1>>婚約者とのお茶会
「リゼオン様、愛しておりますわ」
それはマリーナの口癖だった。
柔らかな金色の髪と透き通った翡翠の瞳を煌めかせて令嬢らしくおしとやかに微笑んだマリーナ・ホブス伯爵令嬢は、ぷっくりと膨らんだ唇から婚約者に愛の言葉を伝える。
その様子を部屋の壁際から見ていた彼女付きの侍女はその可愛らしい主の仕草に微笑み、そしてその言葉を受け取るはずの男が主であるお嬢様と同じ言葉を彼女に返さない事に若干苛ついた。
ここは貴族街にある喫茶店。
貴族だけが使う為に衝立で仕切られたテーブル席と個室とが用意されている。その店の個室にて婚約者同士の交流の時間を作っていたリゼオン・シーキアス侯爵令息とマリーナ・ホブス伯爵令嬢だったが、そのマリーナの婚約者であるリゼオン・シーキアス侯爵令息は最初から不機嫌だった。
彼は深みのある青い色の髪とその色と同じ色の瞳を持ったとても精悍な顔立ちをした青年だ。スラリとした足を気怠げに組み、テーブルの上に載せられた手は人差し指が小気味よくコツコツとテーブルを叩いて音を刻んでいた。それはリゼオンが苛立った時にする癖だった。
リゼオンはマリーナの顔を見た時から不機嫌だった。
だがそれは今日に限った話ではない。
リゼオンはマリーナと婚約が決まった初めての顔合わせの時から機嫌が悪かった。
何故ならリゼオンは、自分はどこかの侯爵家に婿入りすると思っていたからだ。しかし決まったのは伯爵家への婿入りだった。
リゼオンはシーキアス侯爵家の三男で末っ子だった。長男は最初に生まれたというだけで実家をそのまま継ぎ侯爵家の当主になる。次男も侯爵家に婿入りする事が決まっていた。なのに自分があてがわれたのは伯爵家当主の座だった。それが何より不満だった。その不満をそのままマリーナに向けていたのだ。
『伯爵令嬢ごときが侯爵家のボクを婿に出来るんだからこいつはさぞ気分が良いんだろうな。その証拠にバカみたいに微笑んでやがる。ボクというアタリを引いて嬉しいんだろう。ボクがこんなにも不遇な扱いを受けているのに、こいつにはそれが喜びなんだ。なんて図々しいんだ!伯爵令嬢の癖に!』
リゼオンはそう思った。
マリーナとリゼオンの婚約はリゼオンの家であるシーキアス侯爵家からホブス伯爵家への申し込みだったが、リゼオンは知らない。興味がないからだ。しかしその思い込みに追い風があった。
正式に婚約者になったマリーナが頬をピンクに染めてリゼオンに向かって
「愛しておりますわ、婚約者様」
と伝えたのだ。それを聞いたリゼオンは確信した。
『こいつがボクを好きだと言い出したから婚約する事になったんだ!どこでボクの事を見たのか知らないけど、こいつがボクに一目惚れして婚約を申し込んできたんだ!父上はなんで断らないんだ!伯爵家に何か弱みでも握られているのか!?……いや、シーキアス侯爵家がそんな弱い立場なはずはないか……きっとこいつの父親がこいつに甘いんだな……伯爵令嬢ごときの我が侭でボクの人生が決められるなんて、なんてボクは不幸なんだ……!会って間もない相手に“愛してる”なんて言われて嬉しい訳がない!!こいつは自分が愛されて当然だと思ってるんだな!だから簡単に人にそんな言葉が言えるんだ!なんて自分勝手で傲慢なんだ!!こんな自己中心的な女!誰が好きになるものか!!』
リゼオンは直ぐにマリーナを嫌いになった。自分がどれだけ不機嫌でも冷たく返事を返してもニコニコ微笑んでいるマリーナが理解できず不快で、その事からも更にマリーナを嫌いになった。
だが自分から父親に婚約解消して欲しいなどとは言えなかった。
シーキアス侯爵家当主であるリゼオンの父は自分が1度決めた事はちゃんとした理由がなければ絶対に取り止めたりしない性格だった。マリーナとの婚約を解消したいと伝えてもリゼオンには父を納得させられるだけの理由を伝える事が出来ないと思った。
マリーナが自分を好きな以上、“自分が嫌いだから婚約したくない”なんて言ったところで拳が飛んでくる未来しか見えない。貴族の婚約が恋愛感情だけで成り立つものでは無い事を貴族に産まれた者なら誰だって知っている。だからそんな事は婚約解消の理由にはならない。
リゼオンは嫌々ながらもこの婚約を受け入れるしかなかった。
だが、受け入れたからといってマリーナに優しくしてやる必要も無いだろうと思った。
何故なら“マリーナがこちらを好きなのだから”、その事を“リゼオンが受け入れた”時点でマリーナは満足しなければいけない。それ以上を求めるならばもっと見返りを返すべきだとリゼオンは思った。リゼオンが伯爵家に入ってやるのだから、そこに『リゼオンからの愛』まで求めるならマリーナ側からもっとリゼオンの為になる物を差し出さねば釣り合いが取れないだろう。でも今のところマリーナからそれ相応の物が差し出された事は無い。
だからリゼオンは今後もマリーナに優しくしてやる気はなかった。
〜*〜*〜*〜*〜
「その言葉、聞き飽きて逆にうぜぇんだよ」
マリーナからの愛の言葉にリゼオンが返した言葉はそんな言葉だった。
冷たい視線と共に紡がれたその言葉に、マリーナは困ったように眉尻を下げて笑った。
「ふふ、申し訳ありませんわ」
そう言って紅茶を口に運ぶマリーナにリゼオンは忌々しげに鼻を鳴らす。
リゼオンの時間を奪い、“マリーナがリゼオンを側に置いて楽しむ”為だけのこの“婚約者との交流”の時間がリゼオンには苦痛だった。愛を囁いているのはマリーナだけで、愛を“囁いている事に酔いしれている”マリーナの顔がリゼオンは嫌いだった。
自分からは話題を何も提供せず、マリーナから何か聞かれれば適当に答える。リゼオンの視線は殆ど時計に向けられていたが、マリーナはその事を指摘する事はなく、リゼオンの横顔を微笑んで見ていた。
「……まだ何かあるのか?」
「いいえ。ございませんわ」
「なら今日はもう終わりだ。ここの支払いはいつもの様に俺がしておく。お前は帰れ」
「はい。いつもありがとうございます、リゼオン様」
「…………」
「それでは、また学園で。
リゼオン様、愛しておりますわ」
そう微笑んでマリーナは侍女を連れて個室を出ていく。その後ろ姿を見送る事なくリゼオンは目を閉じた。
やっと苦痛な時間が終わった。
これからやっと“俺”の時間だ……。
個室を出たマリーナが店の出入り口に来た時、一人の令嬢が受付で店員とやりとりをしていた。
「待ち合わせなの。シーキアス侯爵令息様と」
隠す気がさらさら感じられない音量で発せられた言葉がマリーナの耳まで届く。
「……その名前のお客様は居られませんね」
「あらごめんなさい! 違う名前だって言われてたのにっ! もう、わたくしったら! シス様のところに案内して」
自分の間違いに気付いて恥ずかしそうに笑う令嬢は声を弾ませて別の名前を告げる。
「シス様のお連れ様ですね。どうぞこちらに」
店員はにこやかに令嬢を個室へと誘導する。
入る客と出る客が歩きやすいようにとそれぞれの動線の間に設置されていた衝立を挟んでマリーナが令嬢の横を通り過ぎる時、衝立で隠れる前に見えた令嬢の勝ち誇った目にマリーナ付きの侍女が気付いて内心青筋を立てたが、マリーナは伏せた目を上げることなく令嬢の存在を無視した。
「リゼ様ぁ〜! 会いたかった〜!」
令嬢が個室に着いたのだろう。後ろから微かに聞こえてくる黄色い声を背にマリーナは店を出た。
「……あれ、わざとですよ」
侍女が小声でマリーナに囁く。
「婚約者様には困ったものですわ」
マリーナは左手を頬に当てて困った様に侍女に微笑みを返した。
馬車置き場の側まで行くと直ぐに伯爵家の御者が気付いてマリーナの元まで馬車を動かした。
馬車置き場を見てもシーキアス侯爵家の馬車は無い。要はそういう事なのだ。
いつもの事ながらマリーナはそれを確認して小さく溜め息を吐いた。