11-夜に沈んだ名前
選挙戦も佳境に入った。
メディア露出が増え、柏木冬馬の名はテレビでも毎日のように目にするようになった。
だが――心は、別の場所にあった。
遥の不在が増え始めた。
朝食を共にすることも、同じリビングで過ごす時間も、日を追うごとに短くなっていった。
“契約終了”の言葉が、現実味を帯びている。
「……逃げられたくないのか、俺は」
思わず、口に出していた。
そんなある夜。
選挙事務所での打ち合わせを終えた帰り道、運転手がふと声をかけた。
「先生、今日のニュース……、ご覧になりましたか?」
「……何かあったか?」
助手席のタブレットに表示されたニュース速報の見出しに、冬馬の目が釘付けになった。
「柏木冬馬と“謎のΩ”――四年前のスキャンダル写真と一致の可能性」
画面に映し出されたのは、遥と男が並んでいる“あの写真”。
男の顔は依然ぼやけているが、背格好と服装、状況証拠が“柏木冬馬”だと指していた。
心臓が一瞬だけ止まったようだった。
「これは……俺、なのか?」
記憶にないはずの夜。
なのに、画像を見た瞬間、脳裏の奥で何かがはじけた。
──白い壁。甘い香り。濡れた髪。
「名前……教えなくていいよ。どうせ、忘れるだろうし」
耳の奥に、遥の声がよみがえる。
たしかに、そんな夜があった。
忘れようとして、忘れていたのだ。
遥が「俺を忘れたんだね」と言った時の、あの目の奥にあったもの。
それが今、ようやく理解できた。
「……忘れてなんか、なかった。
思い出すことが怖かっただけだ……」
*
――翌朝。
遥は静かに荷物をまとめていた。
契約解除の意志を、すでに冬馬の秘書に伝えてある。
黙って出ていくのは卑怯だと思いながら、それでも心が叫んでいた。
これ以上、いたら壊れる。
自分が彼にとって“票のためのΩ”に戻っていくのが耐えられない。
ドアノブに手をかけた瞬間、リビングの奥から足音が響いた。
「……どこへ行く」
冬馬だった。
疲れたスーツ姿で、目の下に深い影を落としている。
「出ていくよ。契約はもう終わった。
それに、あの写真が出た以上、君の選挙にとっても――」
「違う」
冬馬の声が低く、震えていた。
「お前は、俺の番だ。
四年前、名前も聞けなかった。
でも、あの夜……お前の香りを、身体が覚えてた。
忘れたんじゃない。思い出すのが、怖かったんだ」
遥は立ち尽くした。
「じゃあ、なぜ……」
「お前を“契約相手”として迎えたとき、本能が叫んでた。
それでも、“政治家の俺”がそれを押さえつけた。
本能に負けるのが、負けだと思ってたから……でも」
冬馬は一歩、近づいた。
「負けてでも、もう一度、お前に触れたいと今は思ってる」
遥の目に、光がにじんだ。
声にならない想いが喉で揺れ、やがてふるりとこぼれた。
「……じゃあ、今度は……忘れないで」
「誓う。
今度こそ、名前も、声も、すべて覚えていく。
……天城遥、俺の番になってくれ」
遥はゆっくりと目を閉じた。
その香りが、あの夜よりも深く、確かに心に満ちていくのを感じながら――




