⑦ レコードの、下
ルイと別れてから、僕は捨て犬みたいにとぼとぼと歩いた。
「ちゃんと、帰ったかな」
そう呟いてみたけれど、乾燥した風が吹くだけ。
ルイの言葉が頭の中で渦巻いている。彼女の視線が、態度が、思いが、僕の何かを締め付けた。
『正義が守られないことが、嫌なのです』
そうだよな。ルイの言う通りだ。
僕がしていることは僕にとっての正義なんだ、なんて、口が裂けても言えない。
僕が今まで殺してきた人間は、一体どんな人たちだったのだろう。ちっぽけな僕の生活のために、消えて良かった命なのだろうか。
たとえば、あのコールガールはどうだろう。頭の回転が速くて、きれいで趣味が良い女だった。ヤンから受け取った札束は、彼女の命と同じ重さだったのか?
今まで僕は、自分の生活を気に入っていた。自分の薄っぺらい人生のために、他人を殺す。このシンプルな構図を好ましく思っていた。
いや……どうだろう。
本当は何も考えてはいなかったのだ。自分に何も聞かなければ、自分は何も考えずに済む。それが楽で、それに甘えていた。
僕にとってのナツメのように、今まで銃弾を撃ち込んできた相手にも、大切な友達がいたのかもしれない。愛おしい恋人や、温かい家族もいただろう。それらを全て奪ってまで生きる価値が、僕にはあるのか? 思えば、そんなことを考えもしなかった。
一体、僕は誰のために人を殺しているんだ? 僕が引き金を引くたびに、喜ぶ奴はどんなやつなんだ?
どうして僕は、今まで何も考えてこなかったんだ?
ルイの言葉が小さな弾丸となって、僕の頭に撃ち込まれたみたいだ。
もし、人を殺さないで生きていけたら。
それは、魅力的な考えだ。
気が付いたら、僕はヤンの部屋へ続く階段の下に来ていた。晴れた空のしたでも、ここはなんとなく不吉だ。
階段をゆっくりと上る。ヤンに会っても、何を話せばいいのだろう。僕は、何をしようとしているのだろう。
階段を上り切り、突き当りの扉を開ける。そう言えば、明るい時間にここに来るのは初めてだ。
中綿が飛び出しているソファーに、床に散らばったレコード。歪んだデスクの上にある灰皿には、山のような吸殻。
日光で照らし出された空間は、世捨て人の生活空間のようだった。壁紙は煙草の煙で黄色く染まっている。
ヤンはいない。
僕は部屋の中に入り、適当なところに腰を下ろす。でも、座れる場所なんて限られている。僕が座ったのはいつもヤンが座っているソファーだ。
膝の上に手を置いて考える。さて、どうしたものか。そもそも、ここに来た動機が自分でもわからない。仕事の紹介役に、僕はどうして人を殺してきたのか相談でもするつもりだったのだろうか。
床を見ると、何枚かのレコードが埃を被っていた。どれくらい放置されていたのか、本来の仕事を忘れていなきゃいいけど。
視線を動かしていると、一枚のジャケットで目が止まった。どこかで見覚えがある。それを拾い上げてみると、タイトルにも見覚えがある。
これはナツメの部屋にあったCDのレコード盤だ。
部屋の中を見渡すと、隅に古ぼけたレコードプレイヤーがあった。久しぶりに聴きたくなったけれど、ここには電気がきているのかわからない。
レコードを手に持ったままソファーから立ち上がり、プレイヤーの電源を探す。側面にあった。でも、押してみてもなんの反応も無い。
「電気代くらい、払えよな」
レコードの裏を見ながらソファーに戻る。ナツメが弾いていたのは、どの曲だろう。でも、レコードのジャケット裏はひどく汚れていて、曲名が読み取れない。盤のほうに記載があるかもしれないと思って中を見てみたら、空だった。
「まったく……」
レコードを元の場所に戻そうと視線を床に向けて、気が付いた。今、手に持っているレコードが落ちていた周りのものには、埃が被っていない。
そして一部だけ露出した床に、取っ手のようなものがある。
「なんだ……?」
誰もいない部屋には独り言がよく響いた。
僕はソファーから離れて、取っ手付近のレコードをどかした。
レコードの下から出てきたのは、四角く枠どられた床。取っ手はその枠の中にあり、明らかに開くことができる構造だ。
もしかして、ヤンの生活空間は地下にあるのか? 確かにここには電気がきていないから、生活するには不便だろう。
取っ手に手をかけ、力を上にかける。
もしかしたら、僕の仕事のことが何かわかるかもしれない。殺す相手のリストや、どこの誰から殺しの依頼が来ているのかを書いた書類なんかがあるのかもしれない。パソコン上で管理するよりも、紙のほうが処分しやすいだろう。
危険を承知で、床の扉を開けた。
床にぽっかりと空いた穴からは、冷たい空気。そして、その先には階段が続いている。
部屋の中に誰もいないことを確認して、僕は階段を降りた。
とても暗くて、じめじめた空間だった。闇は濃くて、先が見えない。
しばらく足を動かしていると、平坦な地面に降りた。靴の裏に感じる感覚からするに、石畳のようだ。
相変わらず真っ暗なので、空間の大きさが把握できない。左右に手を動かしてみると、とても狭い空間だとわかった。
どうやら左右の壁はコンクリートでできている壁らしい。
右手を前に突き出して、少しずつ前に進む。すると、冷たい感触を覚えた。
行き止まりか?
でも、前方の壁は左右と感触が違う。これは、どうやら鉄でできているらしい。ざらざらとした感触が指先に伝わる。
鉄の壁に手を這わせて探ると、少し下にドアノブがあった。少しだけ迷ってから、回して、押した。
ぼんやりとしたオレンジ色が広がる。かびくさいにおいが鼻についた。
「ここは……」
信じられない光景だった。
左右には鉄格子が並び、正面の奥には簡易的なベッドのようなものと、キャリーがついた銀色のカートのようなものがある。ベッド近くの壁には、何に使うかわからない器具のようなものが吊るされていた。器具はオレンジの照明に照らされて、ぬらぬらと反射している。
左右の鉄格子はコンクリートの壁にはめ込まれていて、向こうには暗い空間が広がっているようだ。
床に目を向けると、石畳。所々に血痕もある。
一見して、拷問部屋のような印象だった。鉄格子の向こうに監禁もできるだろう。
僕はまっすぐにベッドの方へ向かう。天井の照明はとても小さいもので、部屋の中央部しか照らしてくれない。左右の鉄格子の中は暗くてよく見えない。それよりも、進むにつれて僕はあるものに視線が釘付けになった。
ベッドの横にある銀色のカートの上には、何本もの注射器が置かれていた。
「なんなんだこの部屋は……」
注射器を手に取ってみると、中には液体が半分ほど残っていた。好意的に解釈しても、これが人命を救うための液体だとは思えない。
ベッドは冷たく、寝具は乱れていた。ヤンはここで寝泊まりをしているのだろうか。
普通じゃない。寝心地は期待できない。
よく見ると、ベッドのシーツにも血がついている。注射器をベッドの上で使ったのだろうか……。
視線を左に向けると、更に道が続いていた。ベッドの足元を抜けて、そちらに向かう。
「これ以上何があるってんだよ……」
既に僕の脳内では警報が鳴っていた。ここは足を踏み入れて良い場所じゃない。今すぐに引き返したほうが良い。
でも、足は止まらなかった。
道の先にはまた扉があり、これはクラシカルな木製だった。取っ手に手をかけると、何の抵抗もなく開いた。
扉の先は真っ暗で、何も見えない。壁に手を這わすと、スイッチがあった。それを押したら、室内が白く照らされた。
とても狭い、事務所のような雰囲気だ。右手にデスク、そしてパソコンがある。左手には背の高い棚があり、そこには青いファイルが隙間なく並んでいる。
そして正面には、更に扉。
普通の事務所と違うのは、床が石畳だということ。
なんだ、この部屋は。
デスク前にある椅子に座り、引き出しを開ける。鍵がかかっているかと思ったけれど、それは軽く手前に引き出された。
中には書類の山。
一枚を手にとると、一人の人間の略歴や写真が記載されていた。僕が手に取ったものに書かれていたのは、とある企業の重役の情報らしい。
これは、殺す人間のリストだ。そう直感した。
それからも、何枚かの書類に目を通した。どれも有名な大企業の重役や、その家族だった。
その中で、一枚の書類に目がとまる。
写真の中で笑っている美人は、僕が銃弾を撃ち込んだコールガール。年齢は二十五歳。名前はスズムラ・ユキ。
しかし。
氏名・スズムラ ユキ 年齢・二十五 職業・不明 備考・カルテを持っている可能性有。鈴村医院長女。半年の監視の末、隠れ家の一つが判明。
僕は眉を寄せた。ヤンから聞いていた情報と違う。彼女はコールガールではないのか?
そして、カルテとは何だ? 誰のカルテだ?
わからない。
スズムラ・ユキの情報はそれだけだった。うすっぺらい紙一枚分だ。
力が抜けて、書類を引き出しの中に戻した。
急に寒気がした。ナツメにきつく言われていた、仕事の裏を探るなという言葉を思い出す。
危ない。ここから早く出なければ。
僕は確実に、踏み込んではいけないところに足を突っ込んでしまった。
ルイに言った『ゴミを片付ける仕事』という言葉は、自分にも言い聞かせていることだった。ヤンから殺す対象の情報を渡されるとき、なぜ対象が殺されなければならないのか、簡単に聞かされていたからだ。
曰く、会社の金を持ち逃げした。
曰く、麻薬の類を持ち逃げした。
曰く、不正な取引をした。
表ざたにはできないが、制裁を加えなければならない存在。それこそが、僕が銃口を向ける相手だと聞かされていた。スズムラ・ユキのときもそうだ。彼女が顧客リストを持ち出しさえしなければ、殺さずに済んだのにと思っていた。
でも、彼女は高級コールガールではない。顧客リストなんて、持ち出していない。
それなら、僕は……。
なぜ彼女を殺した?
わからない。
吐き気がする。
引き出しの中の書類をまとめて取り出した。こんなもの、どこかで焼いてしまいたい。僕は本当に、ただのドブネズミだったんじゃないか。
そのとき、一枚の写真が足元に落ちた。
他の写真は紙に印刷されたものだったのに、これだけは写真そのものが挟まれていたのだ。
舌打ちをして拾い上げると、そこには一人の少女が写っていた。
中学生くらいだろうか。制服を着ている。少しウェーブした長い黒髪を肩まで垂らした、気弱そうな少女。彼女は大きな建物をバックに、控えめな視線をカメラに向けて、身体は少し斜めにしている。
頭の中がうずいた。
何だ……これは?
誰だ、これは……。
僕は記憶をなくす前に、彼女に会ったことがある?
いや……。
思い出せない。
「でも……これは」
そこで、言葉を止めた。口にしてしまえば、よけいに訳がわからなくなるという確信があった。
でも……間違いない。
この写真の少女は、誘拐事件の標的とされる少女に、特徴が良く似ている。
気のせいだろうか。
すべての書類と、少女の写真を引き出しにしまって、僕は事務所のような部屋を出た。部屋を出る前に、もう一つの扉に手をかけてみたけれど、鍵がかかっていた。
そろそろここを出なくては。
ここは明らかに見てはいけないものが詰まっている。
木製のクラシカルな扉を閉じて、ベッドの横を通って鉄格子の部屋に戻る。オレンジ色の照明に照らされて歩いていると、何か違和感があった。
なんだろう。ここに来た時には感じなかった。
もしかして、ヤンに見つかったのだろうか。いや、もしそうなら、僕はすぐに殺されるだろう。
きょろきょろと左右に首を振ると、鉄格子の中の暗闇で何かが動いた気がした。
恐る恐る、鉄格子に近づく。血のような、錆びた鉄のにおいが鼻をくすぐる。
暗くて中はよく見えなかった。
目を凝らす。すると暗闇の奥に、微かに白いものが見える。
「……っ!」
僕は後ろに飛びのいて、急いで地価の部屋を出た。ざらつく扉を閉めて暗い階段を這うようにして上り、いつものヤンの部屋に戻った。
荒い呼吸を整えて、地下に続く床の扉を閉じる。記憶を頼りに、その上にレコードを配置した。
息を潜めて、ヤンの部屋の入り口から外の様子をうかがう。どうやら階段の下には誰もいないらしい。
はやる気持ちをおさえて階段を降り、早足でそこから遠ざかった。
外は来た時とかわらず、気持ち良く晴れていた。でも、吹き抜ける風は僕の冷汗をさらに冷やした。
自分の部屋に戻って、煙草に火をつけた。手が震えて、なかなか上手く火がつかなかった。
落ち着いて、あの地下室で見たことを整理しようと試みた。スズムラ・ユキや、写真の少女のこと。
でも、今の僕は最後に見た光景が網膜に焼き付いている。
鉄格子の奥、暗闇の中には長い黒髪を垂らした少女たちが何人も座り込んでいた。
しかし、その少女たちには手足がなかった。彼女たちの肩やふともものあたりから先はすっぱりと切断され、手当用の包帯が巻かれていた。暗闇の奥に見えた白は、それだった。
「ヤン……お前は何をしているんだ?」
無骨なテーブルの上に、音も無く灰が落ちた。