9話 学業、一日の終わり
包囲するように展開されたシルフィーの創術を前に、神谷が取った行動は単純なものだった。自身に付与された相殺術壁という脆い盾を頼りに、ただ前方への一点突破、これだけだ。
直結命令という恩恵があるからこそ、神谷の目にはその防壁と貫かんとする刃の僅かな拮抗が見える。例えその拮抗が一秒にも満たないとしても、彼にとってはその時間はガラスの包囲網を抜け出す道標を映すのだ。回避空間を埋めるように飛来した刃、そして青年の目の前にそれと防壁の拮抗する光が眩く――
(これなら、行ける)
正面から飛来したガラスの刃のみ相殺術壁で受け止め、瞬き程もない拮抗時間の間にその身を回した神谷。防壁と刃の衝突地点を支点に包囲網を突破したその目に、唖然とした銀髪の少女が映り込んだ。
走り抜けた神谷の背後には幾重もの透明な刃が花弁のように重なり、鏡面と化した花びらにその背を映す。
「神谷っ…!!」
(緋桜…っ――)
再びシルフィーを守るように剣を構えたミドリを前に、神谷は更にその奥の光景に目を見開いた。その瞳に映るは天より降り立つ漆黒の球体。光すらも捻じ曲げ蜃気楼のように辺りを歪めるそれは、従来その術者と味方関係であるはずの神谷さえにも牙を剥いたのだった。
(体が吸われる……っ!ミリーシャの奴、俺まで巻き込むつもりかっ!)
「悪いわね神谷。でも密集してる今がチャンスなの」
相殺術壁なき神谷とシルフィーの体が空中へと浮く中、一泊置いてから守りを失ったミドリも同じ圧縮エネルギーに重力を奪われた。光すらも飲み込むミリーシャの創術、光の反射によって物体を認識する人間には、その中枢を理解することは難しいだろう。ただあるのは圧倒的で理不尽なまでのエネルギー体。視覚では認識できない黒い点が三人を襲う。
(まずい、四の五の言ってられる状況じゃない……っ!あれを使うしか――)
自身の体を引っ張るエネルギーを利用し、体幹のみで体勢を立て直した神谷が空で一つの決断を下そうとした時だった。突如として取り戻される重力と身を纏う防壁、そして切り抜かれた空間。事態の変化に神谷の視点が幼い身なりの教鞭者へと向いた。
「やりすぎですっ!ミリーシャちゃん。見学者まで巻き込んでは代表者の可否も決められなくなってしまうでしょうっ!」
「「「せんせぇぇ!?」」」
ミリーシャの描いた強大な想像は遥か後方にいたはずの他の生徒達にも影響を及ぼしており、それにいち早く気が付いたノゾミが手を打っていた。
神谷達を含む全生徒へと相殺術壁を展開し、それと同時に彼女だけが描く想像がミリーシャの創術を無効化する。それは空間そのものの抽出。おおよそ全力だったはずのミリーシャの力量、その遥か上をゆく偉業だった。
「ふむ、良く考え練り込まれた創術ですねミリーシャちゃんっ!ですが……」
先程までは神谷達の目の前にあったはずの漆黒の球体、それをいつの間にか手のひらに掲げるように上げたノゾミへと皆の視線が集まる。そして彼女はそれを握りつぶした。強引な手法で取り壊されたミリーシャの創術、それは有り余るエネルギーの余波として一同へと大気の振動を与えることになる。
「っ……先生!!なんで邪魔するのよ!!」
「理由は色々ありますが、一番は時間切れですね」
「……」
その言葉と同時に鳴り響く校舎の鐘の音色。含みのあるノゾミの言葉に心当たりが一つだけあった神谷へと、その教鞭者の視線がぶつかる。優しいようで企みに満ちたノゾミの顔、それは神谷にとって自身を探られるものであったと認識するには充分だった。
(あの先生……俺が直結してるかを確信させたかったのか?いや、それとももっと裏の事情の探りか……どちらにしても食えない先生だ)
「では皆さん!休み時間の間でも良いので、今日中に代表者の投票をお願いしますねっ!」
その言葉を合図に一同は再び教室へと転送され、それぞれの目の前へと綴られた自身を除く二十九名の表記に言葉を失うこととなった。神谷達のクラス、その代表者を決める投票システムを前にだ。
「皆、誰に入れるの……?」
「正直皆凄かったよな?悩むわ……」
「なんだかんだ神谷……君?も最後まで生き残ったしねぇ?」
恐る恐る口を開き始めた一同、それでも尚まだ静けさを帯びた教室。その空気を破る一人の声が響いた。荒涼級という世界の定めた強さの等級、そこに強い偏見を抱く人物、諸月という一人の人間にとってはそれがまた、一人の存在の評価を上げる素材となったのだ。
「俺はミリーシャに投票するぞ。足でまといを連れて勝ち寸前まで行ったんだ。当然だよなぁ」
「確かに荒涼級とペアで惜しい所まで行ったよな……」
「私もミリーシャさんに入れようかな?」
諸月の言葉に一同が当時の戦況を思い出してその思考に巡る中、神谷の視線が自然とその当事者であるミリーシャへと向いた。複雑な表情を浮かべ、口元に手を当てた姿勢の彼女へと。そして静かに動く唇、誰にも聞こえないか細い言葉。
「……後方の皆には神谷の動きがどういうことか理解出来てないの?いや……少なくとも対戦相手の二人は分かってるはず……」
(目立ちすぎたか)
曲芸のような神谷の回避術はそれを目の当たりにした者にしか理解の一端は掴めない。何せ今回の戦闘では相方であるミリーシャの相殺術壁を最大限活かすような立ち回りを行ったのだ。諸月達の神谷に対する評価、その変動が殆どないのは必然とも言えた。
「……神谷、君は本当に創術が使えないのかな?」
「緋桜さん?どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。本当は思考を加速させるような想像を纏っているとか?」
「買い被りすぎだ」
神谷に対する荒涼級という評価、それは今言葉を交わすミドリにとっても異端なものであり、神谷の返答に彼もまた疑いの表情を見せる。これ以上の言及を受けたくなかった神谷はミドリから離れ、自身の席へと腰掛けた。突き刺さる蒼天級三名の視線を浴びながら。
(さて……早速今夜あたりにでも乗り込むか)
椅子に体重を預けた神谷が抱く思考、それは今のように身分を偽った潜入とは程遠い、咎められるべき行いだった。一生徒ではなくただの部外者としてアトックに乗り込む、その意味は本人も分かっていた。己の任務を円滑に進め、達成させるために必要不可欠だと判断した結果なのだ。
代表者を取り決める一同の熱意とは離れ、一人だけがかけ離れた思考を行う中、その意識は突如として熱意の渦中へと引きずり戻される。小さくも存在感を放つ声、シルフィーが教室へと言葉を投げたのだった。
「私は……神谷に入れる……」
「……シルフィーさんが入れるなら、僕もそうしようかな」
「嘘だろ!?緋桜とシルフィーが神谷に!?どういうことだよ!!」
神谷と対峙した蒼天の称号を持つ二人の言葉に諸月が怒鳴るように異論を唱えた。必然的に薄れかけていた関心、興味が再び教室を包み込み、その当事者である神谷は静かにため息を零す。目立ちたくないというその思考、思惑を否定されたが故のものだ。
「諸月君……だったかな?一原因である自分で言うのもなんだけど、あの苛烈な戦場で生き残れる荒涼級はそうはいないと思うんだ」
「だから……!それはミリーシャのフォローがあってこそだろうが!!それこそミリーシャがいなけりゃあいつは早々に脱落してたはずだ!!」
「君達には分からなかったのか……?いや……傍から見ればそれが当然か……」
「はぁ?何をブツブツ言ってんだよ……っ!」
口喧嘩にも等しい言葉使いでミドリに抗議する諸月、そして静かに見学者としての見解を鑑みたミドリ。今にも掴みかかりそうな勢いの諸月に対し、ミリーシャが割って入った。その言葉のもたらす影響など微塵も気にとめない、それは凛とした彼女の強い意志を感じるものだった。
「荒涼級に不満があるみたいだけど、残念ながら私も神谷に入れるわよ。彼はただの荒涼級じゃなかった……まさか荒涼級から見習うことがあるなんて思わなかったんですもの」
「ミリーシャまで……っ!」
「ね?シルフィーさん」
微笑混じりの笑みをシルフィーへと飛ばしたミリーシャに対し、彼女の口が開くよりも早く神谷が口を挟む。それは議題の停止と否定。目立ちたくない当人とっては、このような不毛な言い争いなど一刻早く終わって欲しかったのだ。
「私は――」
「もういいだろ。誰が誰に入れても問題ないはずだ。第一、俺は代表者になるつもりはない。そろそろ休み時間も終わるぞ」
「……ちっ!」
神谷の言葉通り校舎の鐘が鳴り響き、それを合図に一同は自席へと戻った。多くの者が理解に及ばなかった神谷の異端な強さ、 特にそこへ納得の材料が揃っていない諸月から神谷へと鋭い眼光が刺さる。だがそれにすら顔色ひとつ変えないことが、より彼の抱く神谷への苛立ちを促進させたのだった。
(諸月は相当俺のことが嫌いみたいだな……当然と言えば当然か。きっと等級を上げることに死力を注いで生きてきたんだろう)
己が強さを示す指標、そのひとつである創術。それを磨くことに全力で立ち向かう者からすれば、荒涼級という下位の存在が自身のリーダーになるなど受け入れ難いものだろう。神谷自身も諸月の見せる苛立ちを全く理解出来ないわけでもなかった。
だからこそ創術の等級、その一点において異議を唱えることのない人物が代表になるべきだ。そう考えのまとめた神谷の指が静かに伸びる。クラスの代表者、それを取り決める自身の一票を入れるために。
(シルフィーかな)
投票を終えた彼の視界に投票完了の表記が踊る。自身以外ならば誰でも良いという考えはあるものの、神谷は蒼天という称号を打破する可能性が最も高そうな人物へと票を投じたのだった。霊峰級と蒼天級よりも高く、見上げてしまうほど高い壁が隔てる最上級の称号へ届きうる者へと。
「はーいっ!!お待たせしました皆さん!!これより二時間目の授業を始めますよ〜っ」
転移してきたノゾミの陽気な声を合図に教室の空気は切り替わった。一般的な学業となんら変わりない座学、そしてテイルニアならではの創術基礎。退屈さと眠りを誘うような授業に、神谷は頬杖をついて一日を乗り切ったのだった。