第一部 第三章 貧しき人々
「タケシー? 何してんの、窓から外なんか眺めて。 あれ、おっかしいじゃん。 もう七時過ぎなのに、なんでこんなに真っ暗なの。 この辺で一番景色のいいタワマンに部屋買ったからって言うからわざわざ来たのに、何にも見えないじゃない。 ねえ、タケシー、どうしたのよ、なんで何にも言わないの? 何を見てるの? って言っても何にも見えないんじゃ・・・ でも昨日の夜、確かに東京湾の夜景が遠くに見えたわよね。 同じ方向見てるのになんで・・・ タケシー? どうしちゃったの? さっきからぼけっとしてるけど・・・ いったい何が見えるのかしら。 天気でも悪いの? 雨雲? 異常気象? 地球の温暖化のせい? そんな訳ないわよね。 あ、わかった、お台場に対抗して誰かが超巨大ロボットをこのマンションの目の前に建てたってか? そんなバカなことはないわよね、第一そんなことできるわけないよね、昨日の今日なのに・・・ タケシー? 聞いてんの? それともなんか怒ってる? 無理やり押しかけて来ちゃったからそのせい? ねえ、ねえ、ねえったら!」
「かぐわしき、このほのかな香り、ああ、我をいざなう。」
「え?」
「我をいざなうは、遠きにきらびやかに光しか。」
「ちょっとぉ、何よ突然、平安時代だっけ? 奈良時代? 何だか知らないけど短歌かなにか読み始めようっていうの?」
「心奪われ、歩み止めがごとし。」
「待ちなさいって、ふざけてんの? こっちは暗くて何にも見えないって言ってるじゃない。」
「闇に見えるはそなたの心、おもんばかれば朝露も感じられん。」
「もういい、シャワー浴びて帰るから。 いいのね? いいのね? バカ!」
タケシは隣の半裸の女性が怒鳴りちらして、風呂場のドアをたたきつけるように閉めても、何も気をとめることはなかった。 かえって一人になり、その表情は喜々欄欄としているように見えた。 その目は期待に燃え、その口は叫びたいのを我慢するがごとくにしっかりと閉じられ、そして体全体でしっかと何かを受け止めるかのように立っていた。
その日の朝タケシはある匂いで目が覚めた。 隣では鼻が詰まっているのか花粉症なのか軽くいびきをかいて例の半裸の女は寝ていたが、その匂いを嗅いだ瞬間にその女のことも自身の仕事も生活もすべてぶっとんでしまった。 ただただその香りを嗅ぎつけたいとの思いでベッドから起き上がり、窓の外を見た。
普通の目には(さっきの女がそうであったように)ただの暗闇しか見えなかった。 タケシは違った。 その匂いが鼻腔に響き渡り、そして喉元を通り過ぎ、そして肺の奥深くに達する頃には彼の目にはそれはそう美しい風景が見えていた。
ああ、もののあわれなり。
タケシは高校や大学でまじめに古文を習った記憶などまるでない。 語尾の変換などもすっかり忘れてしまって実際自分の心に出でては消える言葉が正しいものかなどとは全然わからなかった。
ただ、今の感情を表そうとすると、日本語の古語しか出てこないのだ。 別に無理しているわけではなく、自然と日常生活の中でそう話しているようなそんな気さえしていた。
春はあけぼの。 やうやう白く成りゆく山ぎは、すこし明かりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
そういった枕草子の一説を目の前にしているようなそんな感覚にとらわれているのだ。
すべてはそちの心持の中にある。
そう思うとタケシは目を閉じ、ゆっくりと胸いっぱいに例の香りを吸い込み、悦にでも入ってしまったかのように体を小刻みに震わせた。
「タケシー、一緒に入ろう。 もう怒ってないからさ。 一緒にシャワー浴びて、駅前に新しくできたカフェで朝ごはんていうのはどう? もちろんタケシがずっと一緒にいたいって言うなら、それでもいいけど。 でもそれならウーバーイーツでなんかオーダーしよ。」
そう女がバスルームの扉を開け、おくげもなくたゆやかな乳房を隠しもせずに部屋をのぞいた時にはタケシはもうそこにいなかった。 女は怒る風でもなく、あきれたような顔を見せ、またシャワーに戻った。
そのころタケシは着替えもせず、靴も履かず、着の身着のままで街の中を歩いていた。 遠くに見える日の光さえも遮っている大きな木の方へ。
風はタケシの方へたなびいていた。