3>> 婚約破棄宣言と幼馴染
学園の放課後、一部の生徒たちはサロンに足を運んで色んな話をする。
マリーナも友人たちと一緒にサロンの片隅でお茶をしながらお喋りをしていた。
「ここに居たか」
サロンにリゼオンが入って来たのが見えたマリーナが挨拶をしようとそちらを向いた時に、リゼオンの方から声をかけられた。
かけられた言葉にマリーナは、約束をしていたかしら?、と思った。
「愛するリゼオン様、わたくしに何か御用ですか?」
恥ずかしげもなく腕に女性をくっつけてやって来た婚約者にマリーナは微笑みながら言葉をかける。
名前の前に“愛する”と付けたのはマリーナなりの牽制だったが、リゼオンにくっついて来たカレナ・ドンド男爵令嬢は涼やかに微笑んだままだった。そこに少しの違和感を感じたマリーナがリゼオンの顔を見上げると、リゼオンはいつもと違って口元に笑みを浮かべてマリーナを挑発的な表情で見ていた。
マリーナが不思議な気持ちになっていると、リゼオンはバッと音がしそうな勢いで腕を上げてマリーナを指差した。
「マリーナ・ホブス伯爵令嬢!!
俺はお前に婚約破棄を言い渡す!!」
サロン内に響き渡る程の声量で宣言したリゼオンの言葉にマリーナは目を見張った。
そんなマリーナの顔を見てリゼオンは優越感を感じてニヤリと笑う。
マリーナの側にいた友人たちから悲鳴が上がり、サロン内に居た人々が顔をしかめた。
リゼオンはマリーナが顔を歪めて泣き出すのを今か今かと待った。その腕にもたれていたカレナも、マリーナが悲痛に騒ぎ出すのを楽しみにしていた。
「かしこまりましたわ、リゼオン様」
不穏な空気が立ち込め出したサロン内にサラリと流れた声に、その場にいた全員が一瞬言葉を理解出来ずに動きを止めた。
そんな中でマリーナだけは美しいカーテシーをしてリゼオンに頭を下げる。
「リゼオン様からの婚約破棄。
謹んでお受けします」
もう一度繰り返したマリーナはいつもと同じ微笑みを浮かべたままリゼオンを見返すと、その微笑みのままにサロンにいる他の学生に向き直り
「ここに居る皆様にはお手数ではありますが、この場の証人になっていただければと思います」
そう言って頭を下げたマリーナに少し離れた場所から声がかかった。
「証人になりますわ、マリーナ様」
にこやかにマリーナを見るその令嬢はジャスティーナ・メルビン侯爵令嬢だった。マリーナとは挨拶程度にしか話した事のなかったはずの令嬢だったが、身分の高い侯爵令嬢から声を頂けた事に、マリーナはメルビン侯爵令嬢に向かって心からの笑みを見せて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、メルビン様」
そんなマリーナに他からも声が上がる。勿論マリーナの友人たちからも証人になると言ってもらえた。
「皆様、ありがとうございます」
「ちょ、ちょっと待て!」
友人たちに振り返ってお礼を言っていたマリーナにリゼオンが慌てて声をかけた。
自分が予想していた展開とはかけ離れすぎていた事態にリゼオンはしばし思考が停止してしまっていた。それはカレナも同じだった。慌ててマリーナに声をかけるもサロン内の空気は既にマリーナ側のものだった。
「婚約破棄だぞ!? 俺はお前と婚約破棄をすると言ったんだぞ!?!」
「えぇ、ですからわたくしも、かしこまりました、とお返事させていただきました」
不思議そうに自分を見返してくるマリーナにリゼオンは理解が追いつかない。
直前にも自分の事を『愛するリゼオン様』と呼んでいたのに、マリーナの態度は全くいつもと変わらない。強がっている訳でもない。その事がリゼオンには全く意味が分からなかった。
「貴女、今、リゼオン様から婚約破棄を言い渡されたのよ!? 何、当然の様に受け入れてるのよ!?!」
リゼオンの横から上がった金切り声にマリーナは驚いて肩を揺らした。びっくりした顔をして自分を見てくるマリーナのその反応がカレナにも理解出来ない。
『愛する人から婚約破棄された事が理解できてないの?!』
カレナも心底驚いていた。
「貴女が口を挟む事でもないでしょう!?」
「そうよ!貴女恥ずかしくないの!!」
「そもそもこんな場所で婚約破棄とか普通言い出すか?」
「浮気女を連れて婚約破棄とか何を考えているのかしら!?」
「あり得ないわ!!」
マリーナの友人から非難の声が上がるとそれはまたたく間にサロン内にいた人たち広まり、みんな口々にリゼオンたちを非難し始めた。
マリーナに問い詰めようとしていたリゼオンたちは、リゼオンの突然の婚約破棄宣言により不快な思いをした人たちから抗議の声が集まり、マリーナどころではなくなってしまった。
「ちょっと待てっ!! 今のは!!」
「一度言った言葉は取り消せないぞ! 貴族紳士としてこれ以上の恥を晒すな!!」
サロンには当然男性も来ている。
リゼオンが慌てている事に気付いた令息の一人がリゼオンに詰め寄りながらそう言った。それに苛ついたリゼオンがそちらを睨んだが、相手が自分の家よりも力のあるセルゲイズ侯爵家の嫡男マーカスだった事に気付いてリゼオンは内心舌打ちした。
「マーカス、違うんだ。これは……」
「婚約破棄など、馬鹿なことをっ!」
「だからこれはっ!!……」
リゼオンが何とか今のは違うんだと周りを説得しようとしている間に、マリーナは居なくなっていた。
〜*〜*〜*〜*〜
「お父様。リゼオン様から婚約破棄されてしまいましたわ」
「なんと!? それでマリーナはなんと返事をしたんだ?」
「当然、お受けしましたわ。
だってリゼオン様から申し渡されたのですから、こちらが反対する理由はございませんもの」
「は〜………、シーキアス侯爵家の方々は婚約を申し込んできたり破棄してきたりと、何がしたいんだろうなぁ……」
「お父様。わたくしはリゼオン様からの婚約破棄をお受けしましたので、ちゃんとお父様の方でも婚約破棄として片付けてくださいませね」
「破棄だと大変だから、解消になるだろうがな……」
マリーナが父とそんな話をしていると、慌ただしく侍従が来客の知らせを持ってきた。
「アゼーム伯爵家のグエイン君が? 珍しいね。最近はめっきりこちらには寄り付かなくなっていたのに」
突然家に来たというグエイン・アゼーム伯爵令息は、アゼーム伯爵家の次男でマリーナと同い年の同級生でもある。夫人同士が友人だった事もありマリーナとグエインは小さな頃はよく一緒に遊んでいた。所謂幼馴染だった。
マリーナの婚約が決まってからはさすがに距離を取ったが、学園で会えば挨拶をし会話を交わす程度には関係を続けている。
そんなグエインが先触れもなくホブス伯爵家に来るなど本当に珍しい事だった。
まさかアゼーム伯爵家に何かあったのか?とホブス伯爵もマリーナも心配になり、足早にグエインが待つ応接室へと向かった。
2人が応接室へと入るとソファに座っていたグエインがおもむろに立ち上がって2人に向かって頭を下げた。
「マリーナが婚約破棄をされたと聞いて来ました!!
マリーナの次の婚約者には、是非、このグエイン・アゼームをお願いします!!
必ずやマリーナを幸せにしてみせます!!!」
頭を上げたグエインから飛び出した声の大きさとその内容にホブス伯爵もマリーナも目を見開いて驚いて固まった。
そんな2人を気にする事なくマリーナに大股で近づいてきたグエインがマリーナの前で片膝を突くと右手を差し出してマリーナを見上げた。
グエインは美しい黒髪とそこから浮かび上がるような金色の瞳が魅力的な笑顔が優しい青年だった。
そんな彼がマリーナの前に求婚するように跪いている。
その事にマリーナは一気に顔を赤く染めた。
「マリーナ! 俺はこの時を待っていた!! リゼオン・シーキアス侯爵令息の君への態度は知っていた! だからいつかこんな日が来るんじゃないかと、誰とも婚約せずに待っていたんだ!
君が今、誰にも心を寄せていないならでいいんだ! そんな人がいたなら勿論潔く身を引く。だが、もし君の気持ちがまだ誰の事も想っていないのなら、是非その心に寄り添う権利を俺にくれないだろうか?
俺が自分の気持ちに気付くのが遅かったばかりに、君に婚約を申し込むのが遅れてしまった……今度は絶対に遅れを取らない!
マリーナ、君が好きなんだ。愛しているんだ。この気持ちだけなら誰にも負ける気がしない。君に世界で一番恋心を抱いているのは俺だと自負している。こんな俺が君の側に居る事を許してはくれないだろうか……。
ただ君に好きだと伝え続ける権利が俺は欲しい……。
……あぁ、マリーナ……こんな風に君に俺の想いを伝える事が出来るなんて夢のようだ…………」
うっとりとマリーナを見つめるグエインの勢いに唖然としていたマリーナとホブス伯爵だったが、ホブス伯爵はこの告白劇の第三者だという事もあり、マリーナより先に正気を取り戻した。
「……ゴホンっ!」
「っは?!」
父の咳払いで我に返ったマリーナは自分に差し出されたままのグエインの手を取り、慌ててグエインを立ち上がらせた。
「い、いきなり突然なにを言いだすのですかグエイン! っ、も、もう、びっくりしたじゃないですか!!」
真っ赤になったマリーナをグエインは嬉しそうに見つめている。自分の手を取って両手で握っているマリーナのその小さな手の温かさにグエインはここ数年で一番の幸福を感じていた。マリーナはテンパり過ぎていて自分がグエインの手を握っている事にも気づいていない。突然の熱烈な告白にマリーナの心は爆発寸前だった。
「……グエイン君の気持ちは分かった」
何とも言えない雰囲気を醸し出している2人の若者を横目にホブス伯爵は冷静に話し出す。
「しかしまだマリーナとシーキアス侯爵令息との婚約は正式に破棄された訳ではない。私もつい先程マリーナから婚約破棄されたと聞いたばかりだからね」
「そ、そうなんですね……」
ホブス伯爵の言葉に自分が先走り過ぎた事を理解したグエインがバツが悪そうに眉尻を下げた。
「婚約が継続する事はまず無いだろうが、まずシーキアス侯爵と話をしなければどうしようもないな」
そんなホブス伯爵の言葉に、グエインは申し訳なさそうな表情をしてマリーナを見下ろした。
まだ頬の熱が引かないマリーナは、グエインにそんな顔で見られている事にも居た堪れない気持ちになった。
「……マリーナ……すまない……」
「いえ……っ、わたくしは……」
婚約者の居る令嬢に告白してしまった事を理解したグエインは謝った。
本来ならばマリーナの方からも、今はまだ困る、とグエインの存在を拒否しなければならなかったが、リゼオンから直接婚約破棄を言い渡されていたせいか、そもそもマリーナにリゼオンへの気持ちがなかったせいか、“まだ自分には婚約者がいる身”だと分かってはいるのにグエインを拒否出来ないマリーナがそこにいた。
「……今から手紙を書いて明日にでもシーキアス侯爵に会えるように伺ってみるつもりだが、あちらの都合もあるし書類も作らねばならない。
グエイン君にはもう少し待っていてもらうことになるだろう」
親の横でモジモジとしている2人を見ながらホブス伯爵は右手で顎をかいた。マリーナ本人は全く気づいていないが、初めて見せる娘の珍しい反応に、父親であるホブス伯爵の中では次の予定が次々と設定されていた。
シーキアス侯爵当主と会った後はアゼーム伯爵当主に会わなければいけなくなったので色々調節をしなければいけない。
ホブス伯爵の、自分を好意的に受け入れていると分かる口振りに、グエインは口元に笑みを見せて伯爵へと向き合った。
「はい! 今日はマリーナの婚約破棄と聞いて、次の婚約者に早く名乗り出なければと急いで来てしまいました! 申し訳ありません!!
次からは必ず先触れを出すと約束いたします!
では今日のところはこの辺で。
ホブス伯爵、お忙しいところをお邪魔してしまいすみませんでした!
マリーナ、……また学園で……」
名残惜しそうにマリーナを見つめながら退室するグエインをソワソワとして見送っていたマリーナだったが、グエインが廊下に出て直ぐに
「……お、お見送りしてまいりますわ!」
と、父に小さく礼をしてグエインの後を追いかけていった。
その後ろ姿を優しい瞳で見送ったホブス伯爵は、苦笑混じりに小さく息をついた。
「……アゼーム伯爵家と親族になるか………フィーナが喜びそうだな……」
ホブス伯爵は妻の顔を思い浮かべて呟いた。