40.帰り道とこれから
「ふぅ…」
ようやく全てが終わったリントは、息を吐いて集中を散らした後、くぅっと伸びをした。
無心に解読を進めていたので、身体がすっかり固まっている。
時計を見ると、短針の指す数字が始めた頃より2つ進んでいた。
思った以上に時間が過ぎていたらしい。
ユールはどうしているだろうかとくるりと後ろを振り返ると、ソファに腰掛け薬草を選別している彼の姿が目に入る。
伏し目がちになっているせいか、睫毛の長さが際立っていた。
真剣な横顔に、的確に仕分けていく長い指。
確認してもらわないといけないのに、リントは声をかけることも忘れてつい見入ってしまう。
綺麗な人ってどこをとっても美しく出来ているんだろうかと下らない事を考えてしまった。
顔も良くて、頭も切れて、仕事も出来る上に、人当りも良い。
欠点を探す方が難しいくらいの人間が、魔法しか取り柄の無い自分を好きとか、何かの間違いではないかと今でも思う。
それでも、あの日切々と語るユールの態度は真摯という他無く。
リントは額の上に掛かる前髪にそっと触れた。
いつまで経っても、感触が消えない。
他に考えなくてはいけない事などいくらでもあるというのに、頭の中は先日の帰り道の情景一色に染まっていった。
・・・・・・
蹄が硬い地面を蹴る高い音と、車輪の低い音が不揃いな規則正しさで耳に届く。
ユールからの思わぬ告白を受けた後、何とも言えぬ複雑な気持ちを抱えたまま家まで送ってもらう事となったリントは、彼と共に馬車の中にいた。
手元には昨日のクラッチバッグがひとつだけ。
洗濯に出した服がまだ戻らず、荷物は明日仕事から帰る頃に家まで届けると言われた為だ。
すっかり眠ってしまったアンバーも置いていくことになった。
こちらの家の方が、ユールが仕事の間もひとりきりにならないうえに、広いし、構ってくれる人もたくさんいるので居心地がいいらしい。
どちらにせよ明後日ユールは休日なので、主とは明日の夜までの短い別れでしかない。
私有だという馬車は、昨夜の煌びやかな4人乗りと違い、2人乗りのシンプルなものだった。
横並びの座席は、距離が近くとも対面よりは目が合いにくい。
ユールの視線が自分に向けられているのは痛いほど伝わっていたが、答えが出せない今、その視線を真正面から受け止める気概がリントには無く。
申し訳ないとは思いつつも、体をぴたりと窓際へ寄せ、終始見たくもない景色をぼんやりと眺めていた。
そんなリントを慮ってか、ユールも声をかけることはなく、静かに見つめているだけだった。
ただ、屋敷を出た時は不安気に揺れていた瞳が、途中、リントが無意識に腕輪を撫でている姿を見てからは安堵の表情へ、到着する頃には何か決意した顔へと変わっていたのだが、自分の感情の整理で目一杯のリントは何ひとつ気づくことはなかった。
閑静な住宅街を抜けた後、都市の中心部へ近づくにつれ、街灯も人も増えていく。
夜の街独特の煌びやかさを見つめながら、昨夜は自分もこの中にいたのだと思うと、不思議な感じがした。
そんな賑やかな光景も、脇道に入ればあっという間に静寂に飲み込まれてしまう。
しばらくすると見慣れた建物が視界に入り、沈黙からの解放が近いと分かってリントは胸を撫でおろした。
家の前に到着すると、ユールが先に降り、乗った時と同じように手を差し伸べてくる。
お礼とともに馬車から降りたところで、離れるはずの手がきゅっと握られた。
戸惑うリントをよそに、ユールは名残惜し気に繋がれた手を指先でなぞる。
今までと違う明確な意図を持った触れ方に、リントは身体が熱を持っていくのを止められなかった。
恥ずかしいのに、振りほどけない。
もっと触れて欲しいと願っている自分がそこにはいて。
馬車と街灯の灯りで、自分の顔が赤くなっているのはユールにも見えている。
多分、自分の浅はかな思いなど筒抜けだろう。
この間から、自分の思考がなんだかおかしい。
『触れたい』とか『触れて欲しい』とか、ユールに会うまで考えたこともなかったのに。
好きだと口に出せない欲求を、触れ合う事で補おうとでもしているのだろうか。
指先から体中へ広がっていく痺れるような感覚に、これ以上はまずいと手を引こうとした時、リントより少しだけ早くユールが手を離した。
ほっとしたのも束の間、『おやすみ』の言葉と共に、額の辺りに何かが触れる。
それが彼の唇だと理解したとたん、リントはぽふんと音が聞こえるほど、顔中真っ赤になってしまった。
「っ。おやすみなさいっ」
失礼なのは承知だが、リントは捨て台詞のように言い放つとくるりと踵を返し、一目散に玄関へと向かった。
振り返ることなく扉を閉め、自室のある3階まで一気に駆け上がる。
部屋に入ったとたん、リントは額を抑え、ドアを背にずるずるとその場に座り込んだ。
ただの挨拶のキスだ。
家族や親しい友人と交わす頬ですらない。
親が小さな子供にするような、額へのキス。
それでも、今まで数えきれないほど送ってもらった中で一度もしてきたことなど無かったのに。
「あんなの、ずるい」
仕事に支障はきたさないと言ったユールの言葉は嘘ではないだろう。
だからと言って、今までと全く同じではいられないのだと、あのキスが訴えているようにリントには思えてならなかった。
・・・・・・
「終わった?」
じっと見つめすぎていたらしい。
声をかける前に、視線に気がついたユールがこちらを振り返った。
「はい。添削お願いしてもいいですか」
「わかった」
先程の情景が頭に残っているせいか、ソファから立ち上がり、リントの方へと向かってくるユールから目が離せない。
「今日は、どうしたの?」
「え?」
「なんか、いつもより視線が熱いな―って」
冗談めかした言い方だったが、言い当てられてしまったリントは居心地が悪くなり、ついと視線を逸らした。
「手際がいいなって感心してただけですよ」
「なんだ。ちょっとは俺の事好きになってきたかと思ったのに」
『残念』といいながら、大してそうとも思っていない口調でユールが返事をした。
告白の後、ひとつだけ変わった事。
それはユールがリントへの好意を隠さなくなったことだ。
流石に他の人間がいる時は自重しているようだが、普段から褒める頻度が高い彼なのに、2人の時は控えめに言っても今までの5割増し。
表情まで甘くて、こちらを見つめる目が疎い自分でもわかる程愛情に満ちているものだから、受ける権利を持たない自分はどうしたらいいのかわからなくなる。
一度、あまりにこそばゆくて『あんまり言うと、重みが無くなりません?』と言ったら、『言わないと意識してくれないし。そのうち絆されて好きになってくれるかもしれないでしょ』と笑顔で返された。
『既に好きなので、意味がないです』と、物凄く言いたくなってしまった。
ちなみに、予定通り送られてきた荷物には、自分の服の他にドレスや寝間着、化粧水等あの日使ったものが全て収められており、ご丁寧に赤いストックの花が添えられていた。
お礼は伝えたものの、お返しは贈っていない。
花が添えられてる以上、下手にお返しを送って告白の返事と受け取られたら困るからだ。
ユールもそれをわかったうえで、リントが余計な気を遣わなくていいように、わざと添えたのだろう。
別に張り合っているわけではないのだが、してやられた感があってなんだか悔しい。
ストックの花言葉はいくつかある。
一般的なものは『求愛』『永遠の美』『愛情の絆』といったところか。
赤色限定で『私を信じて』というのもある。
贈る意味を誤解されないよう、カードに一筆認める通例をユールがしなかったのは、どれも当てはまるという事なのか、それともこちらに選ばせるつもりなのか。
この手の駆け引きが苦手なリントには、ユールの真意など理解できるわけもなく。
小ぶりの花束を手にしばらく考えてみたが、早々に諦め、丁寧に巻かれたリボンを解いて家に唯一あったシンプルな細長い花瓶に移し替えると、軽やかに揺れる花びらと甘い香りを素直に楽しむことにした。
そんな状況なので、リントもなるべく早く返事を、とは思っている。
できれば断りたくない。
けれど、付き合うのであれば、イーガン先生の事はどうしてもはっきりさせておきたかった。
魔導士の世界はとても狭い。
リントが魔導士庁を辞めれば話題に上るのは目に見えているし、あることないこと噂されるだろう。
実家は都市から離れた一般家庭だ。
縁を切ってしまえば問題ないだろうが、自分が消えた後も魔導士を続けるユールはそうはいかない。
今自分が抱いている懸念を正直に話せば、ユールはきっと『関係ない』と言うだろう。
前回倒れたことを考えると、むしろ忘れるように諭されるかもしれない。
それに、自惚れかもしれないが、事実が最悪の結果だったとしても、ユールは自分を見限ることはない気がする。
自分が隣にいることで、彼の将来に影を落としてしまったら。
それが何より怖いのに、ユールの気持ちを無下にして傷つけたくないとも思うし、離れたくないと願う自分の気持ちも振り切れない。
表に出さないよう努めていたが、最善がわからなくなってしまったリントは、ひとり悩み続けていた。