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六月のミッドサマー





「あれま。こんな朝はよから音楽室(ここ)おるん。堂々とサボリですかあ?」


 髪を黒く染めた真木がリクルートスーツ姿で音楽室に現れた。就職活動のためか、リクルートスーツに身を固めた四年生の姿をキャンパス内で見ることは珍しくない。「あー、外あっちい」とジャケットを脱ぎながら真木がネクタイを緩める。朝が早いと言っても、時計の針は十時を回っていた。


「授業、サボったことないです。……大学は、親の金で通わせてもろてるから」


 ぽつり、と瞳がこぼす。真木が目を見開いた。ヒュウ、と軽やかな口笛が鳴る。


「……えっらぁ。キノさんマジメやなあ」

「マジメやったら、ちゃんと、部の練習にも出てますわ」

「マジメにフマジメなんか。ゾロリか」

「ゾロリって何ですか」

「知らんのかい」


 カクッと真木が片方の肩を落として笑う。定演後、瞳は糸が切れたように、音楽室に足を運ばなくなっていた。理由は、わかっていた。しかしマンドリンを時折持ち帰って、指を動かす練習は続けていた。

 ――マジメ。優等生。中高と生徒会に入っていた瞳が何度も周囲に言われてきた言葉だった。

 大学の授業料は年間五十四万。入学金に二十八万かかっている。親からの仕送りは月に五万。内訳は家賃光熱費が四万と、残りの一万がその他の生活費。地方だからこの仕送りで暮らしていけるのだと、上京した高校の同級生たちが仕送りについてSNSで話題にしていたのを見て、瞳は知った。

 懇切丁寧に育てたキャベツを一玉百円で売る家族の姿を間近で見て育った。百姓の家からこの金を絞り出すのがどれだけ貴重かなんて、身に沁みてわかっている。

 それなのに。自分はいったい何をしてるんだろう。


「爪、きれいにしとうやん」


 瞳とただ話すつもりなのか、自分の定位置には座らず、真木は2ndパートに座る瞳の隣にドカッと腰かけた。フレットを握る瞳の指が視界に入ったのか、真木が言った。

 皮肉だ。と咄嗟に瞳は思った。

 なぜなら、ジェルネイルで彩られた爪だったからだ。

 所々にきらめくストーンがちりばめられ、紅のグラデーションに染まった爪は華やかだった。いや、真木は思ったことを正直に言っただけなのだろう。しかしこんなの楽器を扱う爪じゃない。少し伸びた爪では、現にうまくフレットを押さえられなかった。

 人は、爪を見れば、大概のことはわかる。飲食業に従事する人。医療職。ピアノを弾く人。セラピスト。クラシックギターを弾く人。爪が無精に伸びている男は、普段からセックスをしていないんだろうか。なんて、無粋なことまで考えるようになってしまった。


「整えちゃろか? 新しい爪やすりあるけん、あげるこれ。無印で買うたやつ」


 脱いだジャケットの内ポケットに入れていたのか、袋に入った爪やすりを取り出し、そのうちの一枚を目の前に差し出される。もらうのは憚られて受け取らずにいると、「ん」と今度は真木が自身の左手を差し伸べてきた。意図を解せず、瞳が首を傾げる。「左手、出しんさいや。あとで右もな。ほれ」と真木は催促するように指を動かした。

 シュッ、シュッ、と真木が慣れた手つきで瞳の伸びた爪を削っていく。手を握られて、ドギマギしているのは、瞳だけだった。

 真木の指は、テイトの指と、全然違った。テイトの爪は両手ともに深爪しそうなレベルで短い。性器の粘膜を傷つけたらいかんからだの何だの言っていた。

 この人はどんなセックスをするんだろう。左手だけで女を愛撫するんだろうか。右手の爪で女の肌に傷をつけたことがあるんだろうか。

 目の前の後輩が、こんな卑猥なことを考えているだなんて、彼はちっとも知らないだろうけど。


「……自分、爪が、割れやすいかもで」

「今の時期はそんな乾燥せんけど、弱い人は弱いもんな。ハンドクリーム塗るとき爪にも塗ったってや」

「ハンドクリーム持ってないです」

「ぬわにぃ? 女子って、やたらめったら誕プレとかでハンドクリームもらいっこするやんけ。一個もない?」

「誕生日、四月だったもんで」

「え、もう過ぎとるやんか」

「入学式前には」


 四月の誕生日あるあるだった。みんなと仲良くなる前に誕生日が過ぎている。


「しゃぁないなあ。あとで俺のワセリンちゃんのストックをやろう」


「みんなには内緒やで」と言われながら、今度は右手を出すよう真木に促される。右腕で抱えていたマンドリンを、左手で持ちかえて、瞳は右手を真木に差し出した。


「――俺はまだキノさんがギターに()んの諦めてないけんね」


 だからか。真木は瞳の右手の爪を左手のような短い形にせず、わざわざギターが弾ける形に整えようとしていた。いい音を奏でるために、どのような形に爪を整えればいいか。それはギター奏者によって千差万別であり、人それぞれだ。そして、マンドリンでトレモロは一丁前に弾ける瞳だったが、ギター奏者としては初心者だった。初心者にはその勘所がわからない。真木が瞳の右手の爪を整えるのは、いつでもギターを奏でられるようにするための指針、道しるべと言えた。


「……マンドリンが、いいんです。あたしも、皐月先輩みたいに鳴らせるようになりたいから」

「俺かてあの音聴いとうときは目ぇつぶっときたいわ。女神(ミューズ)が弾いてくれようハープか思えるんに」


 目ぇ開けたらゴリラなんやもん。

 真木が唇を大げさに歪めながら、溜め息をついた。



 ――そんなことを、言っても。



 瞳は奥歯をグッと噛みしめた。

 好きなんだろう。

 マンドリンなんて弾いていなくとも、彼女が。

 彼にとってはミューズなんだろう。


(……先輩。もうあたし、おぼこじゃないですよ)



 ちぃた、垢抜けましたかね。



 いつの間にか眼鏡をかけなくなったこととか、こぎれいになっただとか、真木から瞳の外見に対する指摘はまったくなかった。後輩の大学デビューなんて見慣れているのだろうか。

 瞳は、勝手に空回りした気分になっていた。最初から、彼の視界にも入っていなかったってこと。恋愛対象として、見られていなかったということだ。

 晴れて素人童貞ならぬ()()()()の完成だった。滑稽でしかない。親が聞いたら泣くだろう。処女を売って金を得たならまだしも。まだしも? わざわざ金を払ってまで、処女を捨てた、だなんて知ったら。

 初めての行為は、痛いというよりは、苦しくて。うまく息ができなかった。はいっているときはずっと手が痺れていて。時が経つのを長く感じた。もう、無理、待って、って揺さぶられながら何度思ったかわからない。今思えば、指先が痺れていたのは、過換気症候群になっていたからなのだろう。なんでかわからないけれど涙が溢れて止まらなかった。テイトはそれを指で、唇で優しく拭ってくれた。

 行為のあと身に着けた下着には血が付いていた。月のもののようなドロリとした血じゃなく、さらりとした薄紅色の血が。でも量は多かったのか下着の表側にまで染みていた。これが破瓜の血ってやつか、と他人事のように思いながら、瞳は帰宅したあとに洗面所で下着を手洗いした。









 美容には金がかかる。きれい、を維持するには金がいる。学生料金が使えるうちにVIOの処理を含めて、全身脱毛もしよう、と瞳は考えた。美容室1。ジェルネイルに0.8。医療脱毛20。マウピ矯正35。誰のためでもなく、自分のためにする。瞳はそう言い聞かせた。


「ゴムなしのまんずりとゴムありの挿入やったら、後者を選ぶわ」

「何その、肉抉られて骨も残らんみたいな戦法」

「なんで男って、なんべん言うても避妊せんとかいな」

「猿なんじゃね?」

「猿岩に頭ぶつけて死んでほしい」


 何それ。と言う由希に、数少ない故郷の観光地である猿岩の写真を瞳が見せると、由希が腹を抱えて爆笑した。

 パパ活アプリよりも実入りがいいと由希が言うので、瞳も交際クラブに登録した。「パパ活」なんて可愛い言葉のフィルターにかけられた、ただの売買春だとわかっている。自由恋愛を掲げて性欲を処理したい男と、金だけがほしい女の攻防。

 手当てはお茶0.5、食事1、プチ2、キスと()()はなし。これが瞳の設定した下限だった。太パパ、良パパは大人なしで+1、2くれたりもする。話を聞いて、頷くだけで、財布に諭吉と栄一が増えていく。普段どれだけ、人に話を聞いてもらえないのだろう。心底同情する。留学費用を貯めたくて、奨学金を返済したくて、資格試験に必要なの。なんて嘘八百を並べて。自分の娘よりも年下の女に欲望の塊をしゃぶらせる。男の性器をねぶるよりもキスのほうが瞳には抵抗があった。


「大人3でどう?」

「歯は立てんでね」

「唾少ないよ」

「呑み込んでくれたらお手当て弾むから」


 キモいおっさんほど、口先から出る言葉も気持ち悪いことを瞳は知った。脳が腐っているとしか思えなかった。



        *



 テイト以外の男とのキスもセックスも知らないけど、ヘタクソではないんだろう。むしろ巧いんだろうなと瞳はひとりで結論づけた。毎回きもちがいいし、こちらは泣いて啼いてよがって喘いでばかりだ。喉が渇いて堪らない。これがスタンダードだと思っていると、そこらの男には満足しなくなるかもしれない。特に自分が吐き出して終わりだと思ってるようなクズには。瞳が何回達したかもわからなくなったところで、テイトはゆっくりはいってくる。一度フェラをしようとしたら断られた。そんなんしてもらわんでも勃ってるから。などと言って。体位を散々変えて遊んだあと、瞳のへそ周りに、テイトが精液を散らした。


「テイトって、抵当権に聞こえて、ムカつくんやけど」

「ようわからんキレ方やね」

「マジで民法死んでほしい。どこが面白いんかちっともわからん」

「ひとみちゃんは法学部やっけ?」

「うん。テイトは? 東京の大学行っとったて聞いた」

「文学部やったねえ。勉強は好かんかったけど」

「文学部って何べんきょうするん」

「人間とは何か、とかぁ?」

「抽象的すぎん? 科研費のムダやん」

「言うねえ。ちっぱいのに」

「ちっぱい言うなチンカス」


「お下品!」「粗チン」「なんやておっきいほうやぞ」低レベルのやり取りをしながら瞳がテイトを足蹴にする。テイトは瞳が咄嗟に彼の脇腹に膝を入れてしまっても、無意識にその背に爪を立てても、何をしても怒らなかった。


「――でも最近ね、文学ってか本? 図書館の力ってすごいなって思った。友だちが、図書館好きって言いよって。……そもそも、図書館好きとかいう人に、初めて会った。友だちの親、聞く限りめちゃ毒親なんやけど。娘に金せびってくるって。でも、友だちはすごい頭良くて。鳶が鷹を生むってやつ? 初めて見た」

「ああ。ひとみちゃんに女風教えちゃった子ね」


 悪い子なんか良い子なんか。

 テイトが瞳のうなじに腕を差し入れ、腕枕をする。瞳はテイトに躰をいっそう近づけ、頭をコテンと彼の二の腕に委ねた。


「……本って、別に、ただ本でしかないやんて、思いよったけど。友だちに比べたら、あたしって、何も知らんなって。……その子見よったら、もっと勉強したくなる」

「――そっか」


 よかったね。とテイトが微笑んで、瞳の額にキスを落とす。そのまなざしが、とても優しかったのが嬉しくて、瞳も「うん」と目を細めて笑った。

 しかしテイトの次の言葉で、瞳は思わず眦を裂いた。


「んー、ちっぱいひとみちゃんにお似合いの台詞があったな。And though she be but little, she is fierce. イギリス人やったら誰でん知っとう有名な台詞」

「――はあ? ナニソレ」

「『夏の夜の夢』、シェイクスピア。ひとみちゃんくらい頭よかったらもう原書読んだほうがええんちゃうかなあ。ほんとは耳で観るほうが、いっちゃけどね」

「耳で、みる?」

「劇はな、『聴きに行く』って言いよったらしいよ。あの時代は」


 ちょうど今、練習してんねん。

 さっとテイトの腕が瞳の頭の下から引き抜かれた。そのおかげで瞳はシーツに側頭部をぶつけてしまった。

 真っ裸のままベッドから抜け出たテイトが、自身の鞄から二冊の本を取り出して戻ってくる。よく見れば、それは台本と文庫だった。どちらにも付箋がたくさん貼られていた。『夏の夜の夢・あらし』と記された文庫本の表紙が、少しだけ、丸本大悟氏のCⅮジャケットの色合いに似ていると瞳は思った。


「……文学って、何? 演劇って、何? そんなに面白い?」

「さあ。金にならんもの、やない?」


 ある人にとっては、一生、な。

 台本を手に取って見つめるテイトの目は、煌めいていた。まるで宝物を扱う少年のようだった。目の前に置かれた文庫本を瞳が寝転がったまま手に取る。ページにはマーカーが引かれ、鉛筆での走り書きも随所に見られた。


「テイトにとっては?」

「追ってしまうもの、追わずにはいれんもの、かなあ」

「……夢を?」

「愚かな夢想家。虹を追う者レインボー・チェイサー。何とでも言いや。……いつか役者一本で食っていけたらとは思うよ。はよ足洗いたいわ」

「足を洗うって言い方、……なんか、犯罪者みたい」

「一度アングラに堕ちたらね、這い上がんのもなかなかムズイんよ。でも俺みたいな最底辺におる奴らのほうが、案外、正直に生きてたりするわけで」

「なんで、最底辺なんて言うん? 助かってる人、多いと思うけどなあ」

「はは。ありがと」


 ただの世辞と受け取ったのか、テイトは乾いた笑みを浮かべた。


「職業に貴賤なしとはよう言うたもんやけど。裏では風坊やら舐め犬て言われようのも俺らは知っとる。客の中には、セラピを自分より下に見ることで自己肯定感を高めるしかない人らも多い。世間一般の人間やったら、風俗で日銭稼ぐほど堕ちたくないて思うもんよ」

「テイトも?」

「……親きょうだいに言えん仕事しとる時点で、真っ当な職とは、冗談でも言いきらんわ」


 テイトが、苦虫を噛み潰したように眉根を寄せて、口を噤んだ。

 他者と繋がっているSNSではキレイゴトが、掲示板には醜い感情が、至るところで見え隠れしている。誰もが表では清廉潔白を装い、裏では色んな顔を使い分けている。瞳は一つのSNSにつき、一つのアカウントしか持っていないが、由希は両手で数えられないほどのアカウントを駆使しているという。大学のリア友と繋がる用。パパ活用。女風用。メモ用。女子高生を装ったアカウント。隠密用。毒吐き用。そのほか、ジャンルごとに分けた趣味のアカウントが五つ以上あるという。それらの仮面を一つの脳みそで使い分けられるその器用さに、瞳は脱帽した。

 セラピストに対して、一見理解あるふうに装って、色々訊いてくるオバハンが一番怖い。とテイトは語った。


「……シェイクスピア劇を観とると、俺はどうしても道化に感情移入してまう。憧れすら覚える。底辺の職業についとる生き物が真実を語るから。――価値の転倒。逆しまの世界。王と愚者の逆転……。まあ『夏の世の夢』のパックは道化ってか、トリックスターよりなんやけど」


 ぼそぼそとテイトが台本のページをめくりながら呟いた。彼が何を言いたいのか瞳にはよくわからなかったけれど、彼がパックという登場人物を演じるということだけは、開いた台本のページで、パックの台詞に無数のメモが書き込まれた様子から見てとれた。


「源氏物語だって、枕草子だってそうかもしれんな。ひらがなで書かれた物語――草紙ってのは、文学の中でも最下層にあったから。江戸時代までの文学体系の中で、ピラミッドの頂点は仏教典。次点が漢詩、漢文。その次に韻文、和歌。最後にかな混じりの散文。物語は一番下の地位。(おんな)子どもが嗜むものとして扱われ、他とは一線を画された。でも、だからこそ、すべての文学体系を思う存分に取り込むことができた。……ま、あの時代の女房ってのはエリート中のエリートやけど。でもそんな人らでさえ、下の名前は後世に残らんのやから」


「世の中、むつかしもんやね」ベッドに寝転がったテイトが台本を腹の上に置いて、瞼を閉じた。

 きれいさっぱり。自分のことなんか忘れてほしい。と言っていたのに。

 それは、「テイト」のことだったのか。と瞳は気づいた。

 彼の芸名も、本名も知らないけれど、テイトじゃない彼が、舞台上でもっと輝いたら、それだけを生きる糧にできたら。どんなに嬉しいことだろうと瞳は思った。


「――叶うといいね。テイトの夢」


 瞳はベッドから降りて、マンドリンをケースから取り出した。服は当然身に着けていない。ベッドに戻り、もはやこのラブホでマンドリンを弾くときの定位置になっている壁際で、マンドリンを抱きながら胡坐を搔く。

 テイトが瞼を開けて、「……え?」と瞳を見た。


「こんな避妊もせんクズ男に処女あげて金ドブって思ったけど」

「……ひっどい言い草やーん」

「投資って思うことにしたわ」

「投資?」

「うん。投資」


 フレットと弦の間に挟んだピックを取り出しながら、瞳が満面の笑みを浮かべる。


「やけん、今から弾くのは、餞ってやつ」

「はなむけ」

「そ。〈願いの叶う本〉っていうんやけどね」


〈杜の鼓動―魂の還る場所―〉と同じく、『Music for Mandolin』に収録されていた曲だった。演奏を始める。すべて耳コピだから、正確ではないのだろうけど。指の数が許す限り、瞳はメロディがマンドリンから他のパートに移る小節も弾いた。

 優しい曲だった。本当はアンサンブルやオーケストラで他の楽器が奏でる音も聴いてほしいけれど。この身一つでは付け焼刃の単独リサイタルしか開けない。それでも、今のテイトに聴いてほしいと瞳は思った。


「願いの叶う本、か……。どんな本なんやろなあ」


 演奏を終えたとき、テイトはいつの間にか上体を起こして、瞳の真向かいに胡坐を搔いていた。テイトも何も身に着けていない。


「――あたしは、まっさらやと思う」

「まっさら?」

「うん。自由帳みたいに、ページには、なんにも書かれてないと思う。そこに文字を書いて、絵を描いて、物語を紡ぐのは、自分なんよ」


 マンドリンを傍らに置き、膝立ちになって、テイトに近づく。瞳は彼の形の良い頭を自身の胸に抱き寄せた。


「いいやん。いくつになっても夢追っかけて。あたしは、かっこいいと思う」


 初めて異性に面と向かって「かっこいい」などと告げたことが、何だか無性に照れ臭くなる。「ま、せいぜいがんばればぁ?」と瞳は自分の顔を絶対に見られないように、テイトの頭をぎゅっと抱え込んだ。



「……ありがとな。ひとみちゃん」



 背中に腕を回され、テイトに抱きしめられる。力強く、温かい。どうしてだろう。瞳より一回りも広い肩幅が、背中が、不思議に小さく見える。最後の小節を弾き終えて、マンドリンのフレットから顔を上げたとき、その眼が震えているように見えた。今にも、泣きだしそうに見えたから。

 どちらからともなく、唇を合わせた。

 うつ伏せにされて、瞳の弱いところを間断なく攻め立てられる。

 瞳の背中に雫が落ちた。テイトが汗を搔いているのか。それとも彼の涙なのか、瞳には知る由もなかった。

 この体位は寝バックというらしい。後ろから胸を触ってもらえるのが、心地よくて。背中にテイトの体温を直に感じられるのがきもちよくて、瞳は正常位よりも好きだった。



        *



 しばらくしてテイトのプロフィールページが風俗店のサイトから消えた。別にアングラの世界じゃよくあることらしい。ホスラブのテイトのページは女風利用者(ユーザー)たちの投稿で阿鼻叫喚の嵐だった。いったいどれほどの女を泣かせたんだろう。

 洗面所に洗面器を置いて、その上に吐く。ネバネバとした胃液が糸を引く。ぼこぼこ、所々に気泡が発生している。吐瀉物を無造作にトイレに流す。饐えた臭いのする洗面器を、浴槽用のスポンジで洗う。

 テイトが瞳に似合うと言ってくれた台詞は、どんな言葉だったかもう忘れてしまった。テイトが練習していた劇の名前も、検索はかけなかった。その代わり、「カショオ」とスマホで検索する。


「紀野先生、痩せた?」


 バイト先の塾で中学生の女子生徒に指摘される。確かに最近、スラックスがベルトで調整しないとぶかぶかだった。


(体重計、持ってないしな)


 由希の家で体重計を借りる。四十六・七キロ。四月の健康診断から、十キロ近く痩せていた。









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