってほしい。
色々調べた結果、女風に行き着いた。すべては金が解決する。
でも、東京では噂がすぐに広まる。現に女風を利用した先輩は、早速ネットに晒されていた。芸能人に個人情報の保護なんて、あってないようなものだった。
でも男だけ、ずるくないか。男が風俗に通っても噂にすらならないだろう。なんで女が風俗を利用したらこんなにも騒がれるんだ。
地方都市でのロケが終わり、仕事用の電話番号で登録したLINEから風俗店に予約を入れる。
選んだのは、二十九歳のセラピストだった。紹介文に「圧倒的イケメン」と書かれている。どうせ肌を見せるならイケメンがいい。
サイトに載っている自己紹介のボイスを聴いた。穏やかで、落ち着いている人だ、と思った。
「初めまして、テイトです。……ミズキ、さん?」
「あ、はい。そうです。どうも」
滞在するホテルの部屋に現れたのは、顔の整った人間なんて見慣れた自分でも、イケメンだと思える男だった。
ただ、どこかで見たことがあるような気がした。
「……何か、モデルさんとかしてました?」
「え、いや何も。でも、知り合いに似てるってけっこうな確率で言われます。たぶんよくある顔なんかな」
教育が行き届いているのか、私のことを元アイドルだとわかっているだろうに、何も訊いてこない。逆にこちらが過去を詮索するような真似をして悪かったなと思った。三十を過ぎたら、人間どんどん厚かましくなる。かまととぶれる年齢は疾うに超えていた。
耳慣れない方言が可愛い。目が合ったとき、照れたように笑う姿が可愛い。ああ、これはハマるな。そんな予感がした。いい人を引けて良かった。
暗記するほど読み込んだ女風レポによれば、本番を迫られることもあるそうだけど、彼は淡々黙々と施術に徹してくれた。初めて知る快感が、堪らない。途中、彼の下着が膨らんでいたのもちゃっかり確認した。私の裸に興奮してくれたのは、素直に嬉しかった。拗れに拗らせた自尊心がひどく満たされた。
しかしこちらが拍子抜けするほど、別れはあっさりとしていた。一五〇分きっちり。時間通り。でも、そのプロ意識にこそ、好印象を覚えた。
東京に帰って、次はいつ会いに行こうか、会いに行けるかと思案していたときだった。
セラピストの紹介ページが、消えた。ブックマークにしていたページを開いた瞬間、404のフォントが無情に踊る。
そうか。アングラの世界では、こういうことが日常茶飯事に起きるのか。
自分が利用したのは風俗だということを、忘れていた。
飛行機代なんて全然払うから、東京に来てもらうのもいいかもしれないなんて考えていたのに。
「えー。残念」
思わず独り言が漏れる。
でも、初めての女風が、彼のおかげでいい思い出になったのはよかった。
他にいい人いないかなあ。と同じ店のセラピスト一覧をタップして、新規ピを探すことにした。
*
ユーザーNo.4 20歳 風嬢 ジュリア
「テイトテイトっおねがいおねがいっウチといっしょに死んでよおおおおッ」
唾を振りまき、涎を垂らした女が血走った眼で見上げ、縋りついてくる。腕に長い爪が食い込んだ。不快感で眉根を寄せる。
ホテルのドアが開いて、こいつが立っていたときの、絶望。込み上げる怒り。諦念。
電話番号を何度も変えて会おうとしてくる。その浅ましい根性に脱帽する。
この鶏ガラみてえな細腕のどこにこんな馬鹿力があんのかって。全力で部屋に引き入れようとしてくるのを踏ん張って抵抗する。絶対にドアは完全に閉めない。この入口から移動しない。
「……ODは勘弁しろよ」
「もう生きたくないんよ死にたいと死なせてよバカッ」
床とベッドの上にとっちらかった錠剤を見て、顔を歪める。
俺だって生きたくないよ。疲れるよ。お前みたいな、ビョーキの女相手にすんの。
摑まれている腕を犠牲に、もう片方の腕で後ろ手にスマホを操作して、内勤さんに電話する。スピーカーボタンをタップした。
「あ、すみません。テイトです。ジュリアでした。聞こえてると思いますが、無理っす」
『……はあ。警察呼ぶね。私もすぐ行きます』
何度も剝がした。警察が介入しても事態は変わらなかった。あらゆる手段を使って何度も会おうとしてくる。言葉は通じないのに、そういう知恵はよく働く。
「死んでやる! 今ここで死んでやるから! 本気じゃないと思ってんだろ!」
「バカ、やめろ!」
どこに隠し持っていたのか、果物ナイフの刃が目の前をよぎった。女の手首から血が噴き出す。思わずその手首を押さえて、心臓より高いところに引き上げた。鉄の匂いが充満する。
「ね、テイトもしんでよ」
いっしょにいこ?
「は?」と声を出す前に、ナイフが頸の皮膚を裂いた。痛みは、まったく感じなかった。
頸、刺された? これ。
ドク、ドク、と心臓の鼓動とともに、血が、溢れ出す。流れ落ちる。手で頸を押さえようとするも、血のぬめりでうまく押さえられない。
――馬鹿だねほんと。俺もお前も。実に馬鹿だね。
何の漫画のセリフだっけ。
「……ははっ」
最悪の状況って、もう、笑いしか出らんのやな。知らんかったわ。
ねえ、俺って、最低なんだよ。
こんな俺を好きになってくれてありがとうなんて。死んでも思わんけどさ。クソったれが。
ひとみちゃんとそんな歳も変わらんのに。この差は何なんやろ。育ちの差って、ほんまエグいな。品があるとかないとか、それ以前の問題。親の顔が見てみたい。いや、こいつが育った環境とか今は心底どうでもいい。
俺と、こいつと何が違うのか。
何も違わないのかも。底辺で足搔いているのは一緒だった。
クサいおっさんの相手するの、しんどいよな。わかるよ。
痛くされるのもつらいよな。よがってるふりするのも、セットしてる髪触られるのも、顔舐め回されるのも、だるいよな。俺も嫌だよ。汚くて臭いBBAのマンコ舐めるの。
ほんとは耳も指も舐めたくない。躰の末端て思ったより汚いから。洗えてるようで洗えてない。心底気持ち悪い。
だから、耳も、指も舐めたいと思ったのは、ひとみちゃんが初めてだった。紅くなった耳が可愛くて。いつでも楽器が弾けるように整えられた爪が愛しくて。
清らかだったから。犯したかった。
セラピストなのに癒されたかった。彼女のきめ細かな肌に触れたかった。自分のものにしたかった。
(ああ。ドラえもんのセリフか)
どうでもいいことばかり思い出される。その中で、貴いひとときの思い出が脳裏に映し出された。
「テイトは、ドラえもんに道具一つ出してもらえるとしたら、何出してもらう?」
白く泡立った風呂で、ひとみちゃんが、泡を両手で拾いながら言った。彼女の表情は、背後からは見えなかった。
「あたしは、どこでもドアかなぁ。だって、宇宙とかも行けるんやろ?」
宇宙飛行士って、一回は憧れるよね。
振り返ったひとみちゃんと間近で目が合う。その表情は、きらきらと子どものように輝いていた。
「テイトは?」
「――テキオー灯」
「……なんで?」
「ひとみちゃんがどこに行ったとしても、息できるように」
「はぁ? ついてくる気なん」
「えー連れてってーな」
「イヤやし」
距離を取ろうとするひとみちゃんの腰を摑んで引き寄せる。戯れでバシャバシャと浴槽の湯が揺れた。
ああ、もうダメだな。
彼女を後ろから、ぎゅっと抱きしめながら、息を吐いた。
好きだ、と思ったから。
愛しいと、思ったから。
十も年下の女の子を。散々穢しといて。欲望の捌け口にしといて。
愛しさが、溢れてくる。泣きたくなるほどの。
「好きだよ」なんて、どうでもいい相手には何度だって言えたのに。考える前に口先から滑り出ていたのに。この子にだけは絶対に言えない。身勝手な感情。劣情。
同僚のセラピを見て、客に恋するとか、アホやんなって。思っとったけど。
完全なブーメラン。
もう、縋っちゃ、あかんわ。
Shall we their fond pageant see?
Lord, what fools these mortals be!
「……人間って、ほんま、愚か、」
意識が朦朧とするなかで、複数の足音が迫り来る音、「テイトっ」と自分を呼ぶ内勤さんの声が、聞こえた。




