最後に、いい夢が見れたな
この作品は、鬱展開があります。苦手な方はご注意ください。
雨が降っていた。
佐伯悠人は、信号待ちの横断歩道の真ん中で立ち尽くしていた。傘は持っていなかった。いつものように「後でいいか」と先延ばしにした結果だ。
対向車線から大型トラックが迫ってくる。ヘッドライトが白く滲む。ブレーキ音。遅い。
次の瞬間、世界は黒に塗り潰された。
……。
目を開けると、そこは白だった。
床も壁も天井も、すべてが均一の白。音も匂いもない。ただ、目の前に「何か」が立っていた。顔がない。ただの黒い穴が、悠人を見下ろしている。
「お前は死んだ」
「……試練だ。全部で三つ。お前の人生を時代ごとに切り取って、直視させる。それを乗り越えれば、生き返してやってもいい」
悠人は喉の奥で小さく笑った。いつもの逃げの笑い。
「……分かった。やるよ」
何かは、静かに頷いたように見えた。
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最初の試練は、高校時代だった。
十七歳の夏休み最後の土曜日。友達と朝から遊び呆け、夜遅くまでカラオケ。スマホが何度も鳴った。父からの着信。妹からの着信。きっと「早く帰ってきなさい」だろう。面倒くさい。後でいいや、と無視した。
深夜、家に帰るとリビングに父と妹が項垂れていた。母はいない。
「母さんが……急に倒れて。病院で、手術の途中で……」
その瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。息が詰まる。膝が震える。
「あの電話に出てれば……すぐ帰ってれば……」
頭の中で同じ言葉がぐるぐる回る。でも、いつも通り「今さら考えても仕方ない」と蓋をしようとした。
でもここでは、蓋ができない。
試練の空間。母はベッドに横たわっている。まだ息がある。悠人を見て、弱々しく微笑む。
「悠人……来てくれたのね」
その一言で、胸の蓋が無理やりこじ開けられた。
涙が溢れる前に、言葉が先にこぼれた。
「母さん、ごめん……俺、電話無視して……遊び呆けて……最期に間に合わなくて……」
喉が詰まって、声が震える。母の手を握ると、冷たくて細くて、でもまだ温かさが残っている。
「俺、いつも先延ばしにして……大事なこと、全部後回しにして……母さんが死ぬなんて、考えたくなくて……逃げてたんだ……」
母は優しく首を振った。
「いいのよ。あなたはいつも、そうだった。でも……それでも、愛してるわ」
その言葉が、胸に突き刺さった。許された気がした。でも同時に、許されたくない自分がいた。
「許さないでくれよ……俺が、こんなに最低なのに……」
母は静かに目を閉じた。悠人は母の手を握ったまま、声を殺して泣いた。
初めて、本当に後悔を味わった。
次の空間へ。
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二つ目の試練は、大人時代だった。
二十八歳。恋人の美咲との三年間。
誕生日も、記念日も、旅行の約束も、全部「仕事が忙しいから」「もう少し落ち着いたら」と先延ばしにした。
美咲は何度も待った。最後に「もう無理」とメールを残して去った。
悠人はそのメールを開かず、削除もせず、ただ放置した。見るのが怖かった。
空間では、美咲が待っている。テーブルのケーキは三年経って形を失い、ろうそくは溶け落ちている。
「悠人、遅いよ。いつもそう」
その声で、胸が締め付けられた。
「美咲……ごめん。俺、いつも約束を後回しにして……お前の気持ち、ちゃんと受け止めてこなかった……」
美咲は静かに見つめてくる。悠人は膝をついた。
「俺、怖かったんだ。お前を本気で好きだって認めるのが。失うのが。失敗するのが。全部、先延ばしにして逃げてた……」
言葉を吐き出すたび、胸の重い塊が少しずつ溶けていくような感覚。
でも同時に、取り返しのつかなさが突き刺さる。
「許してほしいなんて、言えない。でも……一度でいいから、本当にごめんって、伝えたかった」
美咲は長い間黙っていた。やがて、小さく頷いた。
「許すよ。でも、もう遅いね」
その言葉が、優しくて、残酷で、悠人はまた泣いた。
次の空間へ。
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三つ目の試練は、今までの人生そのものだった。
鏡の部屋。無数の自分が立っている。高校生の自分。大人になった自分。今、死にゆく自分。
「お前はいつも、先延ばしだ」
鏡の中の声が、重なり合う。
「母さんの最期を。美咲との未来を。自分の体を。借金を。謝罪を。全部、後回しにしてきた」
悠人は鏡に向かって叫んだ。
「分かってる! 俺が全部悪いんだ!」
声が震える。拳を握りしめる。
「でも……向き合うのが怖かったんだよ。失敗したらどうしよう。失ったらどうしよう。傷ついたらどうしようって……だから、いつも『後で』って言って、逃げてきた……」
鏡の自分たちが、一斉に笑う。嘲るように、哀れむように。
「それでも、お前は生きてきた。先延ばしをしながらも」
「……そうだな」
悠人は深く息を吐いた。肩の力が抜ける。
「もう、先延ばしはしない。全部、認める。全部、受け止める。俺が最低だったことも、弱かったことも、全部」
鏡が割れた。破片が散らばり、光が溢れた。
初めて、心が軽くなった気がした。
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悠人は、何かの前に立っていた。
「終わった……生き返らせてくれ」
何かは、ゆっくり近づいてきた。黒い穴のような顔が、すぐそこにある。
そして、静かに言った。
「最後に、いい夢が見れたな」
……え?
次の瞬間、視界が白から黒へ、そして――
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雨の音が、ぼんやりと響く。
佐伯悠人は、地面に倒れていた。アスファルトの冷たさが背中に染み込む。体中、節々から痛みが滲み出る。肋骨が折れているのか、息をするたび鋭い痛みが走る。足は動かない。血の味が口に広がる。
視界の左側は、暗い。見えない。ただの黒い霧。右目だけで、ぼやけた世界を捉える。雨が顔を叩き、ヘッドライトの残像がチカチカする。
周りから、声が聞こえてくる。
「誰か! 救急車を!」
「動かないで! 大丈夫ですか!?」
悲鳴。心配の声。足音が近づく。誰かが傘を差し掛けてくる気配。
「ああ……」
悠人の喉から、弱い声が漏れた。
「今までのこと……全部、俺が勝手に作り出した夢だったんだ」
試練も。何かも。許しも。全部、死の直前の脳が作り上げた、都合のいい幻想。
最後の救い。最後の、先延ばし。
「……最後に、いい夢が見れたな」
自分の声だった。かすかで、途切れ途切れ。
雨は、まだ降り続いていた。視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも気に入って貰えたら、




