娼館の歌姫 (7)藍色の衣の美女
今回、残酷描写有ります。
もし通りかかった旅人や村人がいれば、森の奥の泉から流れる美しい歌声を聞く事ができたであろう。だが、客はラルフだけであった。
(言動はアレだけど、この歌声は本当に素晴らしい。一人で聞けるなんて贅沢な気分だなぁ……)
火を起こし、食事の準備をしながらも、時々手を止めて聞き惚れてしまう。
平和な気分で過ごす中、希代の歌い手も、凡愚な聴客も忍び寄る危険にはまだ気づいていなかった――――。
不意に歌が途切れ、リィネシアは一点を見つめる。ラルフがそちらに目を向けると、胸元が大きく開いた藍色の長い衣を纏う妖艶な美女が立っていた。衣は女の身体の線を優美に見せる。女の瞳は漆黒の闇を思わせ髪も黒く、うなじを見せるように緩やかに結いあげられていた。
「あら、止めなくて良かったのに――まぁ、いいわ、これからは私が飼ってあげましょう、かわいい小鳥さん。そして歌えなくなったらその首捻って殺してあげる」
楽しげに笑いながら恐ろしい台詞を吐く紫の唇。その纏っている禍々しい空気は明らかに異形の存在。魔族や妖魔と呼ばれる者であった。
気ままで気紛れ、場合によっては野の花を手折るように人間の首を捻るような真似をする種族。
「まずいな……」リィネシアは女から目を離さずに、呟いた。
「え?」
「今の俺じゃ魔力をほとんど使えないし、対魔族との戦いには向かない。ラルフ、お前は?」
「同じく……」絶望的な状況にラルフの言葉も歯切れが悪い。
「使えない従者だな」
リィネシアの容赦無い台詞に、ラルフはぐっと詰まるが、彼女の前に出る。
「おい!?」
「――せめて楯にはなれます。どうせ死にませんから。その間に貴女は逃げて下さい、姫様」
ラルフは口角を皮肉気に片端だけ上げる。リィネシアは不服そうに「従者を置いていけるか。後『姫様』って呼ぶのやめろ」と呟いた。
「そんな事を言ってる場合じゃないでしょう? 私は大丈夫ですから」
「話し合いは終わったかしら? でも、お前はいらないわ。薄汚い男には興味無いの」
女は禍々しく笑う。そして長く延びた爪でもう片方の手の甲を掻いた。
「地に潜む者達よ。我が眷属となりて、我が敵を倒せ」
滴り落ちる血液は大地に染み、異形を召喚した。滑る黒っぽい茶色の甲殻、蟷螂のもたげる鎌に似た兇器、無機質な光を宿した単眼を取り巻く無数の複眼、口と思しき器官は左右からとげのついた獲物を噛み砕くための牙が見てとれた。それは『蟲』としか呼びようが無い、土の中にいた昆虫が魔族の血で異形に変えられたもの。人の身の丈ほどもあるその蟲達は数十匹はいる。
「奇遇ですね。私も装飾過多で悪趣味な女性は好みじゃないんですよ」
ラルフは嘲笑い、あえて魔族の女を挑発する。
(標的が自分に向けば少しは時間が稼げる――その間に……)何度引き裂かれようが、ラルフの不死身の肉体が滅する事は無い。
(それにこの程度で死ねるなら――いや、この歌姫を逃す事が出来るなら――数回挽肉にされるのも、そう悪いものじゃない)そこにあるのは無意味では無く、有意義なのかも知れない。かなりの激痛を伴う有意義ではあるがと、彼は苦笑いした。
「そう? それは良かったわ。お前の相手はその子達がしてくれるから、安心なさい」
女が優美に横手を切ると、それを合図におあずけを喰らっていた蟲達はラルフ目がけ一斉に襲いかかった。
「くっ――!」さすがに抜けない剣で、一人戦うには敵の数が多すぎる。致命傷は避けているが、ラルフの体には少しずつ傷が増えていく。ラルフの焦燥と疲労が募っていく中、蟲達の囲みの一方が崩れた。囲みを破って現れたのはリィネシア、彼女の道筋には十数体の切断された蟲の死骸が転がっている。
「どうやら俺は蟲共の標的じゃないらしい。ラルフ、背中は守ってやるから、目の前の敵に専念しろ」そう言うとリィネシアは、細身のナイフで的確に蟲達を解体していく。確かにリィネシアの読み通り、彼女に対しては蟲達も一切の攻撃を仕掛けてこない。魔族の女はラルフのみを攻撃するよう、蟲共に指示しているようだ。
「逃げろとあれほどっ!――」
「空間を渡る魔族からどこへ逃げろと言うんだ? 俺が逃げ込めば奴は街まで追って来るさ」
過去一度、遭遇しただけのラルフは知らなかった魔族の特性――それは空間を渡る事。いくら足が速く素早い動きのリィネシアでも、逃げ切る事は不可能と判断したのだろう。そして蟲達の硬い甲殻も継ぎ目や隙間は弱い、そこを狙えば意外と脆いこの異形の弱点も見切った彼女。
(この人は――どれだけ修羅場慣れしてるんだ?)
この状況に、この冷静さ、判断力――正直ラルフは内心で舌を巻いた。
「そうよ、私達から人間ごときが逃げ切れる訳が無いの。小鳥の判断は正しいわね。でも、せっかくのかわいい小鳥が汚れるのは嫌だわ。おいたが過ぎるようだし、お前は私が躾けてあげる」
そう言って魔族の女は術式の詠唱を始めた。
「だが、すまん。そう助太刀もしてられないようだ。あの女、今度は俺を狙っている」
「せめて火中に入らず、こっそり逃げると言う選択肢は貴女には無いのかっ!?」
無謀な主を怒鳴りつつ、ラルフも蟲の数を減らしていく。最悪の状況は変わらないが、せめて敵は少ない方が良い。
「とび色の瞳をした幼き者よ。我、汝束縛せん。陽光の下、今は姿隠す月よ。その光、姿を変え、我が望む者に幾多の銀の戒めを与えよ」
女の毒々しい紫の唇から呪詛の言葉が紡がれ、放たれる。その途端に女の広げた指先からは銀色の光の粒子が五本の線状になり、リィネシアの方へと伸びて行った。月の加護を受ける魔族ならではの術式である。
背筋を這う悪寒に、リィネシアは跳躍し蟲の頭部を踏みつけ逃れる。そして追いつく銀の粒子をナイフで弾くが、それは軌道を変えリィネシアを捕らえた。光は細い銀の鎖に変化し、彼女は首と両手、両足を束縛される。
「姫様っ!」ラルフは叫ぶが、周りの蟲達に阻まれてリィネシアを救出には行けない。彼は歯痒い思いで唇をきつく噛む。
「あまり汚れない内にお前を捕まえる事が出来て嬉しいわ。綺麗に飾って、皆に見せましょう。きっと羨ましがるわね、楽しみだわ。そうね、王に献上してもいい。私の宮中での覚えもめでたくなるに違いないでしょうから」
女は好き勝手な計画を延々と語りながら、捕らえたリィネシアに近づいていく。
「俗物だな」と宙に吊られながら、リィネシアは淡々と悪態をついた。
「何ですって?」
苛立たしげに声を上げ、魔族の女は歩を止めた。女を射貫くリィネシアの瞳には、一切の怯えも媚びも見当たらない。
「小鳥の歌が美しいのは自由に歌うからだ。地に在っても、空に在っても、自由だからだ。お前の鎖で繋がれてまで、俺は歌う気にはなれん。それが判らないから『お前は俗物だ』と言ったんだ。」
(この人は――)ラルフは戦いの手は止めずに、リィネシアを眺めた。四肢どころか首まで鎖に繋がれた状態でも、彼女はその誇りを失わない。
「それに――この程度の戒めなら解ける……と思う」
「って! 自信満々で『……と思う』って何ですかっ!?」
(少しでも見直した俺が馬鹿でしたよ、ええ……)
ラルフは溜息をつきながらも、蟲を減らす事に専念する。早く助けに行かないと、彼の仮の主は魔族に嬲り殺されそうだ。だが、蟲の数は多く、彼の焦燥も疲弊も募っていく。
「己、言わせておけば――」
女の紫色の唇がわなわなと震えるのを、ラルフは見た。そしてリィネシアの唇が言霊を紡ぐのも、彼は見落とさなかった。
「陽の光の下に、月はその力を失い、汝の呪いは我を戒める事叶わず。全ての銀の鎖よ、その力失い砕けよ!」
リィネシアが術式を完成させた途端に、鎖は銀色の粒子になって霧散する。
「くくっ――」
だが、女の口から洩れたのは笑い声だった。
「『鎖』は間違いか。全て解くには術式が不完全……と」
術式には言霊が宿る。相手の術式を完全に理解し、こちらも完璧に組み立てなくてはいけない。もし見落とせば命取りとなる。良く見るとリィネシアの全身は銀色の光輝く無数の糸でとっくに呪縛されていたのである。
「そう、鎖は破壊したのね。反抗的な子には躾が必要だわ。私に逆らった事、後悔させてあげる」
女は嗤う。だがその瞳には、怒りが宿っていた。
「俺の事を嬲り殺したいって目だな。貴様ら魔族の悪趣味さにだけは、反吐が出るぜ」リィネシアは片方だけ唇を上げ、女に毒を吐いた。この状態でも懲りずに魔族を煽るリィネシアの性格に、ラルフはこめかみを押さえる。
「あら、魔族に会うの初めてじゃないのね? 術式も使えるようだし……。それにしても女の子なのに口が悪いわ、いけない子」
リィネシアの言葉に引きつった笑いを浮かべる女。その女が少し指先を動かすと、纏わりついた銀糸はリィネシアの皮膚にうっすらと血を滲ませた。
「くっ――」
眉をひそめ、彼女はじわじわと増える苦痛に耐える。
「やめろ!」
「ラルフ、こいつの狙いは俺だ。もういいから逃げろ」静かに微笑んで見せるリィネシアを見て、ラルフの視界は潤む涙でぼやけていく。従者を置いていけるか、と言った彼女の凛とした横顔がなぜか彼の脳裏には浮かんでいた。
「主を見捨てて逃げる従者がどこにいるんですかっ!? 嫌ですよ、そんなみっともないっ!」
ラルフ自身も戦いに傷つき、動きが徐々に鈍くなってきていた。蟲達の容赦無い攻撃は彼の身を切り裂き、骨まで達した深手もある。いくら不死身とはいえ、彼の負傷に回復が追いつかない。だが、そんな己を奮い立たせるように彼は叫んだ。
(死にたい俺が逃げ延びて、生きたい貴女が死んで何になる!?)
そこにあるのは突然降って湧いた災厄に対する憤り。そして忠義心など欠片も無い従者さえ、部下だと言い張り守ろうとする少女の気高さに対する敬服。
「そう――お前達、愛し合っているのね?」
『それは無い!!』
そんな二人の様子を見つめ愉快そうに笑う女の言葉に、速効入る二人の強い否定。しかし女は耳を貸さず、リィネシアの腹にその長い爪を当てた。
「飼ってあげようと思ったけど、気が変わったわ。お前、そこで見てなさい。この小鳥が引き裂かれるのを」
「あっ――――あぁぁぁぁぁぁっ!!!」
ずぶずぶと嫌な音を立てながら、リィネシアの腹部に女の爪が埋まって行く。その深さ、動きから臓腑を撫でまわる感触もラルフには想像できた。
「やめろ! 頼むからやめてくれっ! 殺すなら俺を殺せばいいっ――」
ラルフの必死の願いを、女はただ黙って嗤うのみ。だが、そんな中でも戦況を悲観せず、諦めない者がいた。
「――我に禍成す者。我、汝に煉獄を与えん。焔よ、リィネシア・ガルアードの名において命ずる。我が身贄とし、我が敵を屠れ。イグニス!」
苛む激痛の中、女に気付かれないよう低く囁くリィネシアの詠唱は終わっていた。それは魔剣という媒介を持たぬ者の、己の身を贄とする禁呪。
彼女の右腕から出現した焔は、とぐろを巻いた大蛇に姿を象る。そしてリィネシアの右腕を焼き炭化させながらも、牙を剥き女に向かった。幼女の激痛を想像して、思わずラルフは顔を背ける。だがリィネシア自身はきつく唇を噛みしめ、一切声は漏らさない。
「ぎぃやぁぁぁぁっ!!!――――」
焔の大蛇の顎が襲うと同時に女は悲鳴を上げ、辺りには髪や肉を焼く臭気が満ちた。咄嗟に女は腕で庇ったようだが、その腕は完全に消し炭となり、崩れ落ちていく。そして女の顔半分は焼けただれ髪は縮れていた。
「お、己、もう許さぬ! お前の身など千千に引き裂き、肉片まで踏みつけ汚してくれよう――いっそ殺してくれと泣きわめくほどの責め苦を与えてくれるわっ!」
悪鬼と化した女の形相にも臆さず、小さな歌姫は諦観の笑みを浮かべ呟いた。
「何て言うか、腕一本と引き換えにする大技だったんだけどな……」
「姫様っ!」
諦めるな、諦めないでくれという祈りを籠め、ラルフは剣を振い続ける。だがまだ蟲の数は十三体も残っていた。
長くかかってしまいました。
加筆多くて長すぎて……。
またクドイ描写でうんざり気味でしょうが、お付き合い頂けましたら幸いでございます。
文中で出た「イグニス」という言葉は炎を表すラテン語でして。完全オリジナル言語を創る事の出来ないへっぽこダークファンタジー書きですね。