1話 電脳世界テイルニア
鳥のさえずりと列車の走る音が響く薄暗い部屋の中、黒髪の男性が通話相手へと意識を戻す。清々しい朝日につい窓の外へ目を奪われていた事もあり、会話を一部聞いていなかった。
「え?学校?」
『そうだよ』
「ヒジリ……今更学校で俺が学ぶことなんか何もないだろ……」
『学ぶことが何一つないなんてことはないさ。キョウ程ならば戦闘面では教わることはないだろうけどね』
へそ程の高さで浮かぶ通話アイコンと『ヒジリ』の文字。電脳世界特有のそれらは当事者である神谷 鏡にしか見えず、音声も然り。そして赴くことになった場所の大雑把な育成方針を知っているからこそ、つい眉をしかめて問う。
「余計に行く意味とメリットが理解できない。あぁ、どうせ任務だろ?また内容はお預けか」
『内容は追って説明するさ。時が来たら……ね?まぁ久しぶりの休暇程度に楽しんでくれれば良いさ。時間だね、いってらっしゃいキョウ』
「……何が休暇だ。十中八九ロクな任務じゃない」
通話の切断後に悪態をつきながら、ため息混じりに学校への支度を始めた。此度は既に手を回された『アトック天高学園』への入学式が控えているのだ。朝日に目を細めつつ、上司の言葉もあって特に学校の下調べはしていなかった。
入学式と言っても大したことは行われない。アトックにおいて勉学はついでに過ぎず、真の目的は民を守る強さを育てることにある。神谷の向かう入学式は、一〇〇〇を優に超える新入生の現状の強さを測る事が大半の目的だった。
(アトックか……うちにも卒業生がいたな。兵を育てるともなればうってつけの場所だが、あいつみたいなのがうじゃうじゃいるのか……?俺死なないよな……?)
神谷の所属する部隊、その仲間の一人の顔が浮かぶ。幼い顔立ちと小柄な背丈、可愛らしい容姿と似合わない強さ、そこに思わず零れてしまう苦笑い。そんな仲間と同等の強さを有する者がこの先に待っているのかと。
(ん……?)
だがそんな思考も束の間、路地裏の先に四名の人影を捉えた。往来の激しい道とは対照的に、薄暗い路地裏にて銀色の髪が揺れた。平穏な街に慣れた者では気付けなかっただろう。本物の殺気が神谷をそこへと踏み込ませた。
「君新入生でしょ?可愛いね!でもアトックって大変でさ〜?世渡りの仕方教えてあげるから連絡先教えてよ」
「…………」
「俺らやっさし〜!大人しく言うこと聞けよ?痛い目見たくないだろ?」
近づくにつれ会話の内容が鮮明になっていく。三名の男性が一人の女性に絡んでいる様子だった。下卑た笑い声とカミソリのような鋭い殺気。その切り裂くような殺意に気付けない平和ボケした人間ならば、女の子が面倒事に絡まれている、そう映った事だろう。思わず歩み出た神谷が。
「その女性困ってますよ。入学式に遅れてしまうので見逃して貰えませんか?」
「あ?誰だお前」
「そのネクタイ……てめえも新入生か。男に用はねーよ。散った散った〜」
「邪魔なんだよ!早くどっか行けよ!!お前にも教育してやろうか?」
「ええ、ぜひ先輩から御指導願いた――」
蛮人の拳が空を切ったと同時に、その体が宙へと舞って床へと叩きつけられた。最小限の動きで拳をかわした神谷が、伸びきった無防備な腕を引いて重心の残る足を蹴り飛ばしたのだ。
地に叩きつけられた男性は驚く暇もなかっただろう。見下ろす先に瞼をパチパチとする様に、神谷は平和を体感した。彼にとってチンピラなど久しいものであり、このような絡みは甘噛み以下なのだ。
「こいつ……っ!!」
時間差で驚きから帰った残る二名が手を翳す。広がる小さな紋様に神谷の表情が変わった。それは喧嘩に使うにはあまりに強大な力であり、人に向ける意味すら理解できないのかと、初めて臨戦態勢へと移行する。
(人気がないとはいえ……アトックの生徒は『創術』を玩具か何かと勘違いしているのか?)
『創術』
それは電脳世界【テイルニア】においてその者の強さを示す一つの指標となるものであり、世界の共通の敵を討つために振るわれるものだ。展開される炎の熱気が肌を通じて神谷へと選択を迫る。
(相殺術壁が使えれば穏便に済ませてやれるんだが……向こうがその気なら殺して無力化するしか――)
放たれた炎の矢、そして神谷だからこそ同時に展開された壁を見逃さなった。二人から放たれた炎の創術が眼前で液体のように弾け飛び、霧のように散りながら粒子となった。蛮人達の追撃を止めるは一人の声。
「新入生の歓迎にしては過激すぎるぞ」
「風島……っ!」
「ちっ!行くぞお前ら!」
路地の入口からこちらを凝視する男性の姿、それに伴い蛮人が去っていく。ほんの僅かな沈黙の空気の中で神谷は、自身に展開された半透明の相殺術壁の消える様を眺めていた。
「入学早々厄介な目にあったなぁ。君達は急いで登校した方が良い。初日から遅刻は嫌だろう?」
「……ありがとうございました。相殺術壁を張ってくれなければ怪我じゃ済まなかったかもしれません」
そんな神谷の言葉に対し、風島は思わず零れてしまった笑みを隠すように手を口元にあてた。含みのある言い回しと確かな観察眼。神谷、風島、共に初対面ながらに互いの強さが水準以上であると、水面下で腹の底を見つめ合う。
「それはあの三人が、かな?我ながら余計なお世話かと思ったけどね。そちらのお嬢さんがあまりに怖かったから介入させてもらった。それじゃあお先に」
「……」
銀髪の女性が。
「ねえ」
「ん?」
「なんで……わざわざ自分から……危険な事に関わったの?」
見送る背中から絡まれていた女性へと向き直る。吸い込まれそうな彼女の青き瞳、それは救いの手など必要なかったと、威圧と共にこちらの身を案ずる不器用な優しさが感じられた。
「別に、あのままだとあの三人が怪我しそうだったからな」
「……つまり、私からあの三人を守るために……自分から面倒事に首を……つっこんだ、ってこと?」
「……君、絶対に返り討ちにしてただろ」
「……」
何も言わずに彼女は歩み出した。割って入る事を決断させた彼女の殺気、あれは触れただけで全てを切り裂く鋭利な刃物のように感じられた。神谷の長所がその感覚を助長したとも言える。
(咄嗟に割って入ったが、あのまま見過ごしていれば確実にあの三人はメディカルセンターのお世話になっていただろうな……)
簡単には死なない世界とはいえ、倫理的には許されるものでは無い。だが同じく強硬手段に出かけた自分にも反省しつつ、少女の後を追いながら腰ほどまである長い銀色の髪を見つめる。光沢としなやかさが感じられるそれに、綺麗だと感想を抱きながら。
「ねぇ……なんで…一緒に歩くの?」
「方向は一緒だろ?君もアトックの新入生みたいだし」
「……」
「名前は?俺は神谷、神谷 鏡」
「……シルフィー…シルフィー・ハネライド」
一目見た時に感じた印象は間違っていなかった。終始素っ気ない態度に変化の乏しい表情と声色、シルフィーと名乗った少女は生まれながらに感情の起伏が少ないのだろう。それが神谷の抱く彼女への印象だ。
「シルフィーさんね、五年間よろしく」
「最短……最短で卒業……できるの?」
「……まぁなるようになるだろ。そんなに待ってくれないだろうし」
シルフィーの指摘に神谷は一夜漬けで叩き込んだアトックの卒業制度を思い出した。五年という数字は彼女の言うように最短で進級出来た場合に適用される。そしてそれがいかに難しいものかをやんわりと理解しているつもりだった。
各学年の人数比は綺麗な三角形を築き、その進級難易度は留年を珍しくないものとさせた。仲間の卒業生が言うには、先輩も後輩も、同期も、その全てがライバルだと。
「……貴方を含め、私は他人に興味がない。学園で見かけても……もう話しかけてこないで……」
「……」
そう言いきった彼女に神谷は何も言わなかった。彼女の纏う他人を寄せ付けない雰囲気と鋭く冷たい声色。人を見ることに長けたその才覚がシルフィーの心へと歩み寄る事を静止させたのだ。
(癖が強い子だな……突き放すなんてものじゃない。本当に刃物で切り裂くような、異常な拒絶……)
人一倍他人の感情や思考を汲み取ることに秀でた神谷にとって、彼女の放つ【拒絶】は首元に宛てがわれた刃に等しい。突き放す態度、それはこれ以上の踏み込みは首を跳ねるぞと、そう告げているように感じたのだった。
そんなシルフィーへの印象を胸に、その背中を見送りながら宙へと指をなぞる。何もその圧に気圧された訳では無い。繋がった一本の通話、それを聞かれたくなかったためだ。
「なんだよヒジリ?もう着くぞ」
『だろうね。だから繋いだんだ。当面の任務内容を伝えようと思ってね』
冷静沈着、そんな言葉が似合う通話相手は非常に頭のキレる存在だ。十六の頃から五年近い付き合いを築いた神谷は、嫌というほどその事を熟知している。だからこそ、学園の潜入任務をただの休暇と宣うヒジリへとため息を返す。
「はぁ……絶対にめんどくさいやつだよな?なんだよ?」
『学園に二人ほど目をつけている人物がいてね。その二人を守る、簡単だろう?』
「そう思わせたいなら名前とか顔とかさぁ……いつもいつも思うがもう少し情報を寄越せ」
『この業界……いや、この世界では情報は希少だからね。実際に顔を合わせた時でもなければ、個人情報なんてとてもじゃないが言い難いさ。それに……君なら言わずとも自ずと誰か分かるはずだよ』
「……要するにしばらくは学園に馴染めってことな。はぁぁ……」
いつものセリフに再度ため息を吐く。そして続いて告げられるは縛り。創術を磨くことに特化した学園の潜入において、それは神谷に冷や汗を浮かばせるに充分なものだった。
『キョウは理解が早くて助かるよ。それから、分かってはいると思うけれど……【異能神装】は人前では使わないように』
「……分かってはいる。だがついさっきアトックの在校生を見た後なんだ。状況によっては無理だぞ……?」
科学の発展によって様々な進化を遂げたこの世界でも、未知と言われる異能の力があった。【異能神装】を使えないことは神谷にとって矛を失ったに等しい。故に苦笑いの奥には僅かな不安が現れる。
『キョウならなんとかなるだろう?それじゃ頼んだよ』
「……転職しようかな」
己の強さを研鑽し合う集団、その学び舎。電脳世界テイルニアにおいて、アトック天光学園は特別な意味合いを持っている。様々な陰謀が入り交じる領域へと、神谷は己の矛を隠して侵入したのだった。