五月のクイーン
五月の定期演奏会が、滞りなく幕を下ろした。瞳は2ndマンドリンの末席に名を連ね、パンフレットにも名前が載った。一年生で唯一、奏者として参加できたことに、自尊心を満たされなかったと言えば嘘になる。
しかし、マンドリンを触り始めてまだ一か月の瞳にとって、初めての演奏会は楽譜を追うのに必死で、他のパートの音を聴く余裕もあまり生まれなかった。楽譜と指揮を交互に見るので精いっぱいだった。
本番のさなか、2ndマンドリンとギターパートが小休止の間、向かいの真木と瞳は、確かに目が合った。2ndの先輩たちの背中と後頭部の間から、垣間見えた、対岸の彼の表情。口の端を上げて、歯を見せずに真木は得意そうに笑っていた。がんばれ。と、彼の目が物語っているように、瞳には見えた。
ステージに降りかかる照明が熱い。こんなにも、奏者は光で熱せられるのか。じりじりといぶされているような感覚。観客の姿は舞台からあまり見えない。気にならない。
今、こちら側にいること。一緒に音楽を紡いでいること。
それだけが、そのことが、とても、誇らしかった。
定演前、瞳は土日も含めて毎日練習に明け暮れていた。しかし、演奏会用の衣装を買って所持金が底を突きそうになったのを機に、定演が終わってからアルバイトを始めることにした。仕送りのほかに自由に使える金も欲しかった。
「宿題、してきとらんの。まあ、別いいけど」
瞳は個別指導塾の講師のバイトを選んだ。自分の一時間を三桁以下の値段で渡したくないというだけの理由で。
「いいよ? これからも宿題してこんでも。したない言うてる生徒に強いてさせんから」
怒られるとでも思っていたのか、瞳の隣に座る生徒は、肩透かしを喰らったように目を見開いた。中学二年生の男子。思春期に大人と目を合わせて話ができる子は案外少ない。その点は瞳も評価していた。
「ただ、」
解答欄がすべて空白のまま机に出されたプリントを束ね、瞳はトントンとその角を揃えた。
「この授業一コマにどれだけお母さんがお金払っとるか知っとう? 五千円よ。五千円。そん中で、あたしの懐に入るんは千円ちょっとやけどな。君が宿題せんでもあたしの人生に何ら関係ないし。ああそうですかあ、てなるだけ。所詮あたしはバイトやし」
生徒と目を合わせる。彼の眼が不安げに揺れ動いた。
(――デカい口叩いて。あたしは何様なんだろうか)
しかし何かが彼の心に刺さったのか、次の週から彼は宿題をちゃんとしてくるようになった。と言うより、早めに塾に来て、授業が始まるまでの間に宿題を終わらせるようになった。彼の両親は離婚しており、母親、そして弟との三人暮らしであることを瞳は知っていた。働く母の背中を見て育って、彼なりに思うことがあったのかもしれない。
「紀野先生のおかげで、シュートくん、最近みるみるうちに成績上がってるんですよ。彼のやる気スイッチ押してくれてどーもです!」
「塾長、それ競合他社のキャッチコピーやんけ」
ケラケラと同僚の塾講師が軽快に笑う。飲み会の席で、顔を真っ赤にした上機嫌の塾長から瞳は礼を言われた。「いや、あんまり褒められる言い方じゃなかったと思うんですけど……」と梅酒のソーダ割を口に含みながら瞳が言葉を濁す。
成人年齢を十八に引き下げたのなら、飲酒ができる年齢も引き下げてくれたらよかったのに。実際のところ、廿になるまでに酒を飲んだことのない学生など、瞳の周りにはいなかった。
「へえ。紀野先生、マンドリン弾いとるんや。私、高校のとき吹部でな、クラ吹いとったとよ」
「クラリネットのことですか?」
「そうそう! な、楽器やっとったらエッチもうまくなるよな」
「意味わからーん」
きゃはははと同僚女子たちの甲高い笑い声が響く。不思議と、耳障りには感じない。
「いやマジマジ。この前、車の免許とりに合宿行ったんやけど、そこで知り合った男と近くのホテルでワンナイトしてん。そしたら『うっわ、フェラばりうま』って言われたもん」
「エッチうまくなる楽器いうても吸って吹く吹奏楽オンリーやがな」
口含むときと舌の動きにコツがあってなぁ、と続くあっけらかんとした話題に挟まれながら、瞳は先日の定演後の打ち上げを、ひとり思い出していた。
人はアルコールが入ると、話が下ネタに行き着くのは男女共通らしい。
「真木は可愛い後輩できて鼻の下ぁ伸ばしよんだら。センパイセンパイ言われて。ええ気分になっとりゃせんかぁ?」
「なんつーか、一年てほんまおぼこいよな。ほろ酔いメイクてなんやねんおてもやんかいな。処女厨にはええかもしらんがの」
「お前、自分がヘタクソやから、年増が好きなんじゃろ」
「ヘタないわ。ちゃんとエロいマッサージのバイトしとうダチにテク聞いたっちゅうねん」
「『ナカに指入れて下腹押しゃぁ女全員よがると思うな死ね』てガールズバーの姉ちゃんにこっぴどくフラれたんはどこのどいつや」
「げえ。なんでそんなん知っとんなら」
「へべれけになって『ああんフラれたぁ』愚痴りよったんはてめえじゃ」
「最近はマスク美人が多すぎなんやあ」
「確かにマスク取ったら残念すぎる女多すぎ。新手の詐欺や詐欺」
自分たちのことはいっさい棚に上げた男たちの下世話な口上が、手洗いに立った瞳の耳にまで届いた。上級生の男たちは一年生と離れた場所に陣取って酒と煙草を口に含んでいた。一人がマッチングアプリを開き、おすすめに出てくる女たちを「ブス」だの「見るに堪えん」だの笑って酷評する。
――おぼこいって、なんだろう。どういう、意味だろう。
彼らを尻目に瞳は手洗い場へと足を速めた。酒を呑みすぎたのか、心臓が、バクバクと痛いくらいに鼓動していた。トイレに入り、スマホで「おぼこ」と検索する。
未通女。生娘。処女。
予想通りの単語の羅列に、はっと、瞳は思わず短い息を吐き出した。何事もなかったかのように、スマホをスラックスのポケットに収める。
用を足して、手を洗い、目の前の鏡を見る。
黒くて重たい前髪。化粧っけのない顔。高校生のときから変わらない眼鏡。
カッと、目の前が羞恥と怒りで真っ赤になるような衝撃を覚えた。
ぐわんぐわんと景色が揺れるような感覚に耐えながら、手洗い場を後にする。
しかし戻る方向を誤ったのか、入口のほうに歩を進めていたらしい。大衆居酒屋を出る団体客の波から逃れられず、瞳は一瞬、外に足を踏み出してしまった。
そこでふと、皐月と真木の姿を目の端に捉えた。
酔っているのか、皐月は真木に甘えるように寄りかかって談笑していた。
二人の唇が重なる。
幻なんかじゃない。
一気に現実に引き戻された瞬間、何かが、瞳の中ではじけた。
*
初めて自分で稼いだ金で、瞳はファッション雑誌を買った。美容室で髪を染めた。サロンに行って、眉毛を整える傍ら、「パリジェンヌ」なんて名づけられた、本場のパリジェンヌは少しも興味を抱きそうにないまつ毛パーマをかけた。
韓国からカラコンを仕入れた。乱視度数が幅広く選べるカラコンは、まだ日本では作られていないらしい。乱視が強い瞳にとって韓国製のコンタクトはコスパが高く、重宝した。
化粧を覚えた。ファッション誌と動画共有サイトで勉強する。薄過ぎず、濃過ぎず。顔の第一印象は眉毛で決まることを覚えた。ドラッグストアでも買えるようなプチプラと、デパコスを組み合わせてメイクをする。なるほどこれは、テンションが上がる。
誰のためでもない。誰に見てほしいわけでもない。
自分のために、化粧を施した。
化粧という名の、仮面をつけた。
「クリスタルキングの〈大都会〉って、東京やなくて博多のことやってんて。ひとみん知っとった?」
「知らんがな」
同じ学部の友人が、できた。彼女の名は由希といい、瞳と同じアパートの違う階に住んでいた。雑学知識に富んだ彼女との会話は瞳にとり新鮮そのものだった。帰路に就くなか、近所の神社に繁る杜から、草木の匂いが薫り、瞳の鼻腔を刺激した。
「緑の萌える匂いがすっごいなあ。もう初夏やんね」
「これ、栗の花の匂いやんな。なんか精子のニオイに似とらせん? うちのゴミ箱んニオイするわ。くっさ」
「風情のカケラもあらしまへんなあ」
瞳は精子の臭いなんて嗅いだこともなかった。生でヤッて腹の上に出した精液をティッシュで拭き取り、それをゴミ箱に放置していると、この鎮守の杜と同じニオイがするらしい。初夏の香りとは、生命の成れの果てのニオイと同じだったのか。
由希は一浪しており、誕生日が四月の彼女は廿だった。一年生ではあるが、貞操観念が周りの「おぼこ」よりもブレイクスルーしているのは確かだ。
「今はうちら二人で帰れてるけどさ、やっぱどうしても夜道一人になるときあるやん。そんときはカバディしながら帰ればええよ」
「は?」
「カバディ。知らん? 『カバディカバディ』言いながら反復横跳びして帰れば、誰も寄ってこんで」
「警察呼ばれるわ」
髪の色が明るく、格好も華やかな女が、瞳の目の前を「カバディ」とブツブツ繰り返しながら反復横跳びしていく。彼女の厚底のスニーカーが地面に引っかからないか、瞳のほうがヒヤヒヤした。
しかし人は見かけによらず、由希はとても賢かった。才色兼備という四字熟語は彼女のためにあるようなものだと瞳は思った。今日も由希のワンルームの部屋でローテーブルを囲み、中間試験に向けた勉強をする。瞳はもっぱら彼女に教えを乞う立場だった。
「んじゃ、次は……胎児の権利能力について」
「いつからがヒトとみなすかってやつ?」
「そそ」
どちらもスッピンに眼鏡のくだけた格好だった。分厚いテキストと授業ノートを広げ、ハンドアウトが積み重なったテーブルは、心なしかその重荷で脚が震えているようだった。由希が右手でシャープペンシルをクルクルと器用に回している。彼女は跡がつかないヘアクリップで前髪を留めていた。彼女は黒いそれを「タガメ」と呼んでいたが、島育ちの瞳でさえ、その生き物を図鑑の中でしか知らず、実際に見たことはなかった。
「そもそも〈みなす〉って何?」
「メモによるとだねぇ……『「みなす」とはすなわち反証を許さないということ。「推定する」とは反証を許す、覆る。反証により効果を覆すことができる。』って書かれとる」
「『みなす』と『推定する』は違うってことか」
「そゆこと。……わぉ。教科書にすっごいこと書かれとるな。『胎児は人ではないから権利能力を有しないはずである。』ってさ」
「……ちゃんと生まれな、赤ちゃんは人じゃないってこと?」
「うーん。刑法で『出生』は一部露出説、民法では『全部露出説』をとっとるんやて。でも、次の法律関係に限り、人ではないはずの胎児を生まれたものとして扱う……すなわち、みなす、と。
一、不法行為に基づく損害賠償請求権。721条。
二、相続。これは886条。胎児を子ども一人としてカウントする。
三、遺贈の受遺者。965条。遺贈ってのは遺言による贈与のことね。
あとは……父親による胎児の認知も認められる。783条1項。但し、それには母の承諾が必要、と。なぜなら、①認知の真実性を担保、②母のプライバシーに配慮するため。ってさ」
「……これ全部憶えないかんと?」
「試験範囲やからねえ」
まだまだいっぱいあるよぉ。と笑いながら、由希が「中間範囲」と記載された民法テキストの目次ページを瞳の前に掲げる。法曹界に憧れて法学部を選んだのは自分とはいえ、軽率に足を踏み入れたことを呪いたくなった。
「――但し、胎児は生きて生まれるとは限らない。判例によると……大判昭7・10・6では、胎児の時点で権利能力を取得するわけではなく、生きて生まれた場合に、胎児中、問題が生じたときまで遡って権利能力を取得する、と考えている。これは、生きて生まれることを停止条件と考えるもので、法定停止条件説と呼ばれる。――停止条件とは、条件が実現……成就して初めて法律効果が発生するもの。したがって、生まれるまでは権利が未発生の状態であり、生まれる前に母親がその権利を処分することはできないことになる」
「……やっぱり生きて生まれな、胎児は人じゃないんやね」
「法律の世界ではねえ」
いつからが人か。いつから人は、生きていると言えるのか。権利能力を有しているとみなせるのか。
そもそも権利の主体とは、という民法の序の口から躓きつつある自分のおぼつかなさに瞳は大きく溜め息をついた。
「あー。もうマジ。中間テストとか死ねばいいのに」
「テスト終わってほしいよなぁ。うちもはよレンくんとエッチしたーい」
「レンくんてだれ」
「セ・フ・レ」
ティンダーで出会ってぇ。
浮かれた調子で由希がセフレの写真をスマホで見せてくる。瞳はすべてを開けっぴろげにできる彼女の精神に感嘆しつつ、自分に対して心を許してくれているその態度に、少しだけ安堵を覚えた。
「セックスってきもちい?」
「相性第一かなぁ。ひとみんは処女好きなひとぉにとっときたい派?」
「いや別に。後生大事にとっとってもしょんないとは思てるけど、どうせするならきもちいいほうがええなあ」
「ティンダーはマジでクズしかおらんけど、イケメンでセックスうまいやつは多いかもしらん」
何人かセフレ紹介しよか? 竿姉妹なる?
由希が親指でトークアプリの画面を上下にスライドさせる。煌びやかなジェルネイルが施された彼女の長い爪を瞳は見つめた。彼女は瞳の知らない言葉を、知らない世界を教えてくれる稀有な存在だった。
彼氏なんていらない。欲しくない。でも、その行為は気になる。小学生までの評定欄にあった、興味関心という項目に二重丸が付けられるほど。
「でも今はアラサーでも処女て珍しくないらしいし、急がんでもええんちゃう? うちは初めてとか最悪やったかんな。中一んときやったけど。相手は中三で近所のヤンキーでな。前戯もあったもんじゃなし。血ぃバリ出たわ。へったくそやったあ」
あっはっはと由希が豪快に笑った。
「ま、ただの性的サービスやったら断然女風がええな」
「ジョフウ?」
「女性用風俗。知らん? イケメンが挿入なしで、愛撫だけしてくれんねん。今けっこう流行っとるよ」
それでもいれてくるクズはおるけどなあ。と由希は笑った。
由希のスマホ画面に映し出された女性用風俗店のホームページを見る。セラピスト一覧、というページには、もうJがつかなくなった青年団にでもいそうな優男たちの写真が多数載っていた。
ホストみたい。と瞳が言えば、確かに元ホストはバリ多い。と由希から返ってきた。
「デートにも使えるし。別にエッチなことせんでも。マッサージだけとか。エステ感覚で使うオバハンも多いらしい」
「風俗がエステて、新しいな」
「男の間でもメンエスて流行ってるから、女だけどうこうってわけじゃないんやろけど。あ、でも油塗りのバイトは割に合わんからオススメせんぞ」
「したことあるん」
「体入だけ。マジでオッサンきしょかったわぁ」
あー今思い出してもゲボ吐きそう。鳥肌やばぁ。
ノースリーブに短パン姿の由希の白い肌が、太腿の内側まで粟立っているのが瞳にも見てとれた。
由希のスマホを借りて、女性用風俗店のサイトを一通り眺める。料金欄をタップしてみると、そのサービス料の高さに、瞳は思わず声を漏らした。一時間に一万円強。一学生が気軽に手を出せる金額ではなかった。
「たっか。どっから出すんこんなお金」
「P活ぅ」
「Pかつ?」
「パパ活。ま、大昔で言うところの援交やな。浪人時代、予備校代稼ぐために始めたんやけど。うち母親が娘にたかるようなクズやから金も全然無うて」
およよ、と由希が泣き真似をする。わざとおどけてみせる彼女に対し、瞳はどんな言葉をかければいいのか、わからなかった。
「でもビョーキには気をつけなぁよ。梅毒とかもろたらシャレにならんから。罹った証は一生消えんっちゅうね。怖や怖や。あーでもレンくんがどっかからもらってきたらうちもヤバいなあ。喉クラとか一見風邪と見分けつかんかったりするからマジで怖い」
「……いや、ほんと、気をつけて……」
「ひとみん心配してくれるん? ありがたいわぁ」
ちゅき、と由希が軽率に抱きついてくる。たぶん同じアパートに住んでいなかったら、たとえ同じ学部学科に在籍していても卒業まで話もせずに終わった関係かもしれない。由希からは風呂上がりのいい匂いがした。ベッド脇のゴミ箱は瞳が来る前に片づけてくれたのか空だった。
「うちはさ、自分のこの、ハタチの女っていうアドバンテージを利用して金稼ぐのは、おフェミが最近よく言う〝性的搾取〟とはさっぱり思わんわけ。この若さを金に換えて何が悪いっちゅうねん。そんでおフェミに限ってそういう女を見下しとる気がせん? あいつら主語がでかいん。女を代表して物言いよる顔しとるけど、中には火のないところにまでわざわざ薪持ってきて火ぃ点けるような奴もおるやん。女の敵は女って、よう言うたもんやわぁ」
由希は流されない。他人に意見を求める前に、自論を持っている。彼女が空いた時間に大学の図書館で主要五紙を読み比べているのも瞳は知っている。ストーンやラメ、パールで彩られた長い爪で新聞をめくるその姿は、一見ちぐはぐだけれど、周りの目を気にしないその強さに、瞳は敬慕の念を抱いた。
「でもそのおフェミの筆頭みたいな民法のセンセがさ、婚姻のことを、『本当は入籍じゃなくて、創籍なんですよ』って言ってたんは目からウロコやったなあ。そっか、入籍とか入り婿とか婿養子って言葉は家制度から来てたんやって思い出したよね。うちの母親、結婚せんでうち産んでさ、父親も誰かよう知らんって言われたんやけど。認知もされてないんかいふざけんなってなったから、こないだ自分の戸籍調べたらさ、ほんまに父親の欄が空欄やってワロタ。父なし子ってガチでこういうことなんやっていう」
「アイツ性格も顔もブスやから、色んな男に捨てられたんやろ」由希が母親のことを「アイツ」と呼んだとき、眇められたその眼からは、母親に対する心からの侮蔑が伝わってきた。
「アイツみたいにブスで勉強もできん女は目も当てられんから、うちは勉強したんやけどさ。これから社会に出て就職するってなったら、顔も良いに越したことはないわけで。だって、同じ学力で、同じ能力値やったら顔とスタイルの良いほうが有利に決まっとらん?」
「それな」
瞳が首肯する。瞳と由希の通う大学でも、今年からミスコン・ミスターコンが廃止された。人を美醜や体つきでランク付けしてはならぬとのお達し、もとい世間様からの圧力が廃止の理由だが、社会に一歩足を踏み出せば「顔採用」がどこの業界にも根づいているのは確かだ。それが表向きにならないだけで。
「せやからうちも受験終わったら即行で韓国行って整形してきたわ。ほらコレ、三か月前のうち」
二重全切開してぇ、鼻尖縮小と軟骨移植してぇ、エラ削ったった。
突然のカミングアウトと呪文のような手術名に、瞳は面食らった。スマホの「非表示」フォルダに格納された写真の数々を由希に見せられ、思わず唖然とする。
腫れぼったい一重。だんご鼻。エラの張った顔。
別人、とまではいかないにしても、写真の彼女に会って「由希」と気づけるか、瞳は自信がなかった。
「驚いた?」
「まあ、うん……。痛かった?」
「そらDTはしんどかったけど、前の顔のままでおるよかずっとマシ。うち、嫉妬って、七つの大罪の中で一番好かん感情やから、他人の顔を妬んだことはないけどさ。美人のほうが世の中断然生きやすいし。顔面課金して大正ぇ解」
十代のうちに整形する。人生百年といわれる現代で、その後、より良い人生を手に入れるために。彼女の選択は、ひどく合理的なものに瞳の目には映った。
「もう顔はいじらんかもやけど、次なんかするとすればICLかなぁ。コンタクト買い続けるのも怠いし。うち、顔も目もちっさいころから悪かってんけど全部遺伝なんよな。ほんま親ガチャ外れ引いたわ」
無印良品のアルミ製の四角い鏡を見ながら、由希が自身の相貌を、手術痕をチェックする。彼女の聡明さは、二十年という人生の、どの過程で手に入ったものなのだろうか。不意に瞳は疑問に思った。図書館の空気が好き、といつかこぼしていた。小さい頃から入り浸っていた、と。瞳は高校生の頃に読んだ本なんて片手で数えるにも満たなかった。好きな作家も特にいない。高校三年間は、単語帳や参考書と睨み合いする毎日だった。
「……眼鏡から見る景色は虚像やけど、角膜より内側にレンズを入れたら、それからは裸眼で見る世界もすべて虚像になるんかな」
「――ひとみんおもろいこと考えるねぇ」
「そ?」
鏡に映った虚像ごしに、フフッと笑う由希と目が合った。
*
「クンニって何」
「え、知らんのん」
新鮮やわあ。
テイト、と名乗ったセラピストが、ベッドに腰かける瞳の隣に座り、にこやかに笑った。
生まれて初めて、瞳はラブホに足を踏み入れた。
昨夜、ある女性用風俗店に電話をかけた。若い女性スタッフが応答した。どんなセラピストがいいか。うまい人。オラオラしてるのはイヤ。気さくな感じがいい。場所の指定はありますか。先入りできるホテルもありますよ。予算はどれくらいですか。電話をかけてから切るまで五分もかからなかったかもしれない。
テイトが瞳の耳元で単語の意味を説明する。「は、ムリ。キモ」瞳は首を横に振って拒絶した。「クンニはバツ、と」テイトがカウンセリングシートとやらにメモを書き込んでいく。
「自分がSとかMとか、考えたことある?」
「……それって、関係ある? そんなに重要?」
「まあ、一種のプレイやからねえ」
普段と違う自分に溺れることの快感っちゅうか何というか。とテイトは首を傾げてみせた。
「ひとみちゃんは、なんで女風なんて利用しようと思ったん」
「……ギブアンドテイクなんが、いいなって」
「アッハ。初めての回答やなあ」
テイトが目をまたたかせ、きれいな歯並びを見せて笑う。
「あと、痛いのとか、ヘタクソはイヤやなって」
「ほーん。なるほどねえ」
金を直に渡すという行為を本能が避けているのか、瞳は封筒に入れた対価を机の上に置いていた。
「テイトはなんでこの仕事しとうと?」
「えー? 金以外の理由なんかないよぉ」
「生きてると、お金がいるんすわ。不思議なことに」テイトが大げさに肩を竦めた。
テイト。源氏名。漢字で書くと「帝人」らしい。「ダサくない?」と瞳が言えば、「オーナーが他のセラピと被らんように決めたから知らん」と返ってきた。
風俗店のサイトでテイトの顔写真には白いモザイクがかけられていた。直接会うまでは、年齢と身長と大まかな雰囲気しかわからなかった。それもどこまで本当かはわからないけれど。
テイトの本職は、舞台俳優だという。二・五次元だの何だの知らないが。「そんなん客に喋っていいん」と瞳が訊けば、「ひとみちゃん、絶妙に俺に興味なさそうやから」とテイトは答えた。
テイトがシャワーの準備を始める。タオルや歯ブラシの用意まで。至れり尽くせりだ。店に電話するまでに散々調べた、ネット上に溢れている体験レポや、漫画、口コミ通りの手順だったことが、少し面白かった。
交代でシャワーを浴び、テイトが浴びている間、バスローブ姿でベッドに腰かけて待つ。今から、本当にあの男に素肌を見せるのかと思うと、実感がまったく湧いてこなかった。
うつ伏せになり、オイルマッサージから始まったプレイは、いつの間にか俎板の鯉のように仰向けにされ、バスローブもすべて剝ぎ取られていた。テイトもボクサーパンツを身に着けているだけだった。
「感度良好」
いいね。よく跳ねて。最高。
膝の内側にキスを落とされる。舐められるとぞわりと肌が粟立った。
「……う、耳は、いや」
「あ、ごめん」
ちろりと舐められて、鳥肌が立つほど悪寒を感じた。性感帯と分類されていることが信じられないほど、耳をねぶられるのは気持ち悪い。
でも、それ以外は全部きもちいい。
整った顔に見下ろされる。薄くもなく、分厚くもない、形のいい唇が、瞳を誘った。
「ちゅーしたい、かも」
「はは」
笑いながら、互いに唇を合わせる。唇を開いて、唾液を搔き混ぜ合う。初めてのキス。男と肌を合わせることも、何もかも、瞳にとって、すべてが初めてだった。
「あー、もう。ひとみちゃん、かわええなあ。勃ってもうたわ」
視線を足のほうに移動させる。テイトの下着が膨れていた。瞳が肘で上体を少し起こす。
「触ってい?」
「いいよ」
人差し指で布越しに触ると、びくんとそれが震えた。おそるおそるテイトの下着を下ろすと、怒張した陰茎がまろびでた。
「……初めて、見た」
なんてグロテスク。照明を暗くしているから、細部までは見えないけれど、こんなものを男はいつもぶら下げているのかと思うと、一瞬ゾッとした。
「そんな見つめんといて。恥ずいわぁ」
「わっ」
くるんと一瞬でうつ伏せにされる。背中に触れるか触れないかのところで、テイトの舌が肌を這う。指が躍る。フェザータッチ、と女風を紹介する記事には書かれていた。くすぐったい、を通り越した、頭がトぶような感覚。自分は背中が弱いだなんて、今この時まで知らなかった。
「……ね、やっぱ、舐めて」
この技巧を思う存分堪能しなければ、もったいないと思った。
長い指が膣にいれられただけで、関節を曲げられて膣壁を刺激されるだけで、こんな感覚が襲ってくるなら、あの唇にそこを吸われたら、舌を出し入れされたら、どんなにきもちいいことだろう。
テイトから返事はなかった。でも次の瞬間、思ったとおりの、それ以上の快感が襲ってきた。玄人の舌使いに翻弄された瞳の喘ぎが枕に消えた。
フェラも、クンニも、する側もさせる側も、バカだとさっきまで思っていたけど、こんなにきもちのいいものだったら。バカになってもいいやと思う。
まるで動物になったみたいだ。腰を高く上げて、ゆらゆらと欲しがるように振って。
でも欲望に忠実に生きるって。楽しい。
股に彼の性器をこすりつけられる。膣に先端を出し入れされる。指でもない、より太くて丸みを帯びた、不思議な感触。「いれたいん」と瞳が訊くと、「いれたいねえ」と素直な返答があった。
「本番、禁止なんやろ」
「売春防止法違反ではあるよなあ」
「……この場合、やられんのは、あたしなのに、春を鬻いでんのは、テイトなんが、おもろいわ」
「むつかしい言葉知っとるなあ。ま、男娼はそういうもんさね」
仰向けになって、テイトと再び唇を合わせる。舌で、彼のきれいなアーチ状の歯列をなぞる。テイトの舌を、じゅっと吸った。「ちゅーうまいやん」と呟いて、テイトが瞳の鼻に、汗の浮かんだ額に、頬に口づけを落とす。ふっ、と耳の穴に息を吹きかけられた。
めちゃくちゃに尽くすから高う買うたってや
耳元で囁かれ、瞳は思わず嘲笑を漏らした。
「年下にたかんなやクズ」
「んー褒め言葉」
息が上がる。さっきからずっと、視界がぼやけている。
やっと、焦点が合ったとき。
テイトの眼には、熱が灯っていた。
真木も、皐月の前ではこういう顔をしているのか。とどこか遠いところで瞳は思った。
「きもちよく、してよ」
他に何も、考えられないくらいに。
「りょーかい」
テイトは、その望みを、叶えてくれた。
「タバコ吸っていい?」
「いいよ」
事後に煙草を吸われるのは、女が嫌う行動の上位に入っているのではないか。そんなことどうでもいいけれど、腹の上に散った欲望を、テイトがティッシュで拭ったのを見て、あれが栗の花のニオイを強烈に発するのか、と息を整えながら瞳は思った。
「ひとみちゃんは、Mっ気があるな」
「はあ?」
煙草を銜えたテイトがニヤリと口の端を上げて笑った。くっと喉を鳴らし、白い息を吐き出す。
「無意識に、傷つけられたい願望がある。ってこと」
「……知らんし」
わざと素っ気なく返事をする。身に覚えが、ありすぎたからだ。
セックスって、ものすごく疲れる。体力を消耗する。喘ぎすぎて喉が渇いた。水が飲みたいと言えば、テイトが用意してくれていたペットボトルの水を、蓋を開けて手渡された。
「……ジョフウって、他にどんな人が利用しとるん」
「メンヘラ拒食症の嬢から百貫デブの喪女までおらっしゃあよ。レスに悩む奥さんは普通かな。旦那もソープ行ってるから自分も使って何があかんのって強気なマダムもようけおるし。……精神的にきつかったんは、知的障害のある娘に施術してくれって、プレイ中も母親からずっと見られとったときかな。娘つっても四十は超えとって。チンチン噛み切られそうになったし」
ベッドボードに置かれたガラス製の灰皿に、テイトが煙草の灰をトンと落とす。テイトの隣で寝転がっていた瞳は「……う、わ」と一瞬言葉を失った。
「ただ、この世界に沼ってまう女はみんな何かしら病んどるのは確かやな。自己肯定感ない人とかさ」
「風呂一緒入る?」とテイトに訊かれ、「うん」と瞳が頷く。膣と尻の穴まで見られたこの男の前で隠すところなんかもう何もなかった。
じゃ、入れてくんね。
テイトが灰皿に煙草の先を擦りつけて立ち上がる。部屋履きのスリッパをつっかけ、全裸のまま浴室に消えるテイトの尻を瞳は見送った。瞳の躰はアロマオイルにまみれて、べたついていた。
ラブホの風呂は無駄にだだっ広い。テレビまで付いている。「何のために?」「そら一緒に入って楽しむためやろ」別に頼んでもいないのに、断る間もなくベッドから横抱きに抱えられ、浴室に移動する。初めてのお姫様抱っこというやつだった。洗い場に下ろされて両足をタイルに付けたとき、小柄の部類に入る瞳は、鍛えられたテイトの躰との体格差をまざまざと感じさせられた。裸で男と向き合うのは初めてだった。
テイトが跪き、ボディーソープを泡立てボールで泡立て、瞳の躰を丁寧に洗っていく。奉仕って、こういうこと。男を傅かせるって、背すじがぞわぞわする。まるで女王様にでもなった気分だった。
「ソープもレ風も売り専も女風も。目的は一緒。満たされたい。男は発散目的が多いかもしらんが、女はメンタルの充足を求めとる客が多い。人肌でしか、埋めれんものってあるんやろな」
知らんけど。と、テイトが無情に付け加える。
「へー。あたしは、単純に好奇心やわ。いわば、性とは何かを学びたい」
「ええやん。学べた?」
「うん。新発見だらけやった。セックスって、きもちいいんやね」
「それはようございました」
躰を洗い流したあと、湯が張られた広い浴槽に入ってテイトに後ろから抱きしめられる。つ、とうなじを舐められ、甘噛みされる。
人から抱きしめられていると、こんなにも安心することを知った。
「……でも、寂しいって気持ちは、あたしもわかるよ。だって、ときどき無性に死にたいって思うもん。何に悩んでるわけでもないのに。死にたいってか、消えたい。社会的動物として生きないかんのって、メンドくない?」
「それは逆に、生きたいってことなんちゃうん?」
瞳の右手を、テイトが両手で包み込んだ。手のひらのツボを押すように優しい力で揉まれる。大きな手だ。彼の爪はすべて、短く整えられていた。
「ひとみちゃんは、今生きる理由が、実感が、ほしいんやろ」
左頬にテイトの右頬をくっつけられ、「な?」と唇が触れる。リップ音が鳴った。それから逃れるように、瞳が首を傾げる。生白い首を晒す。
「そうなんかな」
「うん。そうなんよ」
吐息を耳朶に残したあと、瞳の首すじにテイトが吸いついた。
*
テイトとは週一で会うようになった。
時給三桁で働きたくないと言いながら、この男には一時間に五桁渡している。正真正銘の阿呆だと思う。
「半分は事務所の取り分やから。舐め犬の時給は五千円ってとこかいね」
セラピストの給料を訊いたら、テイトは率直に答えてくれた。
こちらは六十分しか予約していないのに、テイトはいつも、ホテルの退出時間ギリギリの、三時間を瞳と過ごす。いわゆるこれは「タダ延」というやつらしい。
タダ延。オキニ。キレカワ。本番。基盤。水商売や風俗業界専用の匿名掲示板「ホスラブ」は、そんなどうでもいいマウント合戦で埋め尽くされていた。匿名掲示板なんて、結局は開示請求されたら匿名では済まないのだから、罵詈雑言や呪詛をいちいち書き込む人の気が知れないと瞳は思った。暇なのか、病んでいるのか。そんな掲示板に書き込んでしまう者としない者を隔てるものは何か。心が満たされているか、満たされていないか。それだけなのか。
瞳がテイトのレビューや評判を一通り収集したところによると、彼はそこそこ人気のセラピストのようだった。
鼻筋が通った、整った顔立ち。きれいな二重。桃花眼。整形済みか、なんて、そんなことまではわからないけれど。
「なんて曲? それ」
「〈杜の鼓動―魂の還る場所―〉」
「へえ」
セックスのあと、ベッドの上で壁を背にして瞳はマンドリンを弾いていた。この曲は楽譜が部室にはなかったから、あの『Music for Mandolin』と題したCDからの完全な耳コピだった。ただ、語りかけてくるような穏やかな曲調が好きで、少しでも早く弾けるようになりたかった。マンドリンパートだけでなく、メロディーラインが移れば、マンドラのパートを弾くために指が自然と動いた。
「ええね。女ん子が真っ裸でマンドリン弾く姿。滾るわ」
なんかの宗教画にありそう。
涅槃像のように寝転がったテイトが、頬杖をベッドについてニヤリと笑う。マンドリンをケースから取り出すことよりも、服を身に着けることのほうが今の瞳にとっては面倒だった。
「変態」
「弾いとんのは自分やろ。今までラブホでマンドリン弾いた子なんかおらんのとちゃう?」
「別にそこまで音も大きくしとらんし、隣にも聞こえんやろ」
「まあ、壁は分厚う作っとらすけんね。ビジホよりは声も通らんよ。なんなら歌っても大丈夫」
カラオケついとるんやないかなこの部屋。
少し部屋を見渡すようにテイトが頭を動かす。
「歌えば」
「ええ。ひとみちゃん、俺の美声聞いちゃう? 惚れてまうよ?」
「やっぱええわ」
瞳が大げさに顔をしかめてみせると、テイトが「絶妙につれないんよなあ」と喉を鳴らして笑った。
瞳がトレモロをしながら無心でピックを動かすさまを見ていたのか、「めっちゃ手ぇ動かすやんその弾き方」とテイトが目を瞠る。「トレモロっていうんよ」と瞳は応えた。
「へえ……。ラッドのトレモロって、そういうことやったんか」
「ラッド?」
「知らん? RADWIMPS」
「前前前世なら」
「有名よな。昔はバリバリ尖っとったんやけど今は丸ぅなってもて。ま、それは別ええんやけど。ラッドにトレモロって曲があってさ」
やっと意味がわかったって話。
テイトと目が合う。
トレモロ。イタリア語で、ゆらぎ。またたき。振動。
「第二外国語で一応イタリア語とったんやけどな。Tremolano le stelle. 星がまたたくって意味らしい」
唐突に、真木の声が思い出された。
「――死んだら、魂て、どこに還るんかな」
ぽつり、とテイトがこぼした。それは独り言のようで、瞳に対して問いかけているふうでもなかった。
一瞬、手が止まっていた瞳は、頭を振って再び旋律を奏で始めた。
「跡形もなく消えたい? それとも誰かの記憶に残りたい?」
「なんでその二択なん」
テイトが片眉をくいと上げて尋ねる。瞳は「何となく」と答えた。
「……忘れてくれていいわ」
テイトが瞳から目を逸らし、何もない空を見つめながら、呟いた。
「俺のことなんか、きれいさっぱり」
手を止めて、瞳がテイトを見る。視線は合わなかった。「わかりみ」と瞳は相槌を打った。




