4.国境警備部
そっと目を開けると、初めて見る場所だった。
足元には転移室と同じ魔法陣が広がっている。
どうやら成功したらしい。
『手で大丈夫』と言い切った手前、失敗したらどんな顔をしていいかわからなくなるところだった。
目的を果たせたことに安堵し、用の無くなった手を離そうとしたら、ユールがきっちり握っていてほどけない。
「着きましたよ」
言外に『手を放してください』という意味を込めて強めに言うと、ユールは名残惜しそうな顔をしつつも、何も言わずにするりとほどいてくれた。
小さい頃、弟がよくこういう顔をしていたな、と思い出す。
同時に、会って2日目の人間に見せる表情ではないな、とも思う。
悪いことは何もしていないはずなのだが、なんだかもやもやする。
無駄な罪悪感を振り切るように、リントは部屋を見回した。
室内はそれほど大きくはないが、机や本棚などが置いてあり、最低限の事務作業ができる環境は整っているようだった。
壁は石造りなので、相当古い建物ではないだろうか。
「ここ、国境警備部所有の建物。転移先は大抵軍事施設とか役所とか、国保有の建物に設置されてる。地方に魔導士庁専有の建物はないし、警備の問題もあるから」
ユールが大まかに説明してくれた。
「国境警備部…」
国軍の一部隊だ。名前の通り、国境の警備が主な仕事である。
「正式には、国防省国境警備部ヤトル区隊だね。今の隊長は女性だから、話しやすいと思うよ」
「女性で隊長って、すごくお強いんでしょうね」
「もちろん腕もたつけど、ヒポグリフの扱いが段違いで。そのうち見れると思うから、楽しみにしてて」
ヒポグリフは火を吐く魔獣だ。
戦闘用に軍部で飼育されている。
実戦向きの獣のため、大半が国境沿いに配置されているのだと授業で習ったが、リントは実物を見たことがなかった。
ヤトル区隊長についてはユール曰く、普段は指揮があるのでよっぽどでないと戦闘には参加しないのだが、国の祭事にヒポグリフで演舞をするらしい。
今、国内において1人で数匹を操れるのは彼女だけなのだそうだ。
彼女目当てに何万という観客が集まるとのことなので、その素晴らしさは想像に難くない。
楽しみがまたひとつ増えたと嬉しくなっていると、横の視線がやけに刺さるのを感じた。
はっと気づいて両頬を手で押さつつ横を見やると、ユールの顔がにまにましている。
やはり、リントの顔が先ほどと同じ状態になっていたようだ。
「黙って見てないで、止めてくださいよ」
「なんで?可愛いのに」
恨みがましく言ったら、斜め上すぎる返事が来た。
さっきは笑っていたのに、その返しはどうなのだと言ってやりたい気持ちはあるが、予想外の『可愛い』に自分の顔が熱くなっているのが掌から伝わってきていて、どうにもやりきれない。
くるんとユールに背を向けると、早く赤みが引くよう祈りつつ、呼吸を整えた。
「必要以上に褒めるの、やめていただけませんか」
「そんなつもりはないんだけど。気に障ったならごめん。気をつけるよ」
背を向けているので顔は見えないが、明らかに気落ちした声に、こちらが心苦しくなってしまった。
『もういいです』と言いながら向き直ったリントに、もう一度『ごめんね』と謝ったユールの顔は、まるで垂れ下がった犬耳が見えるかのようにしおらしくて。
―勝てない、と思った。
素なのか、演技なのかはわからないが、彼には抗える気がしない。
何にせよ、今はこのもどかしい空気を変えてしまわねば。
リントは、必要以上に明るい声を出した。
「無事転移が成功して良かったです!この後はどういうご予定ですか?」
「とりあえず、隊長に挨拶、それから『壁』へ行くよ」
「隊長に挨拶ってこの格好で、ですか?」
どうみても、『長』のつく人に会いに行く服装ではない。
やはりジャケットは持ってくるべきだったと、今更ながら後悔した。
「普段から楽な服装で会っているから、気にしなくていい…って言ってもリントは納得しないだろうと思って、ちゃんと用意してきた」
ユールが背負っていた小型のリュックから取り出したのは、濃藍の布だった。
折りたたまれたそれは、かなり厚みがある。
「魔導士のローブ。昨日渡しても良かったんだけど、庁内以外の人間に会うのは今日が初めてだよね?せっかくだから使えばいいかな、と思って。基本、式典の時しか着ないという一品」
ユールが慣れた仕草でリントに羽織らせる。
濃藍の生地には銀糸で、縁に沿った繊細な刺繍と、胸元には国章が施されていた。
「これ、重いですね…」
良い生地を使用しているのか、凝った刺繍のせいなのか、肩にずしりと重みを感じる。
正直長時間の着用は避けたい。
「そう、重いし、暑い。これ着てると、『魔導士』って感じはするんだけどね」
どんな職業でも、制服の威力は絶大らしい。
自分も『それなり』に見えているのだろうか。
そうだったらいいな、と思う。
その時、一つしかない扉がゆっくりと開いた。
「あら、早かったのね。お出迎えしようと思って来たのだけれど」
扉が開いて現れたのは、軍服を身にまとった女性だった。
40代くらいだろうか。黒髪にすっと伸びた背筋が凛とした印象を与えている。
後ろにリントより若い女性が付き従っていた。
「おはようございます。フォクナー隊長」
にこやかに挨拶するユールの『隊長』という言葉に、リントも慌てて深く一礼する。
笑顔で挨拶を受けた隊長は、リントを一瞥した後、ユールに向き直った。
「彼女が?」
「はい、今年入庁した魔導士で、ロスティア・リントです」
「お初にお目にかかります。魔導士庁、魔導士課のロスティア・リントと申します。よろしくお願いいたします」
「国防省国境警備部ヤトル区隊長のフォクナー・アデリアです。こちらこそよろしく。こちらは、うちの隊員でシエル・トート。何かあれば彼女に」
「シエル・トートです。よろしくお願いいたします」
後ろに控えていた女性が、隊長の紹介で一歩前へ出る。
鮮やかなアースアイの瞳が印象的だった。
年齢は18とのことだったが、そばかすが幼さをより際立たせている。
リントも挨拶を返す中、ユールは隊長と少し離れて話を始めた。
漏れ聞こえる単語からして、リントたちの予定を確認しているようだ。
一魔導士の予定を隊長が確認する事に、リントは違和感を覚えた。
入ったばかりのリントに内情はわからないが、単に部屋を借りているだけではないということなのだろう。
二人の会話が終わるのを待っている間、手持ち無沙汰にしていたら、シエルと目が合ってしまった。
とりあえず、にこりと笑んでみると、シエルも同じように返してくる。
軍と魔導士の関係性がいまいちわからないので、余計な事も言えない。
お互いににこにことしたまま時が過ぎる。
この状況、どうにかならないだろうかと模索していると、突如、警報が響いた。
リントは聞いたことのない音にびくりと体を震わせたが、他の者は慣れているのか、全く動じていない。
「ご報告します」
警報から間を開けず、隊員が駆けてきた。
「国境付近に魔鳥を確認。小型の雷鳥と思われます」
「ちょうどいいわね」
隊長の声にユールが頷く。
「私も参加してよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんよ。ロスティアさんは私と一緒に上で見学しましょうか」
「大丈夫です。彼女は俺が乗せますから。行こう!リント」
「え、ちょっと…!あ、失礼いたします」
ユールに手を取られ、引きずられるように部屋を後にする。
とってつけたような挨拶になってしまったが、隊長は笑って送り出してくれた。
「どこに向かっているんですか?」
ユールに手を引かれたまま、足早に下へ下へと降りていく。
石段1段ごとに高さがあって、足がもつれそうだ。
「獣舎だよ。ヒポグリフで雷鳥を追い払うんだ」
「え、」
「魔獣、興味あったんでしょ?近くで見れるよ」
確かに魔獣は興味があった。あったが、それは飼育されている安全な獣であって、野生ではない。
走りながら話していたから、息もあがってきた。
「あの、私、ヒポグリフに乗ったことがないんですが!」
「だから、俺と一緒に乗るの!もうちょっとで着くから頑張って!」
顔は前を向いたままなので、後方にいるリントにユールの表情は確認できないが、声だけで彼が心底楽しんでいることは伝わってきた。
獣舎に着くと、すでに準備が整えてあった。
隊員とは顔見知りなのだろう。ユールが挙げた手に、親しげに応じている。
後ろにいるリントに気づき、軽く会釈をしてくれたので、こちらも同じように返した。
緊急事態なので、正式な挨拶は後回しだ。
ヒポグリフは馬よりもひと回りほど大きく、がっしりしていた。
2人で乗っても、十分余裕がありそうだ。
先にひらりと背に乗ったユールが、リントをひき上げてくれる。
馬と違い、座った状態で待機してくれていたので、思っていたほど苦ではなかった。
当然ながら、初心者のリントが前、ユールが後ろだ。
腰にロープを巻かれ、その先は首輪につながれた。
転落防止と聞いて、安心感は格段にあがった。
「首輪、しっかり握ってて。行くよ」
声とともにユールが足で軽く胴を叩いて、ヒポクリフに合図を送る。
答えた獣は、大きく翼を広げ、一気に空へ駆け上がった。