二、宴の後(四)
「姫、この度のことどれだけお詫びしてもし足りないくらいです。せっかくここまで足を運んでくださいましたのに、なんと申し上げてよいのやら……」
「あら、先生、私ちっとも気にしてませんことよ。ならず者の一人や二人に侮辱されたくらいで、どれほどのことがありましょう」
「失礼ながら、ジーク・フリーズはならず者などではございません」
「では紳士だとでもいうの!かつて王室の第三王女であった、この私の唇を奪おうとしたあの男が!」
振り返った姫の両目には涙が溢れていた。こらえていたものが堰を切ったように流れ出し、彼女は拭おうともせず睨むような視線をワルターへ投げかけた。この穏やかな騎士はため息でもって応えた。
「誇り高い姫のことです。すぐにはあの男を許せないことでしょう。ただこれだけは言わせてください。師は、ジーク・フリーズという人物は、かつてプロメテウス銀河最強の称号を欲しいままにした伝説の剣士でした。
三年前に私闘で敗れて姿をくらまして以来、今日に至るまであの方の消息は弟子であった私ですらわかりませんでした。負けたことを恥じて、自ら命を絶ったそんな噂すら耳にしました。でも、彼は生きていました!」
ワルターの口調がいつしか熱を帯びてきた。この武術の師の異変に気づいた王女は、軽く首を傾けながらその話ぶりを眺めていた。
「そしてあの方の強さは健在でした!私の剣をかわした時の身のこなし、むろん最初はブランクの程が知れないので軽く打ちかかっていきましたが、いつしかあの方が発する殺気にも似た感覚に、私は本気にならざるを得ませんでした。
なによりも驚かされたのは、ボトルを使っての反撃!あのような妙手は、実力差が大きくなければできない芸当です。半分に断ち切られたボトルを先生に向けられた時、私は超えることのできない才能の差というものを思い知らされましたし、先生の手にかかって死ぬのもよかろうとそんなことさえ考えました」
「バカなことを!あなたは騎士として王室の近衛兵団を指揮したほどの人なのですよ。それほどの方が志を果たさぬまま、野に埋もれた者に殺されたかったなどと、間違ってもおっしゃらないでください!」
フリーズの手にかかりたかった。最後の一言が、クンドリーには神経を逆撫でされるくらい嫌であったらしい。ワルターを叱りつけたその声はジェラシーにも似た激しさがあった。
「申し訳ありません、口が過ぎました」
さりとてこのように素直に頭を下げられると、女主人としてもいつまでもヒステリックに当たり散らすわけにもいかなくなる。
「わかりました。先生がそれほどおっしゃるのでしたら、もう一度あの男にチャンスを与えましょう。明日昼の三時までにあの者をここへ呼び寄せてください。私が直々にあの男に父上、いえ国王陛下救出に協力してくれるよう頼んでみます」
「えっ、すると姫……」
「あの男とて、誠意をこめて話し合えばこちらの事情を察してくれましょう。すべては王室を守るためです」
つぶやいた姫の頬は既に乾いていた。目はまだ真っ赤にうるんでいたものの、無理にでも笑おうとその口元は歪んでいた。たまらなくなったワルターは、その足元へと土下座をしていた。
「ありがとうございます、姫様!このワルター、必ず首に縄をつけてでも師を、ジーク・フリーズを説き伏せてみせます!」
いきなり感激に浸りながらのこの行動に、クンドリーはただ困惑するしかなく、
「騎士ともあろう者がいちいち頭を下げるのはみっともないことです。それよりも伯爵たちを呼んできてくださいます。明日のことを彼らにも話したいですから」
「承知しました!只今すぐに……」
そういって立ち上がりかけたワルターは、なにを間違ったかすぐ近くのテーブルに足を引っかけどうと転んでしまった。普段ならまずあり得ないこの騎士の失態に、王女はしばし呆気に取られていたがすぐに手で口元を押えながら笑い出した。
それはその日彼女が初めて見せた屈託のない笑顔だった。
※
トゥルールトゥルールトゥルール……
呼び出し音を聞きながら、男はしきりに口の周りを撫で回した。感情を押し殺そうと努める時の彼の癖で、それでも苛立ちは隠せないのかチョッと舌打ちをした。ようやく電話がつながると咳き込むように言葉が飛び出す。
「私だ。事態は緊急を要することになった。ワルターがまたあの例の片目を引き込むつもりでいる。今夜の奴の態度からして、まず関わり合いになるまいと踏んでいたのだが、姫自らが協力を依頼してくるとなれば話は別だ。断わりようがなかろう。そこでだ、やや強引だとは思うが計画を多少変更しようと思うんだが……」
テレフォンボックスの外では多くの人たちが酔いに乗って談笑していた。とはいえ、ここは雰囲気を大切にするカクテルバーなので、場末のそれのように馬鹿騒ぎをする不粋な輩はいやしない。大抵は夫婦と思われるカップルが数組と、物憂げに一人グラスを傾ける者がその大半を占めていた。いずれにしろ、自らの世界に没入しているという点では似通っており、彼らはテレフォンボックスで話されている会話のことなど気にするわけでもない。
「……というわけだ。ワルターが帰ってくるであろう三時前には必ずそいつを頼む。その隙に姫の身柄はこちらへ移るって寸法だ。なに、食えない男だと?当たり前だ。私にしたって、タダでこんなことはしやしない。新しく国王となるマイスター公爵に少しでも御機嫌を取っておかねば。そのための手土産さ、あの姫は。では、手筈はよろしく頼むぞ。ハンス・リック隊長殿よ」
クククと下卑た笑いの後、受話器は元の位置に置かれた。交渉成立というわけだ。ボックスの中で男は何度も満足げにうなずきながら、
「さてと、では最後の子守りをするといたしますか。どちらにせよ、これで姫の落ち着き先が決まったことだからな。フッ」
よほどニヤけた顔をしていたのだろう。出る時外で待っていた総白髪の老人が、不気味そうに後ずさりした。
うるさくはないが、深まる夜と共に酔いに身を任せる者たちによって、ここのバーは次第に活気に満ちた雰囲気へと変わりつつあった。その証拠にカウンターの隅で、
「ウィ~、オイ、バーテンはどこだあ~、酒持って来い、ヒック」
飲み慣れないカクテルをあおり過ぎてヘベレケになったらしい。まだ二十代半ばと思われる男が、空のカクテルグラスをいくつも転がし眠るように顔をうつ伏してつぶやいていた。場違いな輩というのは、一人や二人必ず出るものらしい。
少し離れた所でささやき合っていたカップルが、互いに目と目で言葉を交わして立ち上がるのと同時に、バーテンのよく通った声が店内全体へと響いていった。
「お楽しみのところを申し訳ございません。お客様でゴブリン伯、ゴブリン伯爵様はいらっしゃるでしょうか」