いつだって人による
防護壁をはってもらった夜は、なかなか眠れなかった。防護壁をはってもらっていても、アラン王子が来るのではないかと思うと怖くて、ベッドの中で大丈夫、とずっと自分に言い聞かせていた。結果は本当に大丈夫で、アラン王子はあれから、この屋敷を訪れていない。
「リリア、少しいいか」
「お兄様?」
お兄様が私の部屋にくるなんて珍しい。お兄様は私が5歳でアラン王子の婚約者になってからと言うもの、ベスティエ家の後継としての重責を一手に引き受けてくれている。私とアラン王子の婚約でベスティエ家と公爵家の絆は確実なものとなったけれど、それを妬む貴族たちも多い。
アラン王子が適齢期の随分前に婚約者を決めてしまったことに対して、公爵家がせがんだからだとあからさまに敵対視してくる貴族もいた。その貴族の皆皆様に、素晴らしい御子息だ、と言われているのが我が兄、グレンだ。
「どうぞ」
席をすすめると、お兄様が椅子に座る。今日も忙しいんだろうな、と見てわかるほど疲れ切った顔をしている。アリに目配せをすると、アリがお兄様の前にお茶を置いてくれた。
「ありがとう」
お兄様はそう言うと、カップに口をつけた。私と話している時くらい、ほっと一息つけたらいいのだけれど、と思っていると、アリが焼き菓子をお兄様の目の前に置く。お兄様は無言で焼き菓子を見つめていたけれど、かけていたメガネを外して、ナイフとフォークを手に取った。手で掴んで食べてもいいのに、と思うけれど、お兄様にはできないんだろう。
「リリア、セレス王子とはどうだ」
「良好だと、思いますけど」
食べながら訊いてくるお兄様の言葉に、多分、と自分で思いながら答える。そう答えると、お兄様ははあ、とため息をついた。眉間に皺ができて、険しい顔になる。
「一部の貴族が、お前が王妃にふさわしくないのではないか、と言っている」
「・・・」
「王妃になりたくないのなら、お前の意思を尊重したい。アラン王子からセレス王子に婚約者が変わったことを受け入れているだけでもベスティエ家は譲歩をしている。これ以上、お前に負担をかけることはしたくない」
その言葉に、自分の顔が緩んでしまうのがわかった。忙しいはずのお兄様がその合間を縫って私の意志を確認しにきてくれた。それだけでも価値があるのに、お兄様は私のことを守ろうとしてくれている。
「大丈夫です。セレス王子は良い方です」
「本当か」
「本当です」
そういうと、お兄様の眉間にあった皺が徐々に消えていく。それから優しい顔になった。
「お前には苦労をかける」
そう言ってお兄様が私の頭を優しく撫でた。撫でられたところから愛情が伝わってくるようで嬉しくなった。お兄様は、貴族の嫡男にありがちな傲岸不遜な人ではない。周りのことをきちんと愛してくれている。
私は5歳で婚約者になってから、厳しい王妃教育を受けてきた。その途中で、逃げ出したくなったこともたくさんある。私が家に帰って、王宮に戻りたくないと泣いていると、お兄様は絶対に私のことを庇ってくれた。
「苦労なんてしていません」
私がそう言うと、お兄様が驚いたような顔をする。
「私が、王宮に戻りたくないと言うと、必ず庇ってくれたことを覚えてますか?私はお兄様が庇ってくれたから、王宮でも頑張れたのです」
リリアを王宮に行かせないでください、と5つ上の兄が私のことを庇ってくれた。日々、そんなに一緒にいるわけではなかったのに、お兄様は私のことを守ろうとしてくれた。私と、お兄様のその姿に、もう少し落ち着いてから、と少しの間王宮からの従者も待ってくれた。あの時間があったから、私は厳しい王妃教育をたえられたのだと思う。
私の言葉に、お兄様の顔が驚いたようになる。それから、ふわりと笑ってくれた。
「懐かしいな」
「もう随分前のことですから」
年をとるごとに、私の王宮へ戻りたくないという意識も消えていった。王妃教育も受けなければいけないものから、受けたいものへ変わっていった。礼儀作法を細かく言われることも少なくなっていったし、私も順応していた。
「そういえば、この防護壁は何かあったのか?」
いきなり家の周りに防護壁が現れたら驚くだろうと、お父様とお母様には何かあってはいけないから、とセレス王子がはってくれた、と伝えた。それはたちまち従者同士でも広がって、みんながセレス王子はリリア様のことを大切にしている、と思っている。アラン王子のことをお父様とお母様に伝えるのはまだ早いと感じたからそう伝えたのだけど、お兄様はその説明では納得をしていないらしい。
「セレス王子が・・・」
「こんな巨大な防護壁を?いらないだろう。俺もいるんだぞ」
魔力量はセレス王子よりも少ないだろうけど、お兄様も公爵家の跡取りに相応しい魔力量と魔法の技術を身につけている。そこらへんの人が攻めてきても、お父様とお兄様の返り討ちに合うだろう。でも、相手はアラン王子なのだ。お兄様の眉間に皺がよる。
「何があった?」
隠して置けないな、と思った。お父様とお母様も何かあったのかもしれないと気づいているのかもしれない。
「アラン王子が、私の部屋のバルコニーにいらっしゃって、第二夫人としてついてくる方法もある、とおっしゃっていて、それをセレス王子に伝えると、防護壁が」
おずおずとそう言うと、お兄様の目が見開かれた。やっぱり驚くよなあと思う。第二夫人に元婚約者を連れて行こうとするなんて醜聞もいいところだ。
「もちろんお断りしました。醜聞になります」
慌ててそう言うと、お兄様が何かを考えるような顔つきになる。そして、私を見てにっこりと笑った。それは本当ににっこりと。
「いいんじゃないか?」
聞き間違いかと思って、自分の耳を疑ってしまう。お兄様はそんな私を放って、アリが淹れたお茶をゆっくりと飲んだ。私はまだ、聞き間違いかと疑っている。
「アラン王子についてレヴェールの第二夫人か。素晴らしい」
付け加えて言われた言葉にますます驚いて声が出ない。そんなことは絶対に無理だと反対するものだとばかり思っていた。それがお兄様はにこにこと笑顔のまま、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
「醜聞に」
「醜聞なんて気にすることはない。12年間、お前は王家に尽くしてきた。それを一番よく理解しているのは現国王と王妃だ。王家と公爵家の絆はお前のおかげで太く強くなっている。醜聞など、王家が盾となればすぐに消える。そしてベスティエ家はレヴェールと関係を持つことになる。関税も撤廃されたことだし、その絆を利用すれば領地のものにより豊かな生活を送らせることもできる」
そう言って唖然としている私を置いて、お兄様は上機嫌になった。レヴェールの王家とのつながりができることは確実だけど、醜聞に身を置かれることになるのを絶対に嫌がると思っていたのに。そんなことできるわけないだろう、と一蹴するものだと思っていた。
「もちろん、セレス王子との結婚も大歓迎だ。妹が王妃なんて、俺は幸せ者だな」
「どちらでもいいの?」
思わず敬語でなくなってしまうくらいの衝撃を受けた。アラン王子との結婚の可能性が再浮上してきた。どちらでもいいなんて思っていなかった。
「もちろん。どちらと結婚しても王家との繋がりは強くなる。どちらを選ぶのかはお前に任せるよ」
そう言ったお兄様は私が難しそうな顔をしていることに気づいたのか、上機嫌な様子から、心配するような表情に変わった。
「誇りに思った方がいい。12年間王太子の寵愛を手放さなかったんだぞ。この国の全ての令嬢が願うことだ」
そう言われても私の気持ちは晴れない。どちらと結婚してもいい、と言われると混乱してしまう。どちらと結婚がしたいのか、自分の胸のうちを聞いてみてもすぐに答えは出てこない。
私が物思いに沈んでいるのを察したお兄様が、また来る、と言って部屋を出ていく。お兄様が出ていった後の部屋はしんとしていて、私はため息をついてバルコニーを見た。
アラン王子は素敵な方だ。王になる努力をずっとしてこられた。誰にでも優しく誰にでも親切で、第一王子として文句のつけようがない。そのアラン王子は物心つかない頃から婚約者と定められた私に対してもずっと丁寧に接してくれていた。こないだ、無理に抱きしめられるまで、私はアラン王子のことを怖いと思ったことは一度もなかった。
じゃあ、アラン王子と結婚したいのか、と問われると前ならすぐに頷けたのに頷けなくなっている。
セレス王子は私のことを一番初めから尊重してくれた。私のことを婚約者にと望んでくれたのもセレス王子だ。冷静で一見冷たく感じるところもあるけれど、私に対して真っ直ぐ気持ちを伝えてくれた。第二王子からいきなり第一王子になっても、動揺を悟らせない気持ちの強い人でもある。
ふう、と息をつく。目の前のお茶を飲むと気持ちが少し落ち着いた。どちらでもいいと言われると思ってなかった。つまり、私は私の人生の責任を自分で選んでとることができる。ぼんやりバルコニーを眺めていると、ふわりと人が浮かび上がってきた。移動魔法であろうそれに驚いていると、ふわりと浮かび上がった人の輪郭がはっきりとしてくる。
「アラン王子」
防護壁をはっているのにどうして、と思っていると、アラン王子の手が私の部屋に通じる扉に触れる。静かな音を立てて、何かが壊れた。
「リリア」
体がこわばっているのがわかる。それでも私はそこを動けないでいた。アリが息を呑むのがわかる。
「防護壁は」
「気づかれないように壊すのに数日かかったんだ。来られなくてごめんね」
「そうですか」
いつもと変わりのない様子のアラン王子に私はアリに手を差し出す。す、と渡された扇子を開いて口元を隠した。怖がっていることを悟られないようにしたかった。この屋敷の誰もアラン王子の来訪に気づいていない。セレス王子がはった防護壁を数日かけて壊すなんて、すごい執念。
「おすわりになってください」
さっきまでお兄様が座っていた席をすすめると、アラン王子は素直にその席に座った。アリが静かに紅茶のカップを出してくれる。注がれる紅茶を見つめていると、アラン王子がにこやかに笑う。
「第二夫人になってもらいたいんだ」
「今考えているところです」
そう答えるとアラン王子は驚いたような顔をした。無理もない。この間ははっきりと断った。嘘はついていない。今考えているところだ。さっきお兄様にどっちでもいいと言われたから、どちらと結婚したいか考えていた。
「どういう心境の変化?」
「どちらがリモンにとって有益なのか、考えております」
嘘はついてない。けど、本当のことも言えない。二人のことを一人の人間としてみたときに、私がどちらに嫁ぎたいのかなんて急にはわからない。
「国にとって有益かどうかで決めるの?」
アラン王子がまるで私のことを嘲るように笑う。こんなに人を侮るように笑うような方だったかしら。その気持ちを表に出さないように扇で口元を隠したまま、にっこりと笑って見せた。
「アラン王子のお言葉です」
「俺の?」
「はい。いつでも民衆のことを考えるのが、私たちの役目だとおっしゃっていたではありませんか」
それが上に立つものの義務だと、私に説いてくれた時のアラン王子はもういないのかもしれない、と思った。アラン王子は今民衆のことを考えて、行動などしていない。私を第二夫人にしようと、防護壁を破ってくるような人だ。私がレヴェールに嫁いだ後、レヴェールでどのような扱いを受けるのかも、予想できていない。そう思うと、心が冷えた気がした。
「そうだったね」
私の言葉を聞いてアラン王子が微笑む。扇を畳んで、パシリと手に打ち付ける。その強さに、背筋が伸びた。12年、婚約者として過ごしてきた。12年間もだ。それは間違いなく私の一部分になっている。
「アラン王子はその気持ちをお忘れですか」
私の言葉にアラン王子の瞳が細められる。アラン王子のことを問い詰めるようなことをしたことは一度もない。アラン王子は私にとっていつも一歩先を歩いている存在だった。民衆のために動くのが私たち上に立つものの役目だと言っていた。その言葉に深く感銘を受けたのだ。
王太子妃のための予算を削減しようと言い出したのもアラン王子からだった。足りなければ俺の分を回すから、どうかな、と言われた時、いちもにもなく頷いた。
「忘れているわけがないよ」
「ならば、レヴェールとリモンのために、私たちがどうすべきかは自ずと答えが出ているはずです」
大国に自国の元婚約者を第二夫人として連れていくなんて、絶対にリモンのためにはならない。アラン王子とレティシア王女の結婚は外交なのだ。関税の撤廃までしたのに、自国の元婚約者を第二夫人として連れてくるような王子の国にレヴェールは優しくはしないだろう。リモンに有利に進めるためには、レティシア王女のわがままをリモンが受け入れたと言う形を取ることが望ましい。
「それがリリアの答え?」
「はい」
アラン王子のことを真っ直ぐに見つめる。これで納得してくれるだろう。私たちの存在は常に民衆のためにある。気持ちが伴わない結婚でも受け入れるしかないのだ。
「そう」
アラン王子は小さく頷いて、それから悲しそうな顔をした。胸がちくりと痛んだけれど、胸を張る。私は間違っていない。12年間の王太子妃教育で大切なことを学んだはずだ。アラン王子から視線を逸らさずにいると、アラン王子の方から視線が外された。アラン王子はバルコニーの方に目をやって、もう一度私に視線を合わせた。
「リリアがそう言うなら仕方ない。ごめんね」
アラン王子がそう言った瞬間、閃光が部屋中に迸った。眩しくて目を思わず閉じると、ふわりと体が浮き上がる感覚がする。どうにか状況を把握しようと目を細く開けると、見えたのはアリが私に何かを叫んでいるところだった。なんとかしようと防護壁を展開してもすぐにかき消えてしまう。なにこの魔力量、と思っているといきなり辺りが暗くなる。だんだんと意識が遠のいていく。最後に見たのは真っ暗な暗闇だった。




