九、風雲急:後編
噴水広場は森の公園の中心に位置する場所だ。日曜日の夕方ということもあってか、いつもなら周りを子供の群れや犬の散歩に興じる年寄り、そしてやたらとイチャつくカップルと、人通りの絶えない所なのだが片隅のベンチにいるカップル以外には誰一人としていないありさまとなっていた。考えようによってはそれは奇妙なカップルであった。本来ならなんとはなしに見つめ合い、微笑をたたえていつしか熱い抱擁と接吻を交わすのが常なのに、彼らはそれすらしなかった。ただお互いに顔をそむけて黙りこくっていた。
「ここまで来たんだ。いまさら逃げようなんて考えるなよ。わかっているな」
そしてようやく男の口から出てきたのは愛のささやきとは言い難いものだった。女のほうも負けてはいない。
「いつ撃たれるかわからぬのに、そのようなことができるはずもないでしょう。いい加減それをはずしてくださらない。生きた心地がしないわ」
彼女の背中にはゴリッと硬い物が突きつけられていた。夕映えのなかで鈍く光るその黒い物は間違いなく拳銃だった。
「病院を出てタクシーでこちらへ向かおうとした際も、何度も機会を狙っていたことをオレが知らなかったとでも思っているのか?チラチラチラチラと、人の顔色を窺っていたさまはとても高貴な身分とはいえない下劣さだったな」
サングラスに口ヒゲといった風情の男は吐き捨てるように毒づいた。一方麦わら帽子に同じくサングラスといった格好の女は、相手の嘲りにただ唇を噛み締めて耐え忍んでいた。
「しょせん王侯貴族も同じ人間に過ぎんということだな。泣いて命乞いをしたあのコウモリ伯爵がいい例だ。三番目とはいえ、曲りなりにもあんただって王女だったんだ。少しは姫様らしく堂々としてくれよ、クンドリーさんよ」
男はハンス・リック、女はそうクンドリー姫その人だった。レイプ寸前まで追い詰められた悪夢のような昨夜の一件以来、彼女のプライドはズタズタに引き裂かれていた。乙女としての操は守り通した。だが、第三王女としてこれまで裏打ちされてきた自信と気高いまでの誇りは、今や影も形もなくなろうほどに萎縮していた。
(でも、それを認めてしまったら私はこの卑劣な男に負けたことになってしまう)
いつ欲望の獣へと変わるかも知れぬ男への恐怖はあった。それでもなお彼女は、かつての自分を取り戻さんと平静を保ち沈黙を守り続けた。
ガサッガサガサ…
不意に彼らの背後の藪から、何かが蠢く音がした。覗きにしては大胆不敵すぎる。次第に近づいてくるさまに、クンドリーは生きた心地がせず思わず目をつぶった。そしてハンス・リックのほうは、何事もないかのように噴水を眺めていたがただ一言、
「パルジ」
「ファル!」
ためらいもなくそれに応えた声があった。来るべき時が来たのだと、王女は内心観念した。ハンスは逆にクククッと笑い出し、
「なかなかの演出じゃないか、〇〇三号。物陰に隠れて御登場とは元農兵上がりにふさわしいよ」
「ハハ、お褒めにあずかって光栄です。隊長殿」
パッと二人の前へと姿を現したのは、歳の頃二十代前半の男で全身黒ずくめの服装だった。
「捕縛隊で生き残ったのは、結局オレと貴様だけか。後の連中は結局、警察に捕まってブタ箱行きって始末だ。昨日の一連の事件がパルジ星人の仕業だということが知れたら、公爵側の連中も頭抱えることだろうよ。とても王位簒奪どころじゃなかろうて」
「それでも彼らはだいぶ口を堅く閉ざしているようですね。警察の取り調べは昨夜からまるで進展してないそうです」
「革命派の生き残りだからな。金だけで動く近衛兵団とは根性が違う。それでも身体に埋め込んでいるパスポートが見つかるまでが限度だな。物的証拠を突きつけられたら言い逃れはできんし。願わくはどうにか助け出してやりたいものだ」
そばにいたクンドリーは我が耳を疑った。ハンス・リックという男の意外な一面を見た気がしたからだ。この男が部下の身の上を心配している。そのこと自体が驚きを禁じ得ないからであろう。むろん、単に相手を哀れと思うだけの発言ではなかろうが、決して血の通わぬ人物ではないことだけは認識できた。
(よくわからない男だわ……)
姫が一人の男の矛盾について思い悩んでいる間、〇〇三号はぬっと顔を突き出して品定めをするように彼女を見つめた。
「なるほど、こちらがファール先王の第三王女クンドリー姫ですか。聞きしにまさる美少女ですな」
なにを食したのかは知らないが、たまらないほどの口臭を撒き散らしてくるので姫は思わず顔をそむけた。
「フッ、よせよせ、あんまりしつこくするもんじゃない。なにしろ気の強い方だから、バチーンとやられちまうぞ。なあ、姫様」
言うないなや、まるでオレの女だと言わんばかりに髪をガッと引っ張り上げるハンスであった。
「まったく可愛げのねえ女だぜ。少佐とお会いする前に、お前とこのアマを調教してみようか、なあ」
つくづく相性の悪い二人とみえる。残忍な笑みを浮かべ、右手で髪を後ろから引っ張り上げ、左手の拳銃を目の前にちらつかせる男に、負けてなるものかとクンドリーは睨みつける。見ている〇〇三号は気が気でない。
「まあまあ、こんなところではなんですから、まずはヴォルッフ少佐とお会いしましょう。この先の出口で車を停めてお待ちしていますので、続きは話し合いが終わってからでも」
とても軍人上がりとは思えないおどおどした男の取りなしでどうにか事なきを得た。ハンスのほうは相手のそんな態度はお見通しのようで、その後ろ姿を眺めながら、
「よかったな、姫さんよ。あの男がタマナシのイカレポンチのおかげで、お前さんまた助かったぜ。クククッ」
そのまま王女の髪をギュッと握り締めながら立ち上がらせていった。痛みで顔をしかめたクンドリーだが、声一つ発しようとはしない。意地であろう。つくづく可愛げのない奴と毒づきながら、ハンスは先に行く男の後ろ姿を目で追った。
夏場の夕方にしては、やけに薄暗くなりつつあった。空は真っ赤に染め上げられているものの、樹々にはさまれて夕陽は彼らのいる位置からは窺い知れなかった。それでもどうにか、足元や周りの様子は見て取れるその程度の明るさだった。何気なく視線を落としたハンス・リックは、前方を行く部下の足元近くでなにかが蠢くのを見た。地を這いずり回るそれは、男の足へとからみつこうとしていた。やがてそれはとぐろを巻いていった。
(ヘビだっ!)
直感的に悟ったハンスは銃口を定めようとした。しかし……。彼はすぐに状況のまずさに愕然とした。敵は這いずり回って焦点を定めにくい上に、この薄暗さだ。かえって刺激することになる。毒をもっているなら咬まれた〇〇三号の命はない!
「よけろ、足元だっ!」
叫んだ時は遅かった。シャーッと男の足へと蛇が飛びかかろうとしたその刹那ー。目を疑う光景が展開された。男はいともたやすく跳躍するそれをかわすが早いか、手元からキラリと光るものを失速していく蛇へと投げつけた。
グサッ
両断にされたそれは地面でなおものたうち回っていたが、〇〇三号の足がその頭を踏み潰した。
「まったく油断も隙もないな。だからヘビってえのは嫌いなんだ」
憎々しげにつぶやいた〇〇三号は、その直後に耳にした撃鉄の乾いた音にハッとした。なにゆえにか、ハンス・リックが彼に狙いを定めていたのだ。
「なんの真似です?隊長殿」
「手ェ上げろや、オイ」
「待ってくださいよ、こんな所でふざけている場合じゃ……」
「脳天ブチ抜かれたいんか、サッサと上げろやっ!」
本気だった。それはなにより髪を摑まれているクンドリーにはよくわかった。腕に力がこもり、頭からすべて抜き取られそうで思わずうめいてしまった。そして〇〇三号は、その語調の強さで相手の殺意を感じ取ったようだ。ゆっくり両手を上げていく部下を凝視しながら、ハンス・リックは決めつけるように言った。
「貴様、何者だ!」
「見ての通り、〇〇三号で……」
「違う、貴様は〇〇三号なんかじゃない!たしかに奴の反射神経ならヘビの攻撃を避けるのは訳もないだろう。だが、そこまでだ。臆病者のモルツとまで言われた男だった。現に地方で起こった農民蜂起鎮圧の際、敵前逃亡までしやがった。気の小ささにかけては筋金入りだったよ。たぶん奴だったら、地面を転げ回ってでも、ヘビから逃れようとしただろう。殺せるはずがないんだよ!」
噴水の音だげが寂しく周りを包み込んでいた。束の間の沈黙の後、口を開いた〇〇三号はまったく別人の声となっていた。
「とんだドジを踏んだものだな、私としたことが。研究不足だったことは認めよう、ハンス・リック隊長殿」
「〇〇三号は、貴様が殺したのか」
「君にも見せたかったよ。フフフ、彼の死に様を。泣きわめいただけでなく、最後には大小便まで垂れ流してのたうち回って死んでいったよ。まあ、身体の至る所を生きながら切り刻んでやったから、普通の人間だったら途中で気が狂っていたろうよ。しまいにはとうとうおかしくなったのか笑い出したもんで、眉間を撃ち抜いて成仏させてあげたよ。人間、あんな醜い死に方だけはしたくないもんだね」
「ぬかせっ!」
銃声が鳴り響いた。しかしそれは宙へ向けてだった。轟音が止まぬうちに再び撃鉄を起こしたハンス・リックは、
「貴様にも同じ目を見てもらうぜ。せいぜい命乞いをするんだなっ!」
もうその時には彼の手は王女を捕らえていなかった。両手で拳銃を握り締めると、男はまず手始めにとその足元を狙っていた。クンドリーは、姫は、逃げ出せるチャンスが出来たにも関わらず、しゃがんだまま茫然と眺めているばかりだった。二発目を発射しようと腕に力がこめられていった。
ズキューンッ……
激痛に身もだえしたのは他ならぬハンス・リック自身だった。グアッとうめきながら押さえた右手の甲からは鮮血が滴り落ちていた。
「農兵上がりが、無駄な抵抗をするなっ!」
罵声が草むらから響いてきた。ハッとなったクンドリーが視線を移してみれば、なんということかいつの間にか囲まれていた。粛々と立ち現れていたその一連の集団は実に奇妙なものだった。何故なら皆が皆七十、八十は超えていそうな年配の者ばかりであるだけでなく、その風貌にも関わらず動作は実にきびきびとしていて若々しかったのだ。
「驚いていらっしゃるようですな、王女クンドリー様。しかしこれは不思議なことではございません。その男が百面相のエビルという変装しか能のない輩を使ってワルターを殺そうとしたように、我々も今日のためにその素顔を隠してきたわけですよ。ま、それにしてもこんなに早く事が進んだのは予想外の幸運でしたがね」
〇〇三号と思われていた男が、己が顔をメリメリッと引き剥がすとそこには年の頃四十前後のチョビヒゲを生やした精悍な顔が現れた。恐らく、彼が集団のリーダーなのであろう。呼応するように整然と並んでいたその者たちも、自らの素顔をさらすため顎に手をかけていった。
そして、その下から現れた顔、顔、顔はどれも不敵といった言葉が似つかわしいくらいの面構えであり、更に古ぼけた衣装を取っ払うと灰色一色に統一された服装が一斉に露出された。どの一人とってもなかなかの強者のようで鍛え抜かれた身体で服がはち切れんばかりだ。ハンス・リックが見劣りするくらい、彼らはいかつい体格の持ち主だった。
「たかだか農兵上がりの革命派ごときに欺かれるほど、ワルハラ首相閣下は愚かではないということだよ、ハンス・リック君」
今や完全に勝ち誇った者たちを前に、ハンス・リックはただ無念そうに傷ついた右手を押さえるだけだった。しかしこの男も尋常ではない。リーダー格の相手を睨みすえながら毒づくように尋ねた。
「そうか、そういうことか!てめえらが本命だったというわけだなっ!」
ハンスの問いかけに男は薄ら笑いを浮かべていたが、すぐにうずくまる相手を睨み返しゾッとするような重々しい響きで応えた。
「自己紹介を忘れていたな。まずは私から名乗らせていただこう。元王立諜報機関部所属のドレッサー大尉だ。君の言う通り、我々三十二名が第三王女クンドリー様身柄捕獲部隊として、次期国王陛下となられるマイスター公爵様に正式任命された。高貴なる方への数々の無礼な振る舞い、万死に値すると心得よ、ハンス・リック軍曹よ!」
同時にカチャリという音と共に、男たちの抜き放った拳銃が地にうずくまるハンス・リックへと注がれていった。
もはや絶体絶命であった。




