井戸見
華霖王朝の南端、霽渓の地には、百年の水を湛える井戸がある。名を「井戸見」という。
乾期にも枯れず、雨季には毒を流さぬ。清らかなるその水は、村人にとってまさしく命の糧であり、神の宿る場所と信じられてきた。
年に一度、雨季の始まりに「祀り」が開かれる。
井戸の神に、今年も水を分けていただけるよう祈り、ひとりの少女を選び、井戸のほとりで一晩を過ごさせるのだ。
神前に生娘を捧げる──とまでは言わぬが、その風習には、言いしれぬ重みがあった。
今年選ばれたのは、郡吏の娘・春宵。十四になるばかりの娘で、都に嫁ぐことも決まっていた。
だが役人の血を引く者でも、井戸見の祀りから逃れることはできない。
雨が降りしきる中、春宵は白装束に身を包み、灯籠と香を携えて井戸のそばに座った。
その夜、風もなく、虫も鳴かず、ただ井戸の口から水の音だけが響いていた。
「……冷たい」
井戸を覗き込むと、水面が月の光を反射して揺れている。
その中に、もうひとつの顔が映っていた。
自分ではない、誰かの顔。
濡れた黒髪が頬に張りつき、白く光る目が、こちらを見上げている。
「帰して……ここは、冷たい……」
春宵は後ずさった。声にならぬ声が、井戸から湧きあがってくる。
昔、ここには罪人を沈めたという。
口減らしの子も、戦で敗れた捕虜も、井戸に落とされ、忘れられた。
「私は……花」
水の女がそう名乗った。
「昔、この村に生まれ、井戸に沈められた。飢饉の年のこと……生贄が足らぬと、私が選ばれた。神はそんなこと望んでいなかった」
目を閉じると、脳裏に光景が浮かぶ。
ぼろを纏った少女が、縄で縛られ、井戸に吊るされる。
村人は祈りながらも、誰も止めようとしない。
「祀りは、罪の隠れ蓑。
この井戸は、神のものではない。
人の業が積もり、水の底で私たちは、ずっと待っていた……次の娘を」
そのとき、井戸の中から白い手が伸びてきた。
春宵は走った。香を蹴倒し、灯籠を倒し、泥の中を転がりながら逃げた。
村に戻ったとき、夜はまだ明けていなかった。
人々は驚き、責めた。
「祀りを破ったのか!」
「井戸の怒りを買うぞ!」
春宵は泣きながら訴えた。
「神なんかいない! 井戸の底に沈んでいるのは、人の罪と、殺された女の子たち!」
だが、誰も耳を貸さなかった。
翌朝、井戸の水が濁った。
二日後、村の子どもがひとり、井戸に落ちて死んだ。
次の日には、祀りに関わった老女が行方不明になった。
村人はようやく恐れた。
井戸に宿っていたのは神ではなく、忘れ去られた死者たちの怨念だったのだというのはどうでも良い。
助かるには何でも良い。
ただ、決まりを破った者を処さなければならない。
春宵は都へ送られた。一度は破談になりかけていた縁談を取りまとめるのに父は苦労したようだが、生贄となるよりはマシで必死だった。
都に移り、日も馴染んだ。が夜ごと夢に見るのは、あの白い顔。水の底でゆらゆらと揺れながら、「まだ足りない」と囁く声。
──その後、井戸見の祀りは廃された。そもそも、不気味がって誰も近寄ろうとはしなくなり、村も廃れたのだ。
だが井戸は今も、村の外れにある。
誰も近づかない。
だが、雨の夜になると、ふいに女の声がするという。
「……帰して。今度こそ、本当に、帰して……」
水はすべてを流すというが、罪だけは、沈んだままなのだった。