45.救いの手
今日も今日とて、ヤトル区の草原は穏やかだ。
澄み渡る空に白い雲。あたたかな日差しに緑が揺らめき、心地よい風が頬を撫でていく。
いつもなら好ましく思う光景も、残念ながら今のリントには恨めしさしかない。
「ふぁ…」
誰もいないのをいいことに、大きく口を開け、めいいっぱい空気を吸い込む。
あくびで押し出された涙が膜となって景色が歪んだが、気にならなかった。
はしたないのは承知の上だ。
だからこそ、人目の無いところまで我慢したのだから。
喉の奥が詰まる感覚に、リントは再び口をあけた。
『壁』での作業に勤しむ今、自分を乗せたペガサス以外に見咎めるものはいない。
あの後、結局半醒半睡のまま迎えてしまった夜明け。
出掛けに飲んだ回復薬の効果で頭痛や倦怠感といった不調は全くないものの、眠気は健在どころか時間が経つほどその存在を誇示していた。
万能に見える回復薬も、その根源は自浄作用であって、時間遡行ではない。
傷が消えても傷ついた事実が無くならないのと同じく、寝てもいない睡眠時間を確保したことにはならないのだ。
どうにもならないもどかしさを抱えながら黙々と仕事をこなすリントに対し、ペガサスはいたくご機嫌である。
休憩中、あの柔らかな草地に座ったら最後、確実に寝落ちる自信があったリントが手慰みを求めてペガサスの世話に注力した結果だった。
おかげで進捗は大変順調。予定よりかなり早いペースで進んでいる。
人間なら鼻歌でも歌っているのではと思える様子に、ふと思い出したのは初めてペガサスに乗った日の事だった。
専科の授業で初めて間近に見たペガサスは、陽光を受けて白く輝き、魔獣に使うべきでないと思いながらも、リントの乏しい語彙力では、神々しいという言葉以外見当たらないほどだった。
あまりの美しさに、教官の説明も右から左で。
ぼぉっと見惚れていただけのリントに、何故か興味を持ったらしいペガサスは、警戒心が強いなんて微塵も思わせない人懐こさを見せ、初日にも関わらず一緒に空を駆けることとなった。
おかげで教官の目に留まってしまい、『持っていて損はないから』と調教師の資格受験をそれは熱心に勧められる羽目になった。
本命の魔導士試験で手一杯だったリントにそんな余裕があるはずもなく、丁重にお断りしたのだが、残念を通り越して恨めし気にこちらを見る教官の顔は、今も鮮明に覚えている。
一般的とは言い難い職種において、人手不足はどこも同じらしい。
ペガサスの気を引いた理由がわかれば今後の役に立つのではと、あれこれ考えた時期もあったが、結局解明には至らなかった。
リリーにこの話をしたところ、『好みの体臭なんじゃない?』と言われ、酒飲みの冗談とわかっていても、当時のリントにはグサリと刺さり。
あの後、密かに香料や薬草入りの石鹸を手あたり次第試していたことは誰にも内緒だ。
余計なことまで思い出してしまい、リントの眉がわずかに寄る。
「あ、ごめん」
少しばかり思い出に浸っていた間に、知らず手が止まっていたらしい。
急かすように鳴いたペガサスに、リントは気を取り直して作業を再開した。
・・・・・・・・・・・・
残りの枚数が片手で数えられるまでになった頃、突然ペガサスの歩みが鈍くなった。
「?」
耳をパタつかせる仕草を何度か繰り返した後、数キロ先の木々へ視線を向ける。
明らかに何かを気にしている様子に、リントも同じ方向を見やるが、なんの変哲もない草木が広がるばかりだった。
人間の数十倍良いとされるペガサスの視聴覚。
何かあるのは間違いなく、『問題ない』事を確認するのもリントの仕事だ。
威嚇する様子が見られなかったので、大方小動物か群れからはぐれた羊辺りだろうと見当をつけたリントは、ペガサスの背から降りると手綱を手近な木へと巻き付けた。
白くて体躯の大きいペガサスは目立つので待機である。
置いていかれるのが寂しいのか、リントを心配しての事なのか、ペガサスが小さく鳴いたのが愛おしくて、リントはぎゅっと首に抱きついた。
「大丈夫。すぐ戻るから」
鼻先を摺り寄せる仕草を了承と受け取り、リントは示された方角へと1人歩きはじめた。
気負うことなく始まった探索が様相を変えたのは、それからしばらくしての事だった。
草の緑が広がるなか、明らかに人工的な色合いが混ざっている。
木陰に隠れてはっきり見えないが、外套の色と大きさからして成人男性らしき人影が横たわっていた。
可愛らしい野兎や魔羊を期待していたリントとしては残念な上に、あまり好ましくない状況である。
町の人間は基本『壁』に近づかない。
故意の損傷は重罪だし、区境に近いこの場所に用があるのは魔導士か軍部の人間がほとんどだ。
物盗りにしたって人が通らなければ、商売にならないだろう。
わざわざ人気の無い場所を選ぶ理由が碌なものでないのは明白で。
万一に備え、リントはウエストポーチから1枚の魔法板を取り出し魔力を通した。
支給された魔法板のひとつで捕縛用の陣が刻んである。
飛距離は短いが、魔力消費が少ないうえに、伸縮可能な網型で使い勝手がいい。
板を手にしたリントは、足早に進む。
先ほどから外套が風に靡くばかりで、動く気配が無いのが気にかかっていた。
―まさか、死んでないよね…?
自分の心臓の音が煩いほどに耳の中で反響する。
死んだ人間を見るのは初めてじゃない。だからと言って慣れるわけでもない。
「後ろ、がら空きだぞ」
「!」
突然、耳元に落とされた声。
先に間合いを取るべき場面で振り返ることを選んだのは、その声の主を知っていたからだった。
「ノエル!?」
「周りもよく見ろ。相手が1人とは限らねーんだから」
呆れの混じった説教と同時に、こつん、と頭に硬いものが触れる。
何かわからぬまま手を伸ばして受け取ったそれは、数秒前までリントが握っていたはずの魔法板だった。
「いつの間に…」
「むしろ、気づかない方がおかしい」
「そんなこと言われても…」
リントの拗ねた口調に、ノエルは苦笑いしただけだ。
言ってみたものの、ノエル自身リントに出来るとは思っていないのだろう。
ノエルもユールも軍部の人達も、何かしら武術を修めている人間というのは、他人が自分の間合いに入ってくると察知できるのだそうだ。
戦いとは無縁だったリントには、その感覚がよくわからない。
そして、誰に聞いても『鍛錬すればそのうち出来るようになる』としか言わない。
リントとしては、もう少し言葉の補足が欲しい所だが、こういうのは体で覚えるしかないという。
力を持て余しているだけの自分の不甲斐なさから手元の魔法板をぎゅっと握りしめたリントは、そこでようやくここへ来た目的を思い出した。
「じゃぁ、あれってもしかして」
「俺が置いた」
「えぇ―…」
人だと思っていたのは、ノエルが魔法でそれらしく見せていただけだという。
遠目とはいえ、見抜けなかった自分に嫌気が増す。
「『えー』じゃねーよ。なんで結界張らなかった。基本だろ」
「それ、は」
ノエルの正論に、つい言葉が詰まった。
リントだって、結界を張るのが最善だとわかっている。
ただ、結界は魔力消費が激しいのだ。
今朝回復薬を飲んだといっても、リントの魔力が充足したわけけではない。
魔力値のように計測器がないので正確にはわからないが、ここ数日の体感からいうと、1本で普段の6割といったところだ。
日々の業務をそつなくこなす為には十分な量。
しかし、既に『壁』に使った状態で結界を張れば、確実に途中で切れる。
そのうえ、2本目の回復薬に手をつけるには規定の服用間隔を満たしていなかった。
結果、最善と思っての選択だったのだが、これを素直に話してしまうと回復薬の話まで説明しなくてはいけなくなる。
ノエルがユールに黙っていてくれる保証もない中、どう言い繕うかを必死に考えていると、ふとある事に気がついた。
「ノエル、魔法陣読めるようになったの?」
「あ?…ああ。けど、板に描くのは難しいな。一番簡単なやつでも半日かかった」
奪った魔法板が捕縛用だと気づいての問いかけだと気づいたノエルが、何の感慨もなく答えた。
「……」
「…なんだよ」
じっと見つめてくるリントに、ノエルが焦れて先を促す。
「いや、頭の中どうなってるのかなって」
「バカにしてんのか」
「違うよ!感服してたのっ」
顔を顰めたノエルに、リントは慌てて補足をはじめた。
彼に魔導書を貸してからまだ半月と経っていないのだ。
学生だって基礎の習得だけで数か月かかるというのに、仕事の合間に読んだだけで描けるようになるなんて。
飛び級したと言っても、出自の差くらいに思っていたが、それだけではなかったらしい。
如何に凄いのかを本人に事細かに説明したら、返ってきたのは『そーかよ』と興味なさそうな返事だったのに、頬にはほんのり赤みがさしているのが見えて、リントの顔がつられて緩む。
初めてノエルの年下らしいところを見た気がして微笑ましかっただけなのだが、じろりと睨まれたので慌てて顔を整えた。
小言でも言われるかと身構えていたのに、何故か手を差し出される。
「手、貸せ」
「手?」
「ほら」
せかすように先端がひらひらと揺れる。
疑問を持たなかったわけではないが、話しが逸れた事にほっとしていたこともあり、深く考えもせず指先をその手に乗せた。
自分とは明らかに違う男らしい手が、リントの肌を滑り掌を包み込む。
「ちょっ」
慌てて引き抜こうとするも、きつく握られて離せない。
抗議しようと手元から視線を上げたリントだったが、その言葉が続くことはなかった。
目の前のノエルの纏う空気が、先ほどまでと明らかに違っていた。
人を寄せ付けない静謐さが、彼を守るかのように取り囲んでいる。
リントの知っている結界とは明らかに異質だが、魔力を感じるということは、魔法なのだろう。
目を伏せ、いつになく集中しているノエルは、知らない人みたいだった。
わずかに開いた唇から聞き覚えのない言葉が漏れ聞こえてくる。
抑揚のある音が異国情緒を醸し出していて、雰囲気に呑まれている自分に気がついたのは、音が止んだ後しばらく経ってからだった。
ゆっくりと瞼を上げたノエルと視線が絡む。
口の端を上げ形作った笑みをみたとたん、肌がざわりとした。
この表情は前にも見たことがある。
走馬灯のように記憶が脳内を駆け巡り、行きついた先は初めて会った時。
そうだ、魔鳥を撃退したときもこんな表情をしていた。
挑むことを楽しんでいる、酷く好戦的な―。
「耐えろよ」
何に、なんて問う間もなく、重なり合う手が光を纏った。
中心にちりりと僅かな痛みと熱を感じた直後、ぐっと押し込まれる感覚がリントを襲う。
「う゛、ぁ」
内側を無理矢理広げ押し入ってくる圧迫感に、知らず低い声が漏れた。
辿られた場所が熱を持ち、身体を覆いつくしていく。
足の震えに気づいたノエルが、腰を引き寄せ支えてくれた。
「力抜け。抵抗されるとうまく混ざらない」
「な…に、し」
「魔力、足りないんだろ」
当然のように返された言葉に、リントの目が丸くなる。
なぜ知っているのかとか、魔力って与えられるんだとか、今どういう状況なのかとか、聞きたいことは山ほどあるのに、頭がぼぉっとしてうまくまとまらない。
「呼吸しろ。ゆっくり…そうだ」
言われるがままたどたどしく繰り返すと、内側で主張していた異物が熱と共にじわりと溶けていくのを感じた。
「終わったぞ…っと、」
時間にして数分。けれど、リントにとってはとてつもなく長い時間だった。
ノエルの手から光が消えると同時に、身体の自由も戻ったが、未だ残る火照りと倦怠感が動くことを拒否している。
「回復薬と違って副作用はないから心配すんな。少し休めば熱も引く」
正直、副作用で昏倒する方がよほど楽だと思ったが、今は言葉を発する事すら億劫で。
彼の言う通りなら、頭がはっきりしてから色々聞けばいい。
リントは全てを放棄し、目を閉じた。
くたりとしたリントを抱きかかえたまま、ノエルはゆっくりとその場に腰を下ろした。
「流石に疲れたな…」
聖属性があるといっても、大した値でない自分には技の行使だけで結構な負担がかかる。
風属性なら必要のない詠唱を延々と諳んじたのも、それを補うためだった。
数年ぶりに使った割に上手くいったとは思うが、予想以上にリントの魔力が少なくて、半分以上持っていかれたのは正直痛い。
毎日与えればしばらく誤魔化せると思っていたのに、この分だと自分の方が2日に1度が限界だった。
―やっぱ、早めに実物確認しねーと。
本人の口から聞かないことには断定できないが、ユールから聞いた魔法陣が関わっているのは十中八九間違いないだろう。
自分の技量でも魔法陣の確認は可能なはず。
ただ、それを解除できるかは別の話だ。
魔法陣に関して知識の足りない自分と、駆け出しのリントだけで出来るだろうか。
重いため息とともに視線を落とすと、足を折り曲げノエルの肩口に突っ伏したまま眠っているリントの姿が目に入った。
どうにも体勢が辛そうだったので、横向きに抱え直す。
顔に掛かった髪をそっと除けてやると、頬には未だ赤みが残っていた。
そろそろ落ち着いてもいい頃合いなのだが、慣れない自分が行使したから時間がかかっているのだろうか。
気休めくらいにはなるかと、身体の周りに風の流れを作ってやると、幾分表情が柔らかくなった気がした。
自らの腕の中、無意識にふりまかれる色香に、ユールに見られたら絞め殺されそうだな、と思ったら笑えてきて。
振り仰いだ空は、抜けるように青く、澄み渡っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
いつの間にか4月…。更新遅くてすみません。