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⑥ ルイのナイフ

 覚醒と睡眠の狭間を彷徨いながら、僕の意識はどっちつかずの状況を維持していた。つまり、過去の夢を見るのか、これからの現実を見るのか。

 睡眠というのはどうしてこうも魅力的なのだろう。人間が一番無防備な状態になるというのに、これほどまでに気持ちが良いなんて、神様が仕込んだエラーかもしれない。野生の動物であれば、一日に五時間も六時間も眠ったりはしないだろう。睡眠時間の長さは、自身の生存率の低下に直結するからだ。

 種の存続と関わる性欲が人間の原始的な欲求であるように、人の睡眠欲もまた同じ原始的欲求に挙げられる。それは、睡眠が人の身体を健康に維持するために必要だからだと主張する人がいるけれど、僕には同意しかねる。

 たぶん、これは神様が僕らに与えた選択肢。睡眠に快楽が伴うのは、『本当に目覚めていいのか? こんな気持ちのいいことを辞めていいのか?』と僕らに問いかけるため。今のところ、世の中のほとんどの人間はこの問いに明確な答えを出している。『起きて、現実の世界に足を踏み出す』と。

 でも、それは不公平な問いかけだ。睡眠中の人間は、意識も無く体も思う通りに動かせない。それに、寝ている間の記憶もない。それは、仮死状態のようなものだ。僕らは毎朝毎朝、仮死のままでいるか蘇生するかの選択を迫られているってわけ。でも、僕は死んだことがない。生と死を比べようがないのだ。

 眠ったままでいれば、その仮死状態が続けば、いつかは本当に死ぬことができるのだろうか。面倒な人間関係や、どうしても思い出せない自分の過去や、いつ尽きるかもわからない、自分の人生の残り時間に途方に暮れることと決別できるのだろうか。

 わからない。わからないから、僕らはとりあえず経験がある方を選ぶのだろう。つまり、目を覚まして、下らない現実の中に手を突っ込む方を。今のところ、僕もそちらの選択肢を選び続けている。

 なぜだろう。

 それは、心残りがあるからだ。

 僕を路地裏から引っ張り出してくれて、生きる術を教えてくれた親友。その親友がまだこの世にいるから、僕もしがみついていられる。

 ナツメ。親友であり、命の恩人。

 僕が殺し屋の世界に入ると、ナツメはとても親切にいろんなことを教えてくれた。銃の使い方や、刃物の使い方、どこを狙えば効率良く命を奪えるのか。そして、何よりも重要なことを僕に叩き込んだ。

 それは、仕事の裏を探らないこと。

 殺し屋が銃を向ける相手は、大抵はロク人間ではないという。しかし依頼の概要は伝えられても、どうロクでもないのかは絶対に開示されない。その情報を知ってしまえば、僕らですら銃弾を撃ち込まれるからだ。

 秘密を守りたい奴がいて、他人を殺してでも金が欲しい僕らがいる。ここは歪な需要と供給のバランスによって成り立っている世界なのだ。秘密に手を出そうとすれば、たちまち殺される側に回ることになる。

 スーパーのレジを打つように、トラックの運転手がハンドルを握るように、僕は引き金を引く。自分がレジを打った食材が何の料理に化けるのか、自分が運んだ積荷は何に使われるのかなんて、知っても仕方がないことなのだ。

 なんて下らなくて、面白くないのだろう。

 ナツメ。ナツメと話したい。彼なら、僕のこんな青臭い愚痴を笑って馬鹿にするだろう。金がなけりゃ飯は食えない、飯が食えなきゃ、好きな音楽を聴いても楽しくないだろう、と。

 でも、違うんだ。僕はナツメと、もっと色々な話がしたい。音楽のことも教えてほしいし、ギターの演奏も聞きたい。彼の家族のことや、どんな人生を歩んできたのかも知りたい。記憶が無い僕には、ナツメの人生が輝かしく思えて仕方がないんだ。

 今なら煙草も吸える。ナツメに今度会ったら、煙をくゆらせながら何を話そう。僕を現実の世界にとどめているのは、ホットミルクの表面に張る膜みたいな、そんな薄っぺらい思いだけ。

 ナツメ……。

 ナツメ…………。









「……ン!」「リン!」

 誰かが僕の身体を揺さぶっている。やけに背中が痛い。

「リン! 大丈夫ですか? リン!」

 重たい瞼に命令して、なんとか視界を確保する。ぼんやりと歪む視界の中に、一人の少女が飛び込んできた。端正な顔を歪めて、何かを心配している様子。

「……ルイ? あぁルイか」

「リン? 大丈夫なのですか?」

 僕は身体を起こして横を見る。そうか、ルイにベッドを貸して、僕は床に寝たのだった。

「怖い夢でも、見たのですか?」

 彼女は怯える子供のように僕を見た。

「え……どうして?」

「とても、うなされていました」

「うなされてた? 僕が?」

 ルイはこくりと頷く。

「ナツメ、ナツメ……と」

「あぁ……」思わず顔をしかめる。子供に、情けないところを見られてしまった。

 毛布を横にどけて、立ち上がってキッチンに向かう。煙草が吸いたかった。

「なんでもないよ」

 ルイの顔を見ずにそう言って、煙草の箱から一本抜き取って口にくわえる。火をつけようとしたら、ベッドから無邪気な声が聞こえた。

「ナツメって方、リンの恋人なのですかぁ?」

 三秒ほど固まる。

 気を取り直して火をつけると、いつもより味がわかりにくいような気がした。

「あの、リン? 私は大切なことをお聞きしているのです。ナツメという方は、リンの恋人なのですか?」

 ベッドから出てきたルイは、テーブルの向かい側に座り、姿勢を正した。

「そんなんじゃない。ナツメはただの友達」

「でも……何度も何度もお名前を呼んでおりました……私には、恋人の名前を呼ぶようにしか見えなかったのですけれど……」

 僕は黙って、灰皿の上に積み上げられている吸い殻を見つめた。まったく、このお嬢様は何を言っているのだろう。

「だから、違うって。それにナツメは適当で乱暴な……男なんだ。恋人だなんて、あり得ない」

 僕としては最大級の否定だったつもりなのだけれど、ルイは一層好奇心に駆り立てられたような表情になった。

「そういうの……アリだと思います。私は、大丈夫です」

「勝手に言っててくれ……」

 僕は灰皿の縁を叩いて灰を落とした。

「そのナツメという方も、煙草を吸われるのですか?」

 不思議そうな顔でルイは尋ねる。

「そうだけど……どうして?」

「リンは煙草が似合いませんもの」

「そうかな……」

「そうです。リンはもっと……可愛らしいものが似合います」

「なに、それ……」

「悪い友達に影響されてしまったのですね」

 ルイは腕をテーブルに乗せて、その上に小さな顔を置いた。

「それは否定しないな」

「今からでも遅くはありません、身体に悪いから煙草なんてやめるべきです。リンも、ナツメさんも」

「今度会ったら、そう伝えとく」

「私から言いましょうか?」

「どうして?」

「リンはたぶん、強く言えないと思うので」

 それには答えずに、黙って煙を吐く。

「でも、悪い友達というのは良いですね。私の中学ではみんな良い子なので、面白くありません」

「悪い友達なのに、良いの?」

「はい」

「不思議だね」

「でも、これ以上リンに悪いことを教えないように注意しないと」

「それは大丈夫だと思う」

「なぜです?」

「もう、ナツメにはしばらく会ってない。連絡もない。これから先、会えるのかもわからない」

「どこか……旅行にでも行かれているのですか?」

「どうだろう。あいつは出不精だからね……」

「わからないのですか?」

 無言で肯定の返事。すこし心配したけれど、ルイには伝わったらしい。

「どれくらい会ってないのですか?」

「そうだな……」

 頭の中で途切れ途切れの記憶を引っ張り出す。ナツメが姿を消したのは、繁華街で家出少女の誘拐の噂が流れ始める一ヶ月ほど前。家に行っても不在だし、携帯電話もパソコンも持っていない僕は、連絡の取りようがない。

「二か月くらいかな」

「それは……寂しいですね」

 ルイはまるで、自分が寂しさの真っただ中にいるような顔をした。

 僕の頭の中にはナツメの顔が浮かぶ。

 沈黙で耳が痛いくらいだ。

「コーヒーを、淹れましょうか?」

 ルイは立ち上がり、上機嫌な様子で簡素なキッチンに立った。

「僕はブラックがいいな」

 そう声をかけたけど、何の反応も無い。しばらくすると、消え入りそうなルイの声が聞こえた。

「大変です、リン」

 振り返ると、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。

「どうしたの?」

 唇を噛みしめてから、彼女は言った。

「私、コーヒーの淹れ方を知りません」











 テーブルの上には二つのカップ。一つは白っぽい液体が入っており、もう一つは黒い液体が入っていて、湯気が立ち昇っている。ルイは両手でカップを持ち、白っぽい液体をゆっくりと喉に流し込んだ。

「わかった? インスタントだから簡単だよ」

 僕がそう言うとルイは小刻みに首を縦に動かした。

「はい。とても勉強になりました。自宅では、飲み物はお手伝いさんが用意してくれるのでやったことがなかったのです」

 カップにインスタントコーヒーの粉末を入れて、お湯を注ぐ。その後、ルイのカップにだけ砂糖やクリープの類を入れた。横でそれを見ていたルイは、魔法でも見るような目つきで喜んでいた。

 僕は苦い液体を味わい、今日二本目の煙草に火をつけた。ぼんやりと煙を眺めながら、ルイをどうやって家に帰そうか考える。このまま追い出してもいいけれど、また繁華街でロクでもないやつらに絡まれるのは目に見えている。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、静かなキッチンに気の抜けた音が響いた。視線を向けると、ルイが俯いている。

「あの……リン。私……」

「うん、わかるよ」

 僕は煙草を消して立ち上がり、昨日履いていたズボンのポケットから紙幣を取り出した。でもそれは雨でひどく濡れていて、使う気になれない。仕方がないので、束の中かな新しいものを一枚抜き取った。

「食事に行こう」




 外に出ると、昨日の雨とはうってかわってこの日は快晴だった。空は抜けるような秋晴れで、風も乾燥している。

 横を歩くルイが着ている服も履いている靴も、僕のものだった。なんだか妹ができたみたいだ。

「何を食べるのですか?」

 両手を後ろに組みながらルイが聞いた。

「そうだな……僕がよく行く店があるから、そこにしよう」

 細い道を抜けて、一度大きな道へ出る。夜になると活気を増す繁華街は、太陽が出ている間は休暇らしく、人はまばらだ。

「昨日と、イメージが違いますね」

 ほとんどの店はシャッターを下ろしていて、看板もネオンない。昼間の間は繁華街よりも、国道を挟んで反対側にあるビジネス街のほうが活発に活動している。夕方の決まった時間になると全ての活動を停止するビジネス街は、僕からしてみれば考えられないくらいに規律正しい街だ。

 僕は肩越しに、規律正しい街を親指で示した。

「あっちのほうが、小奇麗でまともな食事を出す店が多い。どうする?」

 しかしルイは首を左右に振る。

「リンが普段食べているものが良いです」

 国道に背を向け、細い道へと入る。しばらく進むと、油や煤でひどく汚れた店の外観が見えてきた。野菜や食材が入っていたであろう段ボールが横に積み上げられていて、それは前日の雨に濡れて崩れかけていた。

 店の前まで来ると、看板には『クラッド』とある。僕の持論だけど、飲食店の味のレベルは、衛生管理のレベルと反比例する。その論法でいけば、クラッドの外観には何の文句もない。

「ここ……ですか?」

「カツカレーが美味いんだ」

 不安そうなルイを横目に、扉を開ける。客が来たというのに、店主は壁に取り付けられたテレビに夢中だった。

「ゴウさん」

 僕が呼ぶと、店主は大きな身体をこちらに向けた。

「おお……リン。どうした?」

「どうしたじゃないよ。ここは飯屋だろ」

 カウンターの席に座り、大げさに肩をすくませてやると、ゴウさんは汚れだらけのコック服の襟を正した。

「お、今日はお客さんもいるし……ちゃんとしなきゃな」

 ゴウさんは無精ヒゲまみれの顔を歪めて笑う。その視線の先にはルイがいた。彼女はまだ店の戸口に立っていて、目を丸くして店内を見渡している。

「ルイ、座りなよ。ここは汚いけど、食事は美味いんだ」

「そうだよ嬢ちゃん。うちは掃除する時間も惜しんで、味を良くしているからな」

「テレビを観る時間は確保するんだね」 

 ルイは軽く会釈をし、僕の横に座る。テーブルに手をついてから急に手を引っ込め、僕に耳打ちをした。

「リン、なんだかここ、ベタベタします」

「カウンターがべたつく店ほど美味いんだ。覚えておくといい」

 

 僕が皿を空にしても、ルイの皿にはまだ半分以上の料理が残っていた。それは決して彼女が小食だったり、食べるのが遅かったわけじゃない。ゴウさんが矢継ぎ早に話しかけるから、なかなか進まなかったのだ。

「じゃあ、リンのお手柄だったんだなぁ」

「そうです。リンがいなければ、今頃私はどうなっていたか……」

 そこで話が一区切りついたので、ルイはようやく食事に集中し始めたようだ。

 カウンターの中で満足気に煙草をふかしているゴウさんの後ろで、テレビの画面は繁華街を映し出していた。制服を着た警官が繁華街の住人に聞き込みをしたり、手に持ったファイルに何かを書き込んでいる様子を、遠目からカメラで撮っていた。画面の隅には『中継』と出ている。

「これ、少し大げさじゃねぇか?」

 ゴウさんは眉根を寄せて画面を見ている。

「これは何を調べてるの?」

 僕が聞くと、ゴウさんは腕を組んで話し出した。

「ホレ、最近よくある、家出娘の誘拐だ。しかし……こんなに人手をかけるかねぇ……警察も暇なんだな」

「税金を余らせたくないんだ、きっと」

 ゴウさんは煙草を決して、カウンターへ身を乗り出した。

「ここだけの話……この誘拐の黒幕は、金持ちの変態だと俺は思うね」

「どうして?」

 誘拐に関する噂の出どころはゴウさんだったのか。でも、僕は何も知らないフリをした。こうした演技が、人間関係に必要な潤滑剤になることを、僕は知っている。

「だってよ、この辺には家出してくる奴なんて昔っからたくさんいたじゃねぇか。でも誘拐なんてほとんど無かった。そんなことしても一銭の得にもならねぇからな。でもよ、最近は家出娘が消えすぎだろ。ここ一ヶ月でお前、何人消えた? これだけ派手に人さらっておきながら、警察が犯人の目星もつけられないってのはおかしな話じゃねえか。だとしたら考えられる結論は一つだけだ。金持ちが女の子さらって、警察に札束渡して見逃してもらってるってことよ」

「それは……」

 僕は横に座るルイに意識を向けた。さっきのゴウさんとルイの会話に、ルイの素性は出てきていない。ゴウさんの意見は、ルイの親族に対する疑惑ともいえる。

 しかしゴウさんはそんなことに気が付くはずもなく、話を続ける。

「そんで、警察に金渡して見逃してもらえるほどの金持ちと言やぁ……あそこだろ」

 ゴウさんは店の外に視線を向ける。黄色く汚れた窓からは、薄汚れた繁華街の地面からそびえたつ高層ビルが見える。

 オギノメグループ。それが、あのビルを所有する企業の名だ。ほとんどの大企業がビジネス街に本社ビルを建てているなか、オギノメグループだけはこの繁華街に本社ビルを構えている。

「昔は、あんなでっかい会社じゃなかったんだけどなぁ。それがどんどんでかくなりやがって、今じゃこの国で一番の大企業様だ。リン、知ってるか? あのビルの最上階には滝があるって噂だぜ。社長様が住んでる部屋だ」

「でも……それは噂でしょう?」

「でもよ、火の無い所になんとやらって言うじゃねぇか。オギノメは悪い噂が尽きねぇ。だから、あっちの街じゃ仲間に入れてもらえなくてこっちにビル建てたって噂だぜ」

 確かに、オギノメグループにまつわる剣呑な話は聞いたことがある。僕みたいに世間の情報に疎いやつでも、本屋で見かける週刊誌の見出しや、たまに見かける本社ビル前でのデモ活動でそれは知っている。違法な手段で金を稼ぎ、それを元手に敵対企業と取引をしているだとか、自社が成長する過程で、僕らみたいな日陰者と関わりがあっただとか。そんな噂がある中でこの繁華街に本社ビルを新設したことで、オギノメグループに疑惑を向ける意見はさらに増えただろう。

 でも、それは急成長を遂げた同企業への嫉妬や、やっかみの域を出ないものだと思っていた。つまり、家出少女の犯人に関する噂話と同じレベルだろということ。

「何にしろ、僕らには関係がない話だよゴウさん」

 

 ルイが食事を終えたので、僕らはクラッドを出た。ゴウさんはまだ話し足り無さそうにしていたけれど、この辺が潮時。

 来た時と同じ道を歩いていた。時間は正午過ぎ。

 それまで黙っていたルイが口を開いた。

「あのゴウさんという方も、リンの友達なのですか?」

「友達ってほど親密ではないけど……」

「リン……あの方が言っていたことなんですけれど」

「え?」

「ほら、誘拐犯が警察にお金を渡して、犯罪を見逃してもらっているという……」

「あぁ……気にしなくていいよ。暇だと何でも、うがった見方になってしまうから」

「いえ……そうではなくて」

 ルイは足を止め、僕の方を見た。

「お父様が言っていたのは、そういうことだったのかもしれません」

「どういう……こと?」

「見えるものを見ないで、見えないものを必死に現実だと思い込もうとしている」

 ルイは静かにそう言った。

「あぁ……それが『警察が誘拐犯と金で取引をしている事実』を示しているってことか。でも、どうだろうなぁ」

「なんです?」

「ルイのお父さんは誘拐事件を解決しようとしているんでしょ? つまりその……見せかけじゃなくて」

「はい。お父様は本気で誘拐事件に取り組んでおります。それは間違いありません」

「じゃあ、取引は成立していない。それなら警察は金だけ受け取って、そのうえで犯人を逮捕しようとしているってことだもの。そんなこと、するかな」

「しかし……」 

「何かあるの?」

「もし、お父様よりも立場が上の人間がお金を受け取っていたら……そして、そのことを警察内部でも秘匿していたならばどうでしょう。お父様はそれに薄々勘付いて、あのようなことをおっしゃったのかもしれません」

 ルイは俯き、汚れた地面を見た。

「だから、意地になってこの誘拐事件を解決しようとしていらっしゃるのかも……」 

 ルイの表情がどんどん曇っていく。

「もしそうだとしても、ルイのお父さんは本気で事件を解決しようとしてるんでしょう? だったら、何も気にする必要はない」

「そうですが……嫌なのです」

「なにが?」

「正義が……守られないことがです」

 彼女の視線に、圧力を感じた。まるで小さなナイフを突きつけられたようだ。その大きな瞳は鋭い切っ先となって、僕の喉元に向いている。

「警察というのは……正義を守るための機関でしょう。それなのに、犯罪を見逃すなんて……あって良い事ではありません」

 なんとか視線のナイフをいなし、僕は口を開く。

「人間には、色々な種類がある。僕もルイも、様々な間違いを犯して生きてきたはずだ」

「しかし……」

「大人になるとね、知っていても手をだせないこともある」

「それはわかります。でも警察という機関は、人の自浄機関であるはずです。理性、良心、道徳、戒め。人が備えるこれらの機能が、警察という自浄作用をつくりだしたはずではありませんか。それなのに……」

 ルイの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。小さな手はかたく握られ、頬は紅潮している。

「でも、なにもできない」

 僕はため息をついた。まったく、我ながらロクな大人じゃない。

「ルイの言っていることは正しいし、僕も反論はしない。でも、現実的でもない。いくら僕らが憤ったところで、金を受け取るって便宜をはかるやつがいれば、金を渡して良い思いをするやつもいる」

「ですが!」

「それに、今回はたまたま気が付いたと言うだけで、同じようなことは世の中にいくらでも溢れている。それらすべてに憤っていたら、怒っているだけで一生を終えてしまうよ」

 無理をして、笑ってみせた。でも上手くできたかは怪しい。こんな詭弁、僕がルイの立場だったら到底納得できない。言ったやつを軽蔑するかもしれない。

「……リンも、私やお父様やお姉様と同じ思いをお持ちだと思っていました」

「え?」

「意味がなくても、世の中の上澄みを削るような作業でも、正義を貫くために仕事をしているのだと思っていました。そのためのに、ゴミを片付けているのではないのですか?」

 何も言い返せなかった。

「だから……私を助けてくれたのではなかったのですか?」

 今のルイは、すがるようにして僕を見ている。自身の中にあるリンという人物像と、実際の僕とを比べているのだろう。

 先程のナイフの様な視線よりも、今の目のほうが僕にはこたえる。

「僕は……」

 どうしてルイを助けたのだろう。どうして、一銭の得にもならないことをしたのだろう。面倒なことに巻き込まれるだけだと知っていながら、どうしてあのとき、歩く道を変えなかったのだろう。

 簡単だ。過去の僕に、ルイを重ねていたのだ。路地裏で襲われているルイを、ナツメに拾われたときの自分と重ねていたのだ。

 助けたかったわけじゃない。良心に突き動かされたわけじゃない。

 ただ、勝手に身体が動いていたのだ。

「もう、いいです」

 そう言って、ルイは駆け出した。

「ルイ!」

 しかし、彼女は止まらない。角を曲がって、走り去ってしまう。

 僕は追いかけることができなかった。

 追いかけてはいけないような気がした。


 ため息をついて顔を上げると、空が抜けるように青かった。

 僕の気も知らないで、ただどこまでも青かった。

 



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