子供は知っている4
壱のルナは自室のベッドで目覚めた。
「ん……んん?」
ルナはなぜ朝まで寝ていたのか、よくわからなかった。
とりあえず、部屋から出てリビングへ向かう。
今日も学校だ。
外は雨が降っていた。憂鬱だ。
梅雨が早めに来たのか、ルナの気分で雨が降ったのか……。
二階の部屋から階段を降りてリビングについた。ママが朝ごはんを作っていたがルナを見た瞬間に飛んできた。
「ルナ! 大丈夫? 昨日からずっと目を覚まさなくて……熱があるわけでもないし、疲れていたの? それとも……」
ママが続きを話そうとしたので、ルナは止めた。
「ママ、大丈夫。ルナは元気に学校行くよ。今日は……戦える気がする」
ルナは卵焼きとご飯と味噌汁をたいらげ、歯磨きをし、顔を洗い、帽子をかぶり、ランドセルを背負った。
……ルナだって負けてられない。
ルナは夢でいじめっこを倒したんだ。
どうやら向こうのルナがやったことが夢として自分がやったことになっているらしい。
……暴力はダメ。
でも、仲間はいるかも。
誰かに言われた言葉。
皆が皆、同じ考えではない。
だから、きっと……。
ルナは傘をさし、色々考えながら通学路を歩く。いつもの駄菓子屋を通りすぎた。シャッターを上げていた駄菓子屋のおばあちゃんが心配そうにルナを見ている。
「おはようございます」
ルナはおばあちゃんに挨拶をして微笑んだ。
「おはよう、車に気をつけてね。雨だからすべらないようにね?」
おばあちゃんは一言心配そうに言うと軽く手を振っていた。
ついに学校の前に来た。
緊張で手が震えながら校門をくぐる。ママに学校に入ったことを伝えるアプリをタップする。
……えーとそれから……
ルナは早くなる心臓の音を聞きながら唾を飲み込んだ。
はぶかれているクラスに足を踏み入れることがどれだけ怖いかはいじめられた人しかわからない。
クラスに入る。
皆がこちらを向いているように感じた。そして皆が自分の悪口を言っているようにも思える。
来たばかりで惨めな気持ちになった。
机には悪口が、嫌がらせの絵が書かれている。
手紙が置いてあった。開くと「がっこうくるな、ちび ぶす ぎざば」と書いてあった。
ルナは震えた。
いつもと変わらない景色。
悲しくなり唇を噛む。
「くるくるザメ」とルナはいつもギザギザの歯とカールした髪をバカにされる。
「くるくるザメ……」
ルナはひとりつぶやき、席についた。
「くるくるザメ……」
もう一度つぶやいて、うつむき、拳を握りしめ、涙を堪える。
「ちび、ぶす……ぎざば」
その言葉がルナをどれだけ傷つけるだろうか。
「ちびだよ、ぶすだよ、ぎざばだよ……くるくるザメだよ……」
ルナは鼻水をたらしながら泣いた。
「うわ、きもっ!」
ルナが泣いているのを見たいつもの女の子が嫌そうにルナを見た。
「キモい……かな」
ルナは小さくつぶやく。
「え、泣いている、鼻水きたなっ! よらないでくれる? キモいから」
別の女の子もルナにそう声をかけた。
「ルナ、そんなに気持ち悪い?」
ルナは小さくつぶやく。
先程下駄箱付近にあった傘立てに入れた傘が泥だらけでルナの机に置かれた。
「これ、おちてたー」
「うわっ、ドロドロじゃん、きたなっ!」
見知った男の子達が騒ぐ。
ルナは泥だらけになったお気に入りの傘をただ眺めた。
……仲間がいるなんて、幻想だった。皆が皆、違う考えなんて幻想だった。
パパに買ってもらったお気に入りの傘だった。
望月とウサギがかわいい傘だった。
ルナの大好きな色、ピンクだった。
初めて自分の持ち物に自分で名前を書いた。
学校に行ける、お姉さんになれる……そういう想いがつまっている傘だった。
ランドセルの中身が出されていた。ランドセルが蹴られていた。
パパに買ってもらったランドセル。
筆箱が放り投げられていた。
ママに買ってもらった筆箱。
「だっさい上履き袋~、イチゴ柄」
「あははは! ダサッ!」
お姉ちゃんが慣れないミシンで作ってくれたかわいい上履き袋だった。
かわいい、ありがとう、大事に使うね……そう言ったら照れくさそうに笑っていたお姉ちゃん。
「ルナは……かわいいと思うな……ダサい……かな」
ルナは精一杯の愛想笑いを浮かべながら泣いていた。
ルナは孤独を感じた。
また、これだ。
ママ、パパ、お姉ちゃんに……なんて言い訳をしたらいいんだろうか。
雨で……汚れちゃった。
ころんじゃった。
ダメだ。
また皆を心配させちゃう。
違う言い訳を……考えなくちゃ。
ルナの瞳から光がなくなった。
違う言い訳を……考えなくちゃ。
周りは騒いでいる。
もうルナの耳には入らなかった。
いつもの日常だ。
「もう、やめなよ」
ふと、知らない声がした。
その声はルナにはっきりと届いた。
「そうだよ、もう見てられないよ。いつもいつも、楽しい? それ」
「じぶんがやられたら、どんな気持ちか考えたことないの?」
「私、この上履き袋、かわいいと思うよ。手作りなんていいなあ。ホコリまみれになって、かわいそう」
「さっき、あんたが傘を校庭に投げ捨てて踏んでたよね? かわいい傘だったのに」
「筆箱、私と同じだね!」
ルナは今まで聞いていなかった。毎日の言い訳ばかり考えていた。どうせ全部悪口だと耳を塞いでいた。
「……え」
ルナは涙でいっぱいの顔を初めて上げた。
「大丈夫? ティッシュ使う?」
目の前に男の子が立っていた。
手にティッシュを持っている。
「あ、ありがとう……」
ルナは初めてお礼を言った。
「この傘、かわいいね、どこで買ったの? この辺にはないよね? 私もママに買ってもらおうかな」
女の子が泥だらけの傘を持って笑っていた。
「……そ、それは……ポップキッズっていうお店で……パパが……」
「これ、ポップキッズのなんだ! 私も土曜日行くんだ! 傘を買いに行くの! そろそろ雨が降るから。これ、あるかなー。その前に水道で洗おうよ」
「……あの……」
ルナは言葉が出なかった。
「望月さん、タブレット、落ちてたよ。はい。あ、俺、そうすけって言うんだ。いい加減、名前覚えといてよー」
「えっと……うん。ありがとう」
ルナはタブレットを優しく受け取った。
色んな子がルナに話しかけていた。
これはすべて「悪口」だと思っていた。ずっと耳を塞いでいた。
彼らはきっとルナにずっと話しかけてくれていたに違いない。
そういえば、いじめが始まった初期よりルナを傷つけてくる子が少なくなった気がする。
「やっと声が届いた……」
「……え?」
ティッシュを差し出した男の子の隣にいつの間にか別の女の子が立っていた。
「望月ルナちゃん、ずっと下向いてるから……話しかけてたんだけど……」
「あ……ご、ごめんね! 気づかなくて……ぜんぶ……悪口だと思っていたから……」
ルナは鼻をかんでから女の子を見た。そういえば、いつも話しかけてきていたような気がする。
「おともだちになろうと思って……私、かりんって言うの」
「かりん……ちゃん」
「僕も友達になろうと思ってて」
ティッシュをくれた男の子もルナにそう言った。
「えっと……」
「あきと。あきとって言うんだよ」
「あきとくん」
「あ、朝の会始まる! じゃ、後で」
「あ……」
ルナは呆然としていた。
ルナはひとりではなかったらしい。狭い世界でものを考えていた。いじめは気持ちをすり減らし、やがて自分に鍵をかけてしまう。
誰かが言っていた。
泣きながら言っていた。
「ルーちゃんには手を差しのべてくれるひとがいる」
その誰かは最後にこう言った。
「ルーちゃんには明るい未来がある! だからまっすぐ……歩いて」
誰だったか思い出せない。
でも、優しい子だった。
「ありがとう……」
ルナは夢の中の誰かにそう言った。
「ありがとう……」
ルナは窓から空を仰いだ。
いつの間にか雨がやんでいて、雲の切れ間から光がさしていた。