ナイショの話 其の五
最悪の出会いから、数週間後。
ありえない程の不調を抱え、高校受験当日を迎えてしまいました。
朝から原因不明の偏頭痛が、私を襲ったのです。神経に雷が走るような強烈な痛みで、起きあがるのもやっとです。緊張のためかストレスのためかわかりませんでしたが、休むわけにもいかず、この爆弾と戦う決意を固めました。
「辛かったら遠慮なく試験官に申し出るように。これ、お守りです。幸運を祈ります」
嘉一郎君はよそよそしい態度で私を送り出します。涙を禁じ得ませんでしたが、自業自得でもあります。
彼の怒りの原因は一つです。数週間前、見知らぬ男の子と夜遅くまでゲームをしたことを、帰ったその日に包み隠さず話しました。
てっきり私の味方になってくれると思っていましたが、彼は私を鋭い語調で攻めたのでした。
君は何を考えている。結婚前の娘がそんなふしだらな行動をするなんて信じられないとか。
今思い返すと、彼が単にヤキモチを焼いていただけなんですが、私は一言も言い返せず、多分一晩中泣いたと思います。
とにかく嘉一郎君が初めて怒りの感情を露わにしたので、戸惑いがありました。ああ、ますます嫌われてしまった。これは何としても受験に合格して心証を回復しなくてはならないと焦っていました。
その焦りが偏頭痛を引き起こしたのかわかりませんが、私はままならない自分の体を引きずるようにして、目的地のO女学院に向かいました。
時期は二月上旬。寒さは堪えますが、頭痛がひどすぎてそれどころではありません。電柱に掴まりながら駅までつきました。
嘉一郎君、学校まで送ってくれればいいのに。そんなに私は悪いことをしたのでしょうか。
電車の揺れで頭が割れそうでしたが、どうにかこうにか高校最寄りの駅に着きました。
そこからはバスで移動し、さらに頭痛はひどくなりましたが、試験時間には間に合いました。
校舎の雰囲気がどうかとか探る余裕も、試験に対する心構えも吹き飛んでしまい、これは終わったなとやる前からあきらめました。
試験用紙に書いた自分の名前が歪んで見えます。数学の公式が思い出せない。嘉一郎君に習ったはずなのに、悔しいけど、顔を上げていられない。
試験時間の半分以上は、机に突っ伏してたと思います。試験が早く終わりますようにと、歯を食いしばって耐えました。
数学の試験が終わると、早々とトイレに向かいます。トイレは混むので早めに行くことを勧められていました。
とりあえず一人になれる場所ならどこでも良かったのです。
教室のすぐ側にある女子トイレは既に大混雑していました。
あにはからんや、私は意外な人達の姿を見つけたのです。
私の親友、アイコとマイが列に並んでいました。見間違いようもありません。私と同じ、東二中の芋臭い制服を着ていたんですから。
アイコは髪を茶色に染め、パーマかけてたから目立ってたし、マイはア○レちゃんみたいな馬鹿でかい眼鏡をかけ、髪はツインテール、どっちも誰に見せてんだか知らないけど短いスカート履いてましたね。
指摘されるまでもなく芋臭え。これが二中クオリティー。外国に行って自国の特徴に気づくように、他校の生徒に囲まれてはっきり自覚したのです。
私は気づかれないように、二人の少し後ろに並びました。
「マイー、試験どうだった。あたし結構いける気がするんだよね。ヤマが当たったって感じ」
アイコが廊下の端から端まで届くような品のない大声で話始めました。
「えー、マジですか。さすがアイコちゃん。ウチ、絶対無理。完全にキャパ超えてますわ」
マイの言葉を真に受けてはいけません。こいつが謙遜する時は裏があります。勉強してないって吹聴してるくせに、平均点を下回ったことがない抜け目のない奴なのです。
「それにしてもさあ、陽菜と行こうって言ってたあの高校、どうする?」
私は耳をそばだてます。二人が私に黙ってこの学校の試験を受けている理由が知りたかったのです。
「ちょっと遠いよね。交通費もかさむし、うーん……」
後ろから殴りつけようかと思いましたけど、二人に内緒で受験しているのは私も同じですから、ぐっと堪えました。
「ここ記念受験のつもりだったけど、マジで受かったらどうしようかー」
浮かれているアイコに心底腹が立ちます。もう頭痛も試験もどうでもよくて、私はこけにされてる道化のような気がしてきました。
それを救ってくれたのは、マイの言葉でした。
「陽菜ちゃんいないからウチ、ここ受かっても多分入学しない。私立だから学費高いし。アイコちゃんは?」
アイコは少し間を起きましたが、ばつが悪そうに言います。
「抜け駆けみたいで気分わるいしね。どうせ数学以外自信ないし。陽菜も誘えば良かったんだ。やっぱ三人一緒であの高校に行くかー」
女の友情は薄っぺらいと言いますが、この二人の友情は本物だと思いました。
私は自分が恥ずかしくなりました。個人的な色恋のために二人を裏切ろうとしていたんですから。友達面して自己満足に浸ってたのは私の方だったようです。頭痛はその罰なのかもしれません。
私はそっと列を離れ、自分の席に戻りました。
二
中学の卒業式は絶対泣くよと、先輩に力説されていましたが、私には当てはまらなかったみたいです。
証書をもらう時も特に感慨が湧きません。どうせアイコたちと同じ高校に通うことになるのだから、あまり寂しくなかったのでしょうね。
結局三人とも仲良くO女学院の試験に落ちたため、別の高校に行くことになったのです。それが私立丸岡高校でした。公立も落ちちゃったんです、私たち。滑り止めの滑り止めみたいな所にようやくひっかかったのでひやひやしました。
お父さんは私の努力を表向きは認め、責めるようなことは言いませんでしたが、嘉一郎君は肩身の狭い思いをしていたんじゃないでしょうか。
当然、ネズミの国へ行く計画は闇に葬り去られました。そして、嘉一郎君は二月の終わりに西野家を出ていきました。
「何かあったら連絡してきてください。僕でよかったら相談に乗りますよ」
彼は責任を感じていたのか受験が終わってからもよそよそしく挨拶して私から離れていきました。
連絡先を教えてくれましたが、いつ電話しても留守番電話で一度も繋がりません。
彼の次の就職先は大学の講師に決まっていたらしいです。お父さんの口利きかもしれませんが私には、預かり知らぬことです。
私も私で新生活の準備にてんやわんやでしたから、彼のことは一端脇に置きました。
アイコやマイは高校生活に期待を膨らませているようでしたが、私は慣れない環境に不安が大きかった。
かねてから予定していた髪を切り、ショートにしたのも変わっていく環境に抵抗するような心持ちでした。
私は元々ショートの方が好きなんですが、母親に似ていると言われるのが嫌で無理に伸ばしていたんです。
ここでちょっと母親の話をしておきましょう。
私の母は心の病気で長期入院していて、家にはほとんど帰ってきません。
唯一帰ってくるのが、私の姉の命日と私の誕生日。偶然ですが、私の誕生日と姉の命日は一日違いなんです。
年に二日間だけは、母は家で過ごします。
籐椅子に座って、窓辺で編み物をしている姿を、私は物陰からよく見ていました。
母がうつむくと猫みたいにくりくりした両目に、切りそろえた前髪がかかって、少しうっとおしそうでした。京都から取り寄せた友禅を着るのが好きで、上品な若奥様というよりは、まだ娘さんといったような頼りなさです。
目が合うと、手招きをして一緒にあやとりをして遊びました。
幼い私は、年に二日現れる、このきれいな女性は誰なんだろうと疑問に思っていましたが、本人に訊ねることは何となくできません。実はおばけだと疑っていたのです。
初めて私が彼女の正体を知らされたのは確か十歳の誕生日だったと思います。
朝からお手伝いさんが、慌ただしく料理の準備をしてくれて、私はそれをじれったく部屋で待っていました。つい我慢できなくなり、食堂に足を運びました。
二段重ねのケーキが用意されており、私は自分がいかに恵まれているかを知らずに、悦に入ったものでした。
母は私の後から音もなくやってくると、澄ました顔でケーキの苺を一つ頬張りました。
それからクリームのついた唇に人差し指を当て、私に黙っているように合図を送ると、元来た時と同じように静かに食堂から出ていきました。
どこかお茶目なその人が母だと、その日の夜に父から聞かされました。
あの人は子供のように父の腕にしがみついて、私を感情のない瞳で見つめてくれてましたっけ。よく覚えています。
可愛いらしい人。母に抱いた感情はそれだけです。
普通なら親に抱かない感情でしょうけど、本当に可愛らしい人でした。
母との思い出はほとんどないので、このくらいにしておきましょう。