序の前に
地獄を天国となすも、天国を地獄となすも心しだい ― ミルトンの「失楽園」より
すべての発端
「ようやく見つけましたよ。 こんなところに隠れていたんですね。 いや、もう一年近くも見つからないもんだから一時は本当にお亡くなりになってしまったものだと思いましたよ。 どうですか、お体の具合は? ま、そもそもどこも悪くなかったのかな? でも、一年近くもこんな誰もいない場所で日向ぼっこされていたんですから、もうずいぶん具合も良くなられたことでしょう。 そうではないですか? ねえ、さっきから何もおっしゃりませんけど、聞いてるんですか、私の話を? まあ、あなたは昔からそんな風でしたから別に気にもなりませんけど、でもお互い生きてこう会えたんですから、少しはうれしそうな顔をされたってバチは当たりませんよ。 もっともお互い無神論者だ。 なんのバチを誰からももらう訳でもない。 どうでしょう、もう観念してこれからの話でもしませんか? それとももしかしてもう何かしでかしてるんですか? あなたの知的財産はすべて私が相続し、管理する権利があるのをお忘れですか? 全く、もっともそんな事を気にしてたり覚えていたりする人ではないものな、あんたって人は! 小津博士? いったい全体何を企ててるんですか、わたしを抜きにして。」
小津博士と呼ばれた人物はようやくかなり重々しく顔をあげ、何か飛び回るハエでも払うようなそんなしぐさを軽くした。 実際、その話しかけて居る男が太陽を背に立っていたので、まぶしくて日の光を手で遮ったのかも知れなかった。 ただそれもおかしな話で、その小津博士と呼ばれた男は上半身裸で、強い常夏の砂浜で手作りのベンチに横になって全身をきれいに焼いてたので、ちょっとやそっとの日の光を気にするような感じではなかったからだ。 ただし、目の前の男の存在を気にかけているようでもなかった。 一瞬だけではあったが、その男に目をかけたようなふりをしたが、またどこか遠くを見るようでまるで何も見ていないようなそんな顔つきをした。
その男は、はあっと少し演技がかったため息をして、サングラスを軽くかけなおし、口元にわざとらしいほどの笑みを蓄えた。 もとからそういった性分なのか、もったいぶるのが好きなのかどっちかなのであろう、そのサングラスの男は軽く伸びをし、
「まあ、いいでしょう。 この島の周りをぐるっとしてからここに来ましたから、あなたがどこにも逃げる気がないのはわかっています。 わたしにしたってようやくあなたを見つけたんだ。 二日三日、いや二、三か月もしくはそれ以上ここにいることになるかもしれないことはわかっているんです。 あなたがあんなちっぽけな島を実験台にして爆破させてしまっただけでご満悦に浸っている訳ではないのは十分に承知しておりますよ。 あれはただの始まりなんでしょう? 他に何をやらかそうって言うんです? 別に恩着せがましいつもりで言ってるんではないですよ。 あなたの研究には多大な出費をさせてもらって、まあ、その見返りもいろいろあって楽しくやらせてもらいましたけどね、もう、何も残っていないんですよ。 本来一人が好きなもんですからそれで結局は良かったんでしょうけど。 でも、一人、あの場に残された時にはもう死ぬのかと思いましたよ。 それも二度目でしたから怖くはなかったですけど・・・」
サングラスの男は何の反応も見せない小津博士に嫌気が指した風でもなかったが、取り立てて収穫があるともとも思えなかったようで、また軽くにこりとし、
「じゃあ、また来ます。 私は島の反対側にある船にいますので、もし気が向いたら寄ってください。 とりあえず三か月分くらいの食料はありますけどね、でも、博士は釣りかなんかなさるんでしょう? 他に取り立てて食べる物もなさそうだし、一応釣りの道具も積んであったんで、やってみようかと思います。 何が釣れるんだろう? まあ、釣りも虫取りでさえ私はやった事がありませんから、釣れない確率の方が高いと思いますけど、まあ、あんまり期待しないでおきます。 釣りにも、そしてあなたにもね。」
そう言い残して、もう一度歯を見せ、笑ったようにしたが、それは笑みではなく、どこか脅迫じみた口元だった。 サングラスの男は軽く会釈のようなマネをして、その場を立ち去ろうとした。
「マアジ。」
と、小津博士は口が開いたのもわからないほどにつぶやいた。 ただ、それは実際その男に向けられたものかどうかは定かではなかった。
それでもその声を聞いたサングラスの男の目がきらりと輝いた。 と言ってもサングラス越しでそれは本人にしかわからなかったが、そのすぐ後に口元に笑みを蓄えた。 何かいたずらでも始めようとする子供の無邪気でかつ残酷な笑みだった。