⑧ カシワギ・カナコ
気が付いたら、僕は眠っていた。窓の外は既に暗く、カーテンを閉めていないのでネオンの光が床に落ちている。ベッドから降りると、少しふらふらする。そう言えば、ルイと食事をしてから何も食べていない。
壁の時計を確認すると、二十三時過ぎ。
ヤンの地下室から戻って、どれくらいの時間眠っていたのか。何の夢も見なかった。
あの地下室で見た光景が、まだ網膜にこびりついている気がする。
少し寒い。昼間はあんなに日光で暖かかったけれど、夜になると冷える。もう、秋が深い。
いまいち回転数が上がらない頭をすっきりさせるために、バスルームへと向かった。
蛇口をひねり、頭からお湯をかぶる。白い湯気の中に、鉄格子の中で座り込んでいる少女たちが浮かんでは消える。彼女たちは間違いなく誘拐された少女たちだろう。手足が切断されて、逃げられないのだ。
なんて、下衆な行為だ。あれに、なんの意味があるというのだ。
なるほど、いくら警察が捜査を進めても何も出ないわけだ。被害者は監禁場所から一歩も出られずに、一か所に集められている。それに、あの注射器に残っていた液体も、どんな作用があるのかわかったものじゃない。もしかしたら意識を混濁させたり、記憶障害を引き起こすためのものかもしれない。
気分が悪い。
あの娘たちの人生はどうなってしまうんだ。人生の一番柔らかな時間を、一瞬たりともあんな暗闇の中で過ごすべきではない。僕みたいに記憶を無くしてしまえばまだ良いだろうけど、そう都合よくはいかないだろう。
ヤンは何を考えているんだ……。
生きるためとはいえ、僕はあんなやつから仕事をまわしてもらっていたのか。ヤンのことは良く知らないけれど、まさか十代の女の子にあんな仕打ちをするやつだったとは。
問い詰めたら、ヤンは何と言うだろう。
まさか地下室の光景と無関係だということはないだろう。それとも、あれも何かのビジネスなのだろうか? 噂の通りに、どこかの金持ちに少女たちを売っているのか?
それにしても、大胆と言うか、悪趣味なやつ。繁華街のど真ん中、それも、定期的に僕が訪れる部屋の地下に、あんな空間を用意するなんて……。
髪と身体についた泡を流して、バスルームを出る。ひんやりとした空気が、湯上りの頭には少し気持ちいい。
服を着て椅子に座り、テーブルに肘を置いてから煙草に火をつけた。
さて、どうしよう。
これからも、ヤンから仕事をもらって生活をしていくべきだろうか。でもそれを考えると、嫌悪感で鳥肌が立つ。
そもそも、僕に支払われる報酬は誰が払っているんだ? 依頼元は誰なんだ? 僕が誰かを殺すことで、誰が利益を得ている? あの事務所のような部屋の先に進めば、何かわかったのだろうか?
泥沼に片足を突っ込んだみたいに、思考の身動きがとれない。
何を考えればいいのか、何を守ればいいのか。優先順位がぐるぐると入れ変わる。僕は今、何をするべきなのか……。
灰皿の縁で、煙草を叩く。灰がさらりと落ちて、少しテーブルに落ちた。
正直に言って、もうヤンには関わりたくない。あんなことをする人間から仕事をもらうなんてまっぴらだ。でも、僕みたいに身寄りがなく、身分の証明も無い人間に他の事ができるのだろうか。
その答えは、限りなくノーに近い。
もう成人を迎え、頼る相手も、使えるコネもない。唯一の味方であるナツメも行方不明だ。
僕はもう、今の状況から抜け出すことができないのだろうか。
じりじりと、煙草の先が灰になっては落ちた。
幸い、今はまとまった金がある。しばらくは何もしなくても暮らしていける。ゆっくり考えよう。
それから僕は、まさに遊んで暮らした。といっても、本をまとめて買って頭痛がするまで読み続けたり、ふらりと街に出て映画を観たりしたくらいだ。ギャンブルにも風俗にも手を出してはいない。何度かゴウさんの店にも食べに行って、そのたびにテレビでニュースを見た。家出少女誘拐事件は一向に捜査が進まず、被害者は増えるばかりだと、画面の中の女性キャスターは言っていた。
いまでも、彼女たちはあの地下にいるのだろうか。誰も助けにこない暗がりで、冷たい石畳に座り込んでいるのだろうか。
考えたくもない。
その日もゴウさんの店に行った。けれど、店主はどうしてもやる気が出ないらしく、カウンターに座って酒を飲んでいた。まだ昼前だというのに。
他に客はいないけれど、いてもたぶん同じだろう。そもそも、ゴウさんの店には客があまりこない。きっと、店の外観で客をふるいにかけているのだろう。僕は選ばれた人間ってこと。
「おう、リンか……。悪いが今日は働かねぇぞ。調子が悪い」
僕は構わずカウンターに座って、灰皿を引き寄せた。
「まいったな、ごはん食べ損ねちゃう」
ゴウさんはコップに入った透明な液体をあおる。
「たまにゃ自分でつくれ。簡単だ」
「そう? そうは思えないんだけど……」
「材料切って、火ぃ通して味つける。これで完成だ。ミソはしっかりと火を通すことだな。これができれば、なんでも食える」
「味噌って……生で食べちゃいけないの?」僕はべたつくカウンターを撫でた。「今までキュウリにつけてたけど……」
「いいか、カレールゥの箱の、裏を見ろ。その通りにつくれ」
ゴウさんは僕の話なんて聞いちゃいない。飲むといつもこうなのだ。
「それにしても……僕の他に客はこないの?」
「くるよ。いっつもくるさ。足元でちょろちょろ、ちゅうちゅうってよ。可愛いやつがよぉ」
ゴウさんは僕に顔を近づけて大きな声で笑った。おまけに、背中を何度も叩いてくる。
「経営は成り立つの?」
「まぁ……俺は独り身だしな。食ってく分にゃ困るこたぁねぇよ」
「へぇ……」
それ以上は何も、話を掘らないでおくことにした。酔っ払いとの境界線は明確にしなくてはいけない。
「でもよお……何よりも家賃だよ、納得がいかねぇのはよぉ」
酔っ払いは空になったコップに、手酌で透明な液体を注いだ。
「家賃? ここって、そんなに高いの? うちは格安なんだけどな……」
「アパートだろ? そりゃあ、安いよ。こんなとこに住みたいやつぁいないからな。ここはお前、遊びにくる街だからな。治安は悪いし、何か臭ぇし。住むにゃ最悪だ」
「じゃあ、どうして? あ、この店の場所だけ高いとか?」
ゴウさんは大げさに手を振る。たぶん否定の意味だろう。
「ちがうちがう。そうじゃねぇよ。ここで商売をしようと思ったら、それだけで家賃っつーか、土地代が高くつくんだ。まったく、足元見やがって、あいつら」
「あいつらって?」
「オギノメのやつらだよ。あいつらが昔、ここいら一帯を買い上げたんだ。だから、この街にあんなバカ高ぇビル建てたんだよぉ」
「オギノメグループが?」
今にも寝そうな人みたいに、ゴウさんは大きく頷いた。
「おお。ここで生きてくにゃ、他の街から遊びにくるやつ相手に商売するしかねぇだろ? だから、店を出すってやつは多い。あいつらはそこに目ぇつけたんだな。地主ってやつか? ほんとに、気に入らねぇ」
「引っ越すつもりはないの?」
「俺らみんな、脛に傷があるやつばっかりだからなぁ。良くも悪くも、この街は治外法権だろ? 俺らみたいなモンは、ここだから生きていけるのさ」彼はさらにコップを傾ける。「実際、あの誘拐事件も解決しねぇと思うぞ。警察なんて、繁華街には犯罪があってあたり前だと思ってやがるんだ、きっと」
それからゴウさんは一人で飲み続け、一人で話し続けた。僕は途中から相槌をうつもの止めて、黙ってテレビを眺めていた。
結局、僕は酔っ払いの世間話に付き合わされただけだった。空腹を満たせなかった僕は、ゴウさんの言葉を思い出してスーパーに向かった。
相変わらず機械のような接客をしてくれる外国人のレジ係に安心して、僕は店を出た。
両手には、大きな袋が一つずつ。その内容は野菜や肉。ついでのように調味料も入っている。それと、カレールゥ。事前によく調べていなかったので、なんとなくカレーに入っていそうなものを選んだ。
家につくと、時刻は十三時をまわっていた。
それからは、まさに格闘だった。新品のまま使われていない包丁は、良く切れ過ぎる。各種野菜の皮むきだけで、何か所か指を切ってしまった。それでもなんとか、不揃いな野菜達はボウルの中で、抗議もせずに大人しくしていてくれる。
僕はゴウさんの言う通り、おおむねはカレールゥの箱の指示に従って調理を進めた。すっかりほこりを被っていた鍋を引っ張り出して、最後にはその中でなにやらカレーのようなものができていた。
「出来た……のかな?」
おたまですくってみると、なんだかさらさらしている。ゴウさんの店で食べるカレーとはまるで違う。でも、仮にも彼はプロだ。僕が同じレベルのものをつくれたら、ゴウさんの店は存在意義がなくなる。自分にそう言い聞かせ、深い皿にカレーをよそってテーブルについた。
「さて……いただきます」
両手を合わせて、スプーンを入れる。皿の中身をすくってみると、やっぱり粘度が足りない。
「……まずい」
口に入れて驚いた。味が薄すぎる。これではカレー風味のお湯だ……。
目の前に置かれた皿を見て、途方に暮れていると、玄関の方からコンコンと音がした。それから、カチカチという微かな音。
「呼び鈴は壊れてますよ」
そう言いながら立ち上がり、ドアのぞき穴から外を見る。
知らない女性が立っていた。
二十代の半ばくらいだろうか。黒いスーツを着ている。髪は黒く、そして短い。大きくて活発そうな瞳はにこちらをじっと見ている。なんだか、どこかで見たことがあるような……。
「リンさん? いる?」
ドア越しに女性が話しかけてきた。
「勧誘なら他を当たってほしいんだけど……」
僕がそう答えると、女性はよく通る声で答えた。
「あたしの勧誘は普通の勧誘じゃないよ。リンさんにとって、悪い話じゃない」
「なに?」
変わった勧誘だ。新手のものだろうか。そう思っていると、スーツの女性とは違う女性の声が聞こえた。
「もう、お姉様! リンが怪しんでしまうではないですか!」
その声には聞き覚えがあった。
「ルイ?」
ドアを開けると、スーツの女性の横にはルイが立っていた。今日もゴシック・ロリータ・ファッションだ。ルイは少し怒ったような顔で、横に立つスーツの女性を見上げている。小柄なルイとは対照的に、スーツの女性は長身だ。少なくとも、僕よりは背が高い。
「どうしたの?」
僕が尋ねると、ごてごてとしたフリルを揺らして、ルイはこちらを向いた。
「お久しぶりです、リン。今日はお礼をしたくて参りました」
彼女はにっこりと笑う。
「お礼? なんの?」
今度はスーツの女性が口を開く。
「ルイのこと、助けてくれたんだって? それを親父に話したら、どうしても連れて来いって言われてさ。恩人になんの挨拶もしないなんて、失礼なことはできないってね」
僕は裸足のままで玄関に降り立った。
「親父? あの……あなたは?」
スーツの女性は胸を張って、軍人のように背筋を伸ばした。
「あたし、ルイの姉です。よろしく」
そして、右手を差し出す。
「はぁ……」
「とにかく、あたしの仕事はリンさんを家まで連行……じゃない、案内することだから。さぁ、靴を履いて」
ルイの姉だと名乗る女性は右手を引っ込めて、早速歩きだそうとした。
「待って、お姉様。どうしてもっとお行儀よくできないの? リンは命の恩人なのですよ?」
ルイは姉の腕をつかみ、猛然と抗議している。
この姉妹の性質は正反対のようだ。
姉は適当にルイをなだめ、僕に向かってこう言った。
「じゃ、こう聞こう。リンさん、お腹は空いてない?」
ルイは額に指を当てて目をつぶってしまった。頭痛がする、のサインだろう。
でも、僕の返答は決まっていた。
「ええ、ものすごく空いています」
ルイの姉はカナコと名乗った。
僕が一度部屋に戻り、それなりの服装に着替えてから玄関を出ると、アパートの前の通りに黒いセダンが停まっていた。カナコが運転席に座っていて、ルイは後部座席に座っている。
僕は少し迷ってから、後部座席に乗り込んだ。
「じゃあ、出すよ。ドライブだね」
何がそんなに楽しいのか、カナコはご機嫌だった。彼女の鼻歌と聞いているうちに、アパート前の細い通りを一瞬で抜けて、少し広い道に出た。黒いセダンはどんどん速度を上げる。大きな国道に出たあたりで、ようやく安心できる速度に落ち着いた。
「お姉様、飛ばしすぎです。今日はリンも乗っているのですよ!」
運転席のシートに手をかけて、ルイが言葉を飛ばす。でも、カナコは一向に気にした様子はない。
「いいじゃない。あ、でもシートベルトはしてね。同僚に捕まるのは勘弁」
ルームミラー越しに、カナコと目が合う。
「同僚?」
信号待ちの車内に、カナコの快活な声が響いた。
「そう。私、刑事なの」
カナコの運転は荒いけれど、目的地に少しでも早く到達するという点では、とても優秀なドライバーだった。でも、ひとつだけ言うとすれば、今が空腹で良かった、ということだ。
ガレージに車を停めてから、少し歩いた。辺りはとても大きな住宅が多く、とても静か。道端にはゴミも吸殻も酒瓶も転がってないし、誰かの反吐も無い。毎朝誰が掃除するのだろう?
僕より少し前を歩いていたカナコとルイは、一際大きな建物の前で足を止めた。そこには立派な門と壁があり、建物自体のつくりは洋風。二階には出っ張ったバルコニーまである。
真っ白い壁はせっけんみたいに清潔そうだったし、ツヤが無い黒い門は威圧感がある。
「ここ、何かの施設?」僕は門の中をのぞきながら言った。「誰かのお城?」
カナコが僕の方を振り返って口を開いた。
「そう。あたしたちのお城。さ、どうぞどうぞ」
横についているインターホンに向かってルイがしゃべりかけると、門がゆっくりと左右に開いた。
僕はその光景と、ルイの服装を見比べてみた。
「これなら……納得」
門の先には広い庭があった。いや、これは小さな公園かもしれない。細かい彫刻が施された噴水や、名前も知らない花が咲いている花壇。天使や女神をかたどった彫刻もある。人が歩く道には四角い石が置かれていて、それは真っ直ぐにお城へと続いている。
四角い石の上を歩きながら、僕は正直な感想を口にした。
「すごく……きれいだね」
「ありがとう。わたし、お嫁に行けるかな?」
ふざけた口調でカナコが言った。それを無視して、ルイが僕の横で口を開いた。
「これは全て、お母様の趣味なの。私の服も、あの天使たちも」
「ルイのお父さんは警察の人なんだよね?」
僕の質問に、ルイはこくりと頷く。
「ルイとカナコのお父さんは、すごい役職にでもついてるの?」
「どうして?」
ルイは小首を傾げる。この場でそうすると、西洋の人形みたいだ。
「だって……こんなに立派な建物と庭、普通の警察官じゃ無理じゃないかな」
前を歩いていたカナコがこちらを振り返る。
「うーん、お父さんはそれほどでもないよ。うちはね、お母さんのほうがすごいの」
「すごい?」
「そう。実家がお金持ちの、本物のお嬢様。もう、すごいんだから。私が警察学校を受験するって言った日、口きいてくれなかったもん。警察官なんて危ない仕事、女の子がするんじゃありませんってさ。ま、私は押し切ったけど。自分の人生なんだし、自分で決めなきゃつまんないじゃん。ま、その代わりにルイが犠牲になったんだけど」
カナコは軽やかに笑う。
「犠牲って?」
「ルイはね、とんでもなくつまんない学校に入れられたの。ま、私もそこ出身なんだけどさ。でもルイは私と違って、ちゃあんと学校に馴染んでる。姉としては自慢の妹なのですよ」
ルイは声を張り上げる。
「お姉様がおかしいのです! 授業を抜け出して釣りに行ったり、行事をさぼって釣りに行ったり……意味がわかりません」
「だってさぁ、あの学校つまんないんだもん。みんな真面目で、量産型。そんなところでは大切なことは学べないよ」
「大切って……釣りが大切なのですか?」
「釣りは良いよ。釣り糸をじっと見てると、頭の中が正しく回る」
「正しく?」
「ま、大人になればわかるよ」
姉妹の会話についていけず、僕はずっと黙っていた。すると、カナコが完全に振り返り、後ろ向きで歩きながら話しかけてきた。
「ね、リンさんはどんな学生だったの? 部活とか、やってた?」
「僕は……」
どう説明していいのか迷った。しかし、僕が口を開く前にカナコが首を傾げて、
「僕?」
と聞き返した。やっぱり姉妹だ、反応する箇所が同じ。
「もう、そういう話はもっと親密になってからするものです! 私だってまだ聞いていないのに……」
ルイが頬をふくらませた。
「ははは、まあそうだね。じゃ、ごはんでも食べながらゆっくり話そっか」
僕はちぐはぐな姉妹と、お城のような家に入った。
僕がつくったカレーは信じられない味だったけれど、ルイの家でごちそうになった食事もまた、信じられない味だった。もちろん、真逆のベクトルでだ。
「リン、お口に合いましたでしょうか?」
ナプキンで口元を拭きながら、ルイが言った。
「一週間は食事をしなくてもいいくらい、とても美味しかったよ」
僕がそう言うと、テーブルの端に座った男性が上品に笑った。男性はカナコとルイの父親で、ダイスケと名乗った。
「それは良かった。お礼になりましたか?」
「それは、もちろん。十分すぎるくらいです」
僕らの前には長いテーブルがあり、今はコーヒーだけが用意されている。席順は、僕の横にルイとカナコ。テーブルを挟んで向こう側に、二人の両親であるカシワギ・ダイスケ氏とヨリコさんが座っている。ダイスケ氏は大柄で、口元には立派な髭をたくわえていた。彼を見ると、カナコは確かにこの人の娘だ、という気になる。豪快で、気さくで、それでいて義理に厚いのだろう。わざわざ僕を招待してくれるのだから。
ちぐはぐな姉妹の母親であるヨリコさんは、まさにお嬢様だった。常に上品で、初対面のあいさつは永遠に終わらないのではないかと心配なるくらい丁寧にしてくれた。細身で、シンプルな服装が彼女の品の良さを際立てている。
ヨリコさんが口を開いた。
「本当に……ルイが家出をしたときは、どうなるのものかと心配致しました。まさか繁華街に行っていたなんて……」
これにルイは異論を唱えた。
「お母様、家出ではありません。警邏です。パトロールなのです」
「そうは言っても、貴女に何ができるのです? そういったことはお父様とお姉様に任せて、もっとしなければならないことがあるでしょう」
「警邏も立派な、しなければならないことです」
「まあ、貴女まで警官になるつもり?」
母娘のこの会話はどうやら日常茶飯事らしく、父親も姉も何も言わない。それどころか、横に控えている二人のお手伝いさんも、微笑ましい光景を見るかのようなまなざしを向けている。
ルイは口調を弱めない。
「そうです。私も警官になって、お父様やお姉様のように他人のためになる仕事がしたいのです。何がいけないのですか?」
「警官は貴女に向いていません。物事には向き不向きがあり、人には役割があるのです。それを、何度言ったら理解してくれるのですか」
「私の役割は、お母様の御実家の会社を継ぐことではありません」
「まぁ……またそんなことを……」
母娘の会話が一瞬途切れたところで、ダイスケ氏が口を開いた。絶妙なタイミングだ。これまで、何度も同じことがあったのだろう。
「まぁまぁ。今日はリンさんがいらしてるんだ、そのくらいにしておきなさい」
それから彼はコーヒーをひと口飲み、僕に向かって「リンさんは、煙草を吸われるんですよね?」と言った。
「はい。あまり、身体によくないことはわかっているのですが……」
「ああ、ああ。それは良い。実は家族で喫煙者はわたしだけでね。肩身の狭い思いをしていたのですよ。どうです、空気の良いところで一服」
彼は指で何かを挟むジェスチャーをした。
「御一緒します」
僕とダイスケ氏は立ち上がり、ぴかぴかに磨き上げられた木製の扉から部屋を出た。扉はお手伝いさんが開けてくれた。
「二階にバルコニーがあります。そこで風を受けながら吸う煙草が一番美味い」
彼は大きな身体を揺らして、髭の中で笑顔になる。
「今の時期は空気も澄んでいますしね」
「そう、最高だ。しかし、ルイから言われてしまいましてね、煙草は身体に悪い、止してください、と」
そう言うようにアドバイスしたのは僕だ。だから、何も言わずに苦笑いだけを浮かべておいた。
えんじ色の絨毯が敷かれている階段を上り、二階に来た。いくつも部屋があり、ホテルみたいだな、と思う。
「こちらです」
ダイスケ氏の後ろについて行くと、確かに立派なバルコニーに出た。外から見るよりも立派だ。見晴らしが良く、なかり遠くまで見える。国道の奥にある繁華街と、その真ん中にそびえたつオギノメグループの本社ビルも見える。
「食後は、これですな」
ダイスケ氏はとても美味そうに煙草を吸った。ごつごつとして無骨な指に挟まれているのは太い葉巻で、何だか甘い香りが漂う。
「僕も失礼します」
安い煙草に、安いライターで火をつけた。場違いなのは明らかだけど、これはどうしようも無い。
一通り煙を味わった後、ダイスケ氏は髭を風に揺らしながら口を開いた。
「繁華街にお住まいだと聞きましたが」
「そうです」
「ルイが一晩お世話になったとかで……本当にご迷惑をおかけしました」
大きな身体を縮めて頭を下げる。
「いえ、偶然ですし……それにあの街では、若い女性が夜を越すのは危険すぎます。僕がしたことは当然のことです」
頭を上げ、ダイスケ氏は静かに首を振る。
「カナコはわたしに影響されたのか男勝りに育ったもので、母親はルイに自分の理想を背負わせたいらしいのですが……まさかルイが繁華街をパトロールとは」
「ルイさんは、正義感が強いのですね」
「いや、わたしとカナコの真似事でしょう。わたしもカナコも今は繁華街の事件を担当している。それに悪影響されたのです」
そう言いながら、ダイスケ氏は目じりを下げた。
僕は風を感じながら言葉を選ぶ。
「あぁ、そういえば言っていました。お父様は人の役にたつ、立派な仕事をしていると」
「ルイがですか?」
「はい」
「そう言ってもらえると、警官冥利につきるというか、嬉しいものですが……しかし一人で夜の繁華街に行くのは無謀ですな」
「それは、同意します。それに今は誘拐事件もありますし」
僕の言葉に、ダイスケ氏はぴくりと反応した。
「そう……テレビの報道でもあるように、誘拐の被害者はちょうどルイくらいの年ごろの少女たちです。娘をもつ身としては、一刻もはやく解決したい」
それからダイスケ氏は遠くを見るような目つきをした。
視線の先には、繁華街。
僕の頭の中には、地下室で見た光景。
これを、言うべきか。
でも、そうしたら僕の仕事がばれてしまう。
「ニュースでは、捜査が難航していると」
今は黙ったおこう、と決めた。
「お恥ずかしい限りです」
ダイスケ氏は白い手すりに手をかけた。
「調べても調べても、何の証拠も手掛かりもない。連れ去られる現場の目撃情報はいくつかありましたが、その先が続かない」
「そもそも、誘拐というのはなぜ起きるものなのですか?」
「第一には、身代金です。子供を誘拐して、親に金を要求する。しかし、これは最近ではあまり無いですね。犯人からしてみれば、どうしても金の受け取りのタイミングが危険すぎる。捕まるリスクが大きい」
「では、今回の誘拐は……」
「詳しいことは話せませんが、被害者の親御さんには何の連絡もないそうです。なので、身代金目的の誘拐では無いことは確かですな。そうなると、あと考えられるのは個人の趣向、つまり金以外の個人的な目的がある場合。しかし、これはあまり考えたくない類のものです」
「ええ……察します」
沈黙が降りる。
僕らは互いに無言で煙草を吸い。風を浴びた。晴れた空とは違い、僕の頭の中は複雑な空模様。たぶん、ダイスケ氏も似たようなものだろう。
僕がヤンのことを話せば、事件解決に近づくだろう。それは確実だ。
しかし……。
「親父、一本ちょうだい」
振り返ると、カナコが立っていた。風を受けて短い髪が揺れている。
「カナコ、お前吸うのか?」
「最近覚えたんだよ。これで仲間が増えたね」
猫のような笑顔で、カナコはダイスケ氏から葉巻を一本受け取った。しかし、火をつけて表情をしかめる。
「うわ……親父こんな甘いの吸ってんの? 趣味悪くない?」ひと口吸ってそう言い、葉巻を口から離した。「虫歯になりそう」
「その葉巻はたぶん海外のものでしょう。海外のものは、風味が独特であるものが多いんです。僕のをどうぞ」
箱を振って一本出して、カナコに向ける。彼女はそれを受け取り、まだほとんど残っている葉巻を灰皿に押し付けた。
「あぁ……やっぱこっちの方がいいな、あたし」
カナコは何度か首を鳴らして、腕も回した。運動がしたいのかも。
「事件の話、してたでしょう?」僕とダイスケ氏を交互に見てから、彼女は唐突にそう言った。
さらにカナコは続ける。
「さっき、聞こえちゃったんだよね。でもさ、こんなお礼の場で話すことじゃないよね、それ」
そしてくくっと笑った。
「それもそうだな、いや、失礼」
短くなった葉巻を決して、ダイスケ氏は再び頭を下げた。
こんなとき、なんて言えばいいのだろう。そう僕が言葉を探していると、カナコが口を開いた。
「でも、大丈夫。あたしが絶対解決するから」
「カナコ、お前……」
「親父、知ってる? 誘拐被害者の中には、ルイの同級生もいるんだ。だから、ルイは繁華街をパトロールに行ったんだよ。自分でも何かしたいって思ったんだね、あの子」
僕も煙草を消して、口を開く。
「でも、僕といるときはそんなことは一言も……」
しかし、カナコに遮られた。
「本気で思っていることはなかなか気軽に言えないもんだから」
「本気で……」
「そう。ルイの中では、友達を誘拐した犯人がどうしても許せない悪なんだろうさ。そんで、悪を倒すのは正義だ。ルイの中にある正義は、警官である親父とあたしだ。だからあの子、警官になるなんて言い出したんだ。子供っぽい短絡的な発想だけど、その考え嫌いじゃないな、あたしは」
中空を眺めて、カナコはなんだか満足そうに笑った。
「だからあたしは絶対に捕まえたい。解決したい。ルイに、まだまだ世の中には正義が残ってるってことを、知らせてやりたい。警察だって、完全に腐りきってるわけじゃない」
「おい、カナコ……」
ダイスケ氏は視線をカナコに向けて、その先の言葉を制したように、僕には見えた。
何だ?
しかしカナコはダイスケ氏の視線を無視し、声のトーンを下げて言った。
「絶対に逮捕してやる。犯人も、関係者も。全員お天道様の下に引きずり出して、照らしてやるんだ」
そう言うカナコを見て、彼女はやっぱりルイの姉だと思った。
だって、そのときのカナコの顔はそっくりだったから。僕にナイフのような視線を突き付ける、あの日のルイに。
とても、よく似ていた。