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一、居酒屋ウインザー:後編

 「あ、イテ、ぶつかってくんなよ。気ィつけろいっ!」

 入口に近い場所で身を乗り出して笑い転げていた四十近い男が、後ろからすれ違った相手に難癖をつけた。当たったというより、肩と肩が微かに触れ合ったという些細なものに過ぎない。しかし運の悪いことに、この男既にできあがっており、さっきから近くにいた連中に絡んでは煙たがられていた存在であった。

 男の態度は、相手の容姿を一瞥したことで更に増長した。黒一色のロングシルクコートをまとったその人物は明らかに女のようで、どこか居酒屋の店先で客取りをしている娼婦のような雰囲気を醸し出していた。酔いが欲情を騒がせてきたのか、男はゴクリと唾を飲み込みつつ、

 「ヘヘヘヘヘッ、オイ、ネエちゃんよ、まだ暗くなりきらんうちから商売熱心じゃねえか。なんならオイラが一晩相手をしてもいいぜ」

 下卑た笑い声をたてて、女の肩をわし掴みにしてきた。周りにいた者たちは、質の悪い奴だと男の所業を見て見ぬふりをした。

 「まあ、そうつれなくするなって。こいつもなにかの縁だ。今日は隣のまちでしこたま稼いできたから、一晩でも二晩でもネエちゃんの相手ができるぜ。ウッヘッヘッ」

 しゃべるにつれて興奮してきている男とは対照的に、女は肩を掴まれているにも関わらずおびえた様子も見せずむしろ落ち着き払ってさえいた。

 「下がれ、下郎。ぬしのようなたわけた男など、わしは腐るほど見てきたわ」

 低くそして妙にしわがれた声だった。汚いものを振り払うかのように、グイッと肩を腕ごと前面に押し出して男の手を払いのけていった。面白くないのは酔っ払いのほうで、

 「ヤイッ、なにお高くとまってやがるんだ、このクソババアッ!」

 悪態をつくが早いか、彼女の顔を覆っているネッカチーフを奪い取った。次の瞬間、周りの視線がそこへ注目された。

 「アッ!」

 誰もが驚いた。あまりのことに呆然としたのは、なによりもネッカチーフを手にした本人であろう。たしかに女性には違いなかった。が、そこに現れた顔立ちは七、八十くらいはと思われる老婆のものであった。

 「ヒヒヒイヤ~、ババア……。ほんまもんのバ……」

 後は続かなかった。なぜなら彼の股間に、老婆の強烈な蹴りが一発深々と決まったからである。泡を吹いて倒れかけている男からネッカチーフを取り返すと、彼女は素早く顔にまとい、

 「年寄りとはいえ、公衆の面前で婦女子を辱めるとは何事ぞ!ぬしのような奴はこうしてくれるわっ!」

 激痛のため、既に意識を失って横になっている酔っ払いの顔面を踏みつけようとした。

 「ご老体、それくらいにしたらどうだ。このオヤッサンも酔いが回り過ぎて正体を失っていたんだろう。それに抵抗しない者を足蹴にするのは、高貴な身分の方のすることではないと思うが」

 ハッとなって老婆が振り向くと、すぐそばに一人の男がいた。フリーズであった。隻眼ということもあってか、この男には一種独特の威圧感があった。それにこの時が止まったような星でも珍しい、髪を後ろに束ねた浪人髷が異相を更に強烈にしている。しかし老女はフフンと鼻を鳴らし、目だけ黒衣の間から光らせて、

 「なるほど、久し振りに男らしい男に会えたという感じじゃわい。右目に黒眼帯、お主がジーク・フリーズじゃな」

 フリーズの左頬がピクリとした。己の名を見知らぬ者に告げられて、不審の思いを抱いたらしい。

 「ご老体、以前にお会いしたことがあったかな?」

 「いんや、これが初めてじゃ。じゃがぬしのことは、ある人物からよく聞かされた。わしがこのような所へ来たのは他でもない、その人物とぬしを引き合わせたいためじゃよ」

 やがて隻眼の男が問いかける間もなく、老婆は背を向けてそのままスタスタと店を出て行った。

 「ついてくるがよい。その人物は外で待っておる」

 あっけに取られたフリーズはしばし突っ立っていたが、すぐにその後を追っていくことにした。

 「先生っ!」

 テーブルに着いていた親方が声をかけてきた。彼の表情にも正体不明の老婆に対する不審の念がありありと浮かんでいた。

 「すぐに戻ってくる。先に一杯やっててくれ」

 微笑みを返し、“ウインザー”の返し戸を潜っていった。彼の全身に稲妻のような感覚が走ったのはその時だった。次の瞬間、彼は横っ飛びで身体を移動させ、拳を握って身構えた。ほぼ同時に、先程まで彼がいた地点にキラリとなにやら光らせて屋根から飛び降りてきた者があった。光りものは刀剣の類らしい。

 「いきなりごあいさつだな。オレを狙ってなんのメリットがあるというんだ?」

 この問いに対し、謎の人物は無言だった。代わりにフリーズとの距離を縮めるために、ダッと跳躍をしてきた。黒いマフラーで覆面をしていた。声をたてずに振りかぶってきた第二撃も、フリーズは難なくかわした。それでも彼には、唸りを上げて頬をかすめたその切っ先音で相手の力量の程が知れた。

 (こいつ、只者ではない。少なくとも、こんな僻地にいるような奴ではない!)

 この騒動はすぐに“ウインザー”の客たちの知れるところとなった。

 「なんだなんだ」

 「おい、来てみろ、ケンカだケンカ」

 「一人はなにか得物を振り回しているぞ!」

 たちまち野次馬の群れが店先に固まった。もちろんこの間、誰一人としてフリーズに加勢しようとはしなかった。己の身を顧みずになどという行動をするほど、腕に覚えなどなかろうし巻き添えを食らいたくはなかったのだ。覆面の振りかざす剣のスピードは、衰えるどころか更に増していった。徐々に徐々にその掠める切っ先はフリーズの服を刻んでいき、もはや彼自身がなますにされかねなかった。

 (ダメだ、素手で敵う相手じゃない。せめてなにか得物でもあれば……)

 避けながら道端に棒きれでも落ちてはいないかと目をこらしたが、もはや薄暗い夕暮れ時となっては見つけることさえ難しい。

 「コラ~ッ、てめえら見ているだけなら道を空けやがれっ!ドタマかち割るぞっ!」

 ドスの効いた低音で、たちまち野次馬の間に割り込んできたのは他ならぬ親方だった。目を細めて二人の戦いぶりを観察する。手に取るようにわかる明るさではないが、明らかにフリーズに分が悪いことはわかった。

「先生、剣の代わりといってはなんだが、こいつをお使いなせえっ!」

 物見好きな連中に当たらないように、高く高く放り投げた謎の物体。光線の加減が必ずしも良くない、居酒屋の看板を照らすネオンの光を反射させたそれを、フリーズは決して見逃さなかった。

 「ヤッ!」

 一旦相手に飛びかかると見せかけてフェイントを生み出し、覆面が警戒して二、三歩後ろへ跳んだその瞬間を彼は利用した。サッと向きを変えるが早いか、フリーズはネオンへと飛び込むかのように己の身体を跳躍させた。パシッと得物を握った時、その顔には苦笑にさえ似たものが浮かんでいた。だが、それもあっという間だった。高々と宙を飛んだ彼は、そのままネオンへと突っ込んでしまうかに見えた。

 「オオッ!」

 その時ネオンへと目を向けていた者たちは、驚くべき光景にお目にかかったものだと後々まで自慢げに語る目撃をした。

 パンッ!

 看板に右手がついたと思うな否や、その腕が百八十度回転しながら折り曲げられ、その勢いを駆ってフリーズの身体は一転して看板に背を向ける形となった。だけでなく、両足は屈むが如き形でちょうど“ウインザー”の真ん中の“ン”の部分にくっつき、次の瞬間まるで水泳のターンのように力強く蹴りつけた。それは急降下する鳥のようだった。頭から真っ逆さまに落ちていくフリーズは、流れるような動作で左手から右手へと得物を持ち換え謎の覆面へと迫っていった。

 スパッ……

 二人が激突すると思わず多くの者が目をつぶったその時、まず一つの事実が明らかとなった。いつの間にどのような出来事が展開したのか、二人は互いの身をくっつけない程度の近さで対峙していた。覆面の剣はフリーズの右脇腹に当てられ、それで勝負が決しているかに見えた。だが、フリーズの得物はピタリと相手の頸部を狙っていた。それは半分斜めに切られたボトルだった。どうやら激突の寸前、覆面の剣によって見事に切られて絶好の武器となったらしい。

 「形勢逆転だな。わざわざボトルで殴りかかったのはこういうわけさ。お前の剣がオレの腹にめり込むより先に、こいつがその首を抉るって寸法だ。さあ言え、貴様何者だ。どうしてオレを狙った」

 真剣であった。一つしかないフリーズの目は殺気を帯びていて、出方次第によっては本当に相手を殺しかねなかった。

 「待ちなされ、フリーズ殿!失礼の段は後で十分にお詫びし申す。まずはその手をのけられよ!己が弟子の命を奪う所存かっ!」

 今までどこに隠れていたのか、人ゴミの中から先刻の老婆がまろび出るようにして二人の前へと姿を見せた。

 「なに、弟子だと……」

 ちょうど死角になっている地点からの老婆の言葉に、フリーズはその時になってようやく相手の全身から殺気が漂っていないことに気づいた。覆面はすべてを任せたかのように、剣を握った腕を投げ捨てていた。

 「お久し振りです、フリーズ先生。失礼を承知のうえで腕を試させていただきました」

 「お前は……」

  その声には聞き覚えがあった。かつて彼が数年寝食を共にした一人の男の面影が、鮮やかに浮かんでいった。そしてその者の名は、相手が覆面代わりの黒マフラーをはずしその素顔をさらした時にほとばしりそうな思いと共に口をついて出た。

 「まさか、またお前に会えるとはな、ワルターよ!」


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