ナイショの話 其の三
一
受験まで一ヶ月を切っているのに、のろけている私は、さぞ学力の高い神童だと推察された方は鋭いです!
陽菜ちゃんは神童。それは西野家でまことしやかに囁かれる噂に過ぎませんでした。
実際の私は志望校判定はE判定を連発し、お父さんは危機感を募らせ、嘉一郎君に縋ったのでしょう。
元々彼は、私が通っていた塾の先生でしたが、お父さんにどうしてもと頼まれて家庭教師になったのです。
ですから彼との出会いは、塾の先生と生徒の関係に遡ります。
ぼそぼそと何を言ってるのかわからない人でしたけれど、女子生徒から大層人気でした。私もその一人でしたけど、まさか自分が彼と一つ屋根の下に暮らすことになろうとは、普通は考えませんよね。塾の先生を自宅に招いちゃおうなんて。個別指導の先生じゃなかったし、何故彼だったのでしょうか。お父さんはどうして彼を選んだのでしょう。娘の私の顔色を伺ってそういうことをする人じゃありませんし、やっぱり私は嘉一郎君に魅入られていたのでしょう。
嘉一郎君の欲する、亜矢子さん、でしたっけ。彼女の代わりにするために。
代わりになれたらどんなによかったでしょう。私は代わりにすらなれなかった。
だから、自分を必要としてくれる人の所に走ろうとした。ただの逃げです。逃げ恥です。その話をしましょう。
私の第一志望は、私立の女子校でしたが、当然偏差値は足りてません。制服が可愛いから入りたいという不純な動機でしたし、そもそも私は机にかじりついているのが苦手な子供なんです。
友人のアイコやマイと走り回ったり、馬鹿やったりする方が性に合ってましたから、今一つ身に入らないわけです。
「陽菜ちゃん最近頑張ってますな」
学校でマイが思わせぶりな言葉をかけてきた時、どきりとしたものです。嘉一郎君のことは話していませんでしたが、この友人はやたらと鋭いので油断なりません。
「おう! だってお前らと一緒の学校行きたいからな」
私はアイコとマイの肩を力一杯抱きしめました。
二人には、公立の高校に一緒に行こうって言っていました。でも二人の第一志望は偏差値がちょっと低くて、お父さんが承知してくれません。でも滑り止めで受けておいて、もし第一志望に落ちたら、公立に行く他ありません。私はそれを望んでいました。
でも、嘉一郎君は熱心に教えてくれているし、自分なりに今更ながら手応えみたいなものを感じていて迷いました。人生の選択、大げさかもしれませんが私は岐路に立たされていたのです。
学校が終わると、誰よりも早く中学を出て家へと急ぎます。嘉一郎君に迎えに来てもらう手もありましたが、目立ち過ぎるのも考えものです。できるだけ彼のことは秘密にしておきたかったのです。
よって、通学は電車と決まっていましたが、帰りにひどい目に遭いました。
学校から家まで二十分くらい電車で移動します。ドアの近くによりかかって英単語を覚えていました。時期が時期でしたから、必死にならざるを得ません。
異変に気づいたのは、数ページ進んだ当たりだったでしょうか。EVOLVEのページです。
お尻に何か当たっているなというのは、電車が発車してすぐ気づきました。結構混雑していたので、荷物が当たっているのだと思って気にしませんでした。
でも電車の揺れとは別の動きが、私の臀部に働いていたのを無視できなくなりました。
痴漢だ、これ。
そうは思っても、後ろを振り返る勇気は湧きません。ぐっと体が硬直し、背中を丸めていることしかできませんでした。まるで自分が人間ではなく、物か何かになったみたい。
うつむく振りをして、相手の靴を見ようとしました。革靴です。嘉一郎君とか、お父さんのを見慣れているせいで幾分やすっぽい代物だとわかりました。多分、サラリーマンでしょう。
などと冷静な思考は吹き飛んでしまい、逃げることも声も出せず、心の中で嘉一郎君に助けを求めていました。
ドアが開いて、駅に停車したので逃げるというかわけもわからず降りていました。知らない駅です。
トイレに入り、曇ったガラスに自分を映し出します。長い髪を垂らしたおばけみたいな子が恨めしそうにしています。
こんなブスに欲情するなんて、あのリーマンはどんな人生を送ってきたのだろうか。人生は不思議です。
「髪、切ろうかな」
その当時、私の周りではロングが流行っていて、背中に届くほど髪を伸ばしていました。
アイコとマイは可愛いって言ってくれるけれど、女子は面と向かって、お前ブスやなとか、どついたりできません。本心でなくともカワイーと誉めあって、お互い安心したいんです。
「お前、ブスやな」
誰も言ってくれないから、自己否定に自己否定を重ね、鏡の自分を殺します。
可愛くなりたい。そしたら堂々とポルシェに乗っていられるし、痴漢に遭うこともない。自分を慰めるにはそれしかありませんでした。
トイレを出て、折り返しの電車に乗ろうとしましたけど、またあんな目に遭うかもしれないと思うと足が竦みます。二、三本電車を見送り、途方に暮れました。
ひとまずコーヒーでも飲んで落ち着こうと自販機に近寄りますが、私の真横から滑るように自販機に立つ人が。
え? 割り込み?
だって自販機ですよ。失礼ですけど、質より量っていうか数に余裕がないわけではなさそうですし、割り込もうとする神経が理解できません。急ぎならわからなくもないですが、電車が来る気配もありませんでした。
割り込んできたのは、私と同じくらいの中学生の男の子です。背は私より低いから年下かもしれません。
アイコとマイがいれば、「どけよ! オラ!」と強気に出ますが、一人では心細い。指をくわえて見ていることしかできませんでした。
いきなり振り返られたら、それはそれでおっかないです。先ほどのこともあって男の人に恐怖心を抱くようになってしまいました。
何事もなかったようにベンチに戻り、参考書を読む振りをして、少年が去るのを待ちました。
少年が私の前を通り過ぎる時、ちらっと見上げてみました。
線が細く、ひ弱そうではありましたが、目鼻立ちはそれなりに整っており、年を重ねれば一端の男になりそうな将来性を感じます。
とはいえ、彼はどこにでもいそうな凡庸さも醸していました。人混みに紛れたらもう金輪際思い出せないような。
私にとってそれは幸いでした。嫌な奴の顔なんて一秒でも早く忘れるに越したことはありません。
少年の姿が完全に視界から消えると自販機の前に走ります。
私、甘いものが好きじゃないんです。特にクリーム系はNG。だからコーヒーはブラックと決めています。嘉一郎君は逆に甘党でした。そのことを知ったのはだいぶ後でしたけど、やはり私たちはどこかすれ違う運命だったのでしょう。
待望のコーヒーを手に入れるべく、硬貨を入れようとした手が止まります。
品切れのがランプが、うっすら点滅しています。指が震えてうっかり硬貨を落としてしまい、自販機の底に消えました。
「ちくしょう!」
自販機を叩いたら、駅員さんがやってこられて注意されました。踏んだり蹴ったりです。ふん、男なんて。
ごちゃごちゃしたアーケード街を肩を怒らせ歩きます。
中学生の私は一人で出歩く機会が極端に少なく、大抵アイコやマイが一緒でした。
それなのに駅を出て土地勘のない場所をうろうろしているのには理由があります。
さっきの自販機で割り込んだ奴を探して、復讐するためです。
よくよく考えたら、あいつはひ弱そうだったし、私は中学に上がるまで空手をやってました。憂さ晴らしをするのに打ってつけだったのです。
見つけ次第、難癖付けて路地に連れ込み、コーヒー代を回収するつもりでした。あいつがコーヒーを買ったせいで私が買えなかった証拠もないし、私がお金をなくしたのも自業自得だったけど、頭に血が上っているからどうでもよかったのです。
周りの景色が目に入らないほど血気盛んな私でしたが、ある店の前で立ち止まりました。
そこはテレビゲームを扱う小さなお店でした。店先に段ボールが置いてあって一つ百円という札がついていました。
受験が終わるまで新しいゲームは買わないと、お父さんに誓約書を書かされていましたから、こういうお店はご無沙汰でした。
つい魔が差してファミコンのカセットを漁ってしまいました。レトロゲーの発掘もゲーマーの嗜みです。
こんな時に限って、これは! という掘り出し物を見つけてしまいました。知る人ぞ知るというマイナーな作品でしたが、販売数が少なくてプレミアがついていると聞いたことがありました。しめしめと笑みを押し殺し、他にも何かないかと無心で捜索を再開しました。でもカセットを手に持たなかったのは失敗でした。横から誰かにひょいと、持ち上げられたのです。
「あ、それ」
私は抗議の声を上げました。だってそれは私が先に見つけたんだから。
カセットを持っていたのは、肩幅の狭い少年でした。あれ、こいつどこかで見たなと一瞬、記憶をたぐりましたが、すぐにさっきの割り込み野郎だとわかりました。
「早い者勝ち」
それだけ言い残すと少年は店の奥に消えました。やられた。確かに一理あります。でも納得いきません。
店の前で待ちかまえ、出てきた所を脅かそうとしました。
「おい! コラ!」
袋を持って出てきた少年の正面から腹に力を込め一喝してやります。喧嘩は先手必勝です。え? やけになれてるなって? そりゃあもう喧嘩は女子の嗜みですから。
「何だよ」
ところが彼は怯むどころか、冷めた声で突っかかってきます。
私は予定が狂い、すっかり弱気になってしまいました。
「な、何だよってこっちが言いたいよ。何で私の邪魔ばっかりするの?」
私は既に涙声になっています。悔しい。こいつも私が女だから舐めているんだ。
「知らないよ。君の邪魔したつもりはないけど。何で泣いてんの」
「泣いてない!」
弱そうなこいつに舐められるとは思いませんでした。でもどうしたらいいかわかりません。
下を向いてると、頬に熱いものが当たりました。驚いて顔を背けます。
彼が持ち上げていたのは、コーンポタージュの缶でした。
「これやるから機嫌直せよ」
いちいち上から目線なのが癪に障ります。死んでも受け取ってやるかと払いのけました。
「なあ、君、東二中?」
「何でわかるの」
「制服。芋臭いからすぐわかる」
制服だけで学校名がわかるとは、制服フェチのやばい奴だと思いました。それにしても本当に腹立たしい。確かに二中の制服はダサい。だから私は反動で私立を受験しようとしていたのです。
「もしかしてこのゲーム欲しかったとか?」
私は泣き顔を見られないように顎を懸命に引いていました。
「ゲームは渡せないけど、一緒にどう?」
「え? え?」
理解が追いつきません。こいつに主導権を握られっぱなしなのも気に食わないのに、さらにとんでもない提案をされます。
「僕の家でゲームしない? もしよかったらだけど」
どう考えても最悪の出会い。
空気の読めないこの野郎こそ寺田幸彦、その人でした。
私よりチビのこの男に、どうして惹かれちゃったんだろう。