第一部 第四章 老人と海
その日の東京湾は静かだった。 海は凪ぎ、潮の香りさえも漂う気配がなかった。 普段の晴れの日であれば、日の光がその表面を覆い、幾重も小刻みに揺れる波をギラギラさせていた。 曇りの日であれば、ギラギラの代わりにウミネコたちが低く水面ぎりぎりに飛んで夕立に備えていただろう。
その日は違った。 異常すぎるほどに静かで、そして日の光は見えなかった。 曇りだったわけではない。 東京湾全体が巨大という言葉では物足らないほど大きな木で囲まれていた。 そのすさまじいほどの大きさのため、東京湾沿いからはただの大きな闇としか見えなかった。 その近辺に住むほとんど誰もがそれを木であると認識できなかったであろう。
その日、その木の一番近くにいた人間は、ヤスという名の老人だった。 その老人はそんなに年を取っていたわけでもなかったが、その顔は昔話に出てくる仙人のような趣を持っていた。 ただ、その趣とは打って変わって、身に着けているものは商店街のばったもんを取り扱う店のTシャツと擦り切れたジーンズのような一昔前のヒッピーを思い起こさせるものだった。
その老人、ヤスは例の埋め立て地の住人だった。 もちろん、本来ならそこには住んでいけなかったのだが、そこは関係者が十数人住めるほどの設備が整っており、一ヵ月に一度ほど食料などの補給もあり、それはヤスのためではなかったにせよ、彼がすこしおこぼれをいただいても大丈夫なくらいの量があった。
ヤスにはヤスなりの理由があってそこに滞在していた。 ここにくる以前、約三年前、そこの埋め立てが最終段階にあった頃、彼は湾沿いの公園に住んでいた。 一日のほとんどをベンチに座り、煙草をくゆらせ、目の前にある海の風景を眺めて過ごしていた。 時折、お昼を食べにくるサラリーマンやらベビーカーを押す母親とかも来たが、別にヤスに気をとめることもなく、それぞれの時間を過ごして、帰っていった。 おそらくそれはヤスが割とファッションに気を使っていたせいもあったからだろう。 彼にしても、そこにいるのは気持ちがいいからであって、そこを自分の居場所として陣取っているつもりなどは毛頭なかった。 時にはそんな人たちとも笑顔を交わしたりもした。 すべてが平和で完ぺきだった。 もちろん彼にもそれなりの過去はあったのだが、その過去とは全く関係のない暮らしがそこにはあって、その過去を思い出すことなどはほとんどなかった。
その平和がある日断ち切られた。
その三年前の春の日のことだった。 その小さな公園には数本の小さな桜の木があり、花が咲く時期になると枝一杯に桜の花を咲かせた。 ただ、ヤスとほかのレギュラーくらいしかわざわざそこに花見をしに来る人はいなかった。
その日は小春日和という言葉がぴったりな一日だった。 春はあけぼのとあるように夜明けに光が水平線から零れ落ちるように出でると世界がすべて浄化されるようなそんな感覚に陥った。
その春、ヤスは公園のベンチで目覚めることが多かった。 近所のグイ飲み横丁の裏手で知り合いに酒をおごってもらい、ほろ酔い加減で懐メロを口ずさみながら、また公園に戻っていつものベンチに座り、そのまま寝入ってしまう。 そんなことを毎日繰り返して自身の花見を楽しんでいた。
そしてその日もそんな風に一日を過ごそうと思っていた。
その朝はいつもより特にポカポカして、ヤスが目覚めたのは十一時も回ろうかといった時間だった。 頬に何かが当たった感触で目を開けるとそこは桃白色の世界だった。
頬に落ちた花びらをつまみ、自分がまるで源氏物語の世界にでも引き込まれたような気が一瞬襲った。
みやび
まさにそんな言葉がぴったりの風景だった。
ただその美しき時間も長くは続かなかった。
ブオオオオンとオートバイの音が響き渡り、数台の単車が公園に乗り入れてきた。 ヤスは突如ありえない現実に引き戻された。 ゆっくりとベンチに座り直し、目立たないように、軽く背を丸め、胸のポケットに残っていたシケモクを口にくわえた。 そして静かに海を眺めようと思った。
バイクに乗ってきた連中は、海沿いの囲いそばにバイクを止め、はしゃいで海を見たり、桜の花を見たりしていた。 よく見れば高校生くらいの年齢の男女だった。 カップルが一組、あと二、三人男がいた。
ヤスはその連中をいつの間にか眺めていた。 何かが彼の記憶を引き起こしたのかもしれなかった。
俺にもあんな時があったなあ。 そのくらいの心持でその若い連中を眺めていた。
そのうちカップルの女がヤスに気が付いて、けらけら笑い出した。 ヤス自身、なんで笑われているんだろうかわからなかったが、その女ににっこりと笑顔を返した。
ただそのあと自分に何が起こったのかの記憶がヤスにはなかった。
気が付くと体中が痛くて立ち上がることも指先を動かすこともできなかった。 深く息をしようとすると胸に痛みが走った。 肋骨が折れてでもいるのだろうか。 ついでに頭もずきずき傷んだ。 加えて熱でもあるのか自分がどこにいるのかもわからないほど意識がもうろうとしていた。
目をぱちくりさせると、ようやく誰かがヤスに声をかけた。
「ご機嫌いかがですか?」
そう白衣を着た看護師がヤスに言った。
ヤスはなんとかにこりと笑顔を作ろうと思ったが、口元を動かそうとしたら口の中が切れるほどに痛かった。
「ご無理なされなくていいですよ。 お熱と酸素濃度を測りますので、そのままにしていてください。」
そういうと看護師はてきぱきと最低必要な動きで作業をし、お大事にと言って出て行った。
なんで俺はここにいるんだろう?
窓の外には花の散った桜の木が見えた。 ほんの少しだけ残った花びらもそよ風に揺られ、一つ一つ飛び散っている。
桜
ああ、そうだ俺は公園で満開の桜の中で目覚めたんだったな。
薄いピンクの色が瞼の裏にまだ残っている。 花の新鮮な残り香もかすかに喉の奥に感じられる。
そのまま消えてしまえばよかった、泡のごとく空のかなたではじけるように
数日たって、何とか体が動くようになるとヤスは医療施設から逃げるように出て行った。
死ぬならあの場所で
そう思ってまだ痛みの残る体に鞭を打って、あの公園に戻った。
雨が降り始めた。 優しく包み込むような雨だった。
半日ほどかけてヤスが彼の公園に戻ると、桜の花びらは濡れた地面を埋め尽くして、その輝きを失っていた。 ヤスは花の散った桜の木を見上げ、目をつぶった。 すると瞼の裏には、目も眩むほどの満開になった桜の木が映る。
消えてなくなれ
そう心に誓った。
するとヤスの心の奥底から一瞬ではあるが何か強く温かいものがこみ上げた。 その感情の塊のようなものはその瞬間だけ彼のすべてを忘れさせた。 体の痛み、そして心の痛みも。
ヤスは目を開ける。
雨はすでに止んでいて、雲の切れ間から神々しく光が現れ、東京湾の中心にある例の埋め立てが終わろうとしている公園予定地を映し出した。
あれだ
そう思ってそこに行こうと心に誓った。 そこで何が待っているかは知らなかったし、何も待っているのかどうかもわからなかった。 なにも待っていないのかもしれなかった。
そんなことはヤスには関係なかった。 ただたんにそこに行きたくなった。
飲み屋仲間を口伝てに何とか月雇いで、埋め立て地に入り込んだ。 初めのうちはごまかしごまかし働いていたものの、埋め立て地のもう使われなくなった小さな倉庫を母屋にそこに住み始めた。 仕事仲間には何も言わないように口止めしていたのだが、そのうち上の人間にもいることがばれて、追い出されるかと思いきや、現場代理人で常駐してくれと頼まれ、ヤスにとっては願ったりかなったりの展開になった。
そう、そうして三年がたった。
その日は数日前に第三工期が終了しすべての作業員が立ち退き、次の工期までヤスのほかには誰もいなかった。 本来なら彼も現場を去るべきなのだが、帰る場所もないため、およそひと月分の食料を残してもらってそこに居残ることにした。
その日が例の木の出現するちょうど一日前だった。