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➄ ナツメ

 また、夢を見ている。はっきりと自覚があるのは、この光景に見覚えがあるから。

 夢の中で僕がぼんやりと歩いているのは、夜の繁華街。でも、このときの僕は繁華街のことなんて何もわからなかった。今と違って髪が長い。

 

 どこに行けばいいのか、自分が誰なのか、ここがどこなのかすらわからなかった。何だか不穏な目付きの外国人や、ずっと僕の方を見ているスキンヘッドの男が怖くて、僕は人がいない方へと進んでいった。明るいコンビニを避けて、ネオンの光を嫌い、とにかく暗いところへ。とにかく一人になれるところを探して歩いた。

 ゆっくりと考えないといけない。自分が置かれた状況を把握しなくてはいけない。

 暗い路地裏を見つけて、逃げ込むように入った。その先は行き止まりで、右手には廃墟と化したビルの入り口、左手にはコンクリートの壁があるだけだ。僕はビルの入り口の短い階段に腰掛け、膝を抱えた。周辺には様々なものが散乱している。折れた材木や、割れた酒の瓶。

 気が付いたら、繁華街の真ん中にいた。繁華街に来る前のことを思い出そうとしても、頭の中に霧がかかったみたいではっきりしない。自分の名前も年齢もわからない。

 怖くて仕方がなかった。

 これからどうすればいいのだろう。お金もないし、携帯電話も無い。交番に駆け込めば助けてくれるのだろうか。

 すっかり混乱していた。頭の中の引き出しから、記憶という中身が全て消えてしまったみたい。

 しばらく考えていると、遠くから二人分の声が聞こえてきた。男の声だ。

 冷静に考えたら、誰かに助けを求めるべきだろう。交番の場所を教えてもらろう。

 のろのろと立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。身体がふわふわしていて、上手く歩けない。

 二人組の男は僕の姿を見つけ、こっちに向かって歩いてきた。

 あぁ、助かった。

「あの……すみません、この辺に交番はありませんか?」

 しかし二人組の男はにやにやと笑うだけで、質問には答えない。

「あの……」

 僕の言葉を無視して、片方の男が口を開いた。

「君、一人なの? ふらふらだけど酔ってる?」

「よ、酔ってません。それよりも、交番の場所を……」

 もう一人の男も口を開いた。

「ねぇ、教えてやるから金くれない?」

「財布も携帯も無いんです。なので、交番を……」

「ホントかぁ?」

 初めに話した方の男はそう言うと、急に僕の腕をつかんだ。

「ちょっと、調べさせてもらおうかな」

 するともう一人の男は僕の後ろに回り、僕は両腕をつかまれ、羽交い絞めにされてしまった。

「この辺には人が来ないから。ゆっくり調べものができる」

 正面の男の手が、僕のシャツに伸びる。それが気持ち悪くて、力いっぱい抵抗した。上半身を左右に揺さぶったり、何とか腕を抜こうと力を入れたり。

「大人しくしてろよ」

 左の頬に衝撃が走り、すぐに熱くなった。自分が殴られたのだと気が付くまで、少し時間がかかった。

「大人しくしれば、すぐに終わる」

 後ろに回った男が湿っぽい声で囁く。

「そうそう、早くて困ってるくらいだから」

 二人の男は下品な声で笑った。

 それから僕はシャツを破かれ、ベルトを外されて全身をまさぐられ、触られた。太ももや、腹や、胸や、尻。最後の方には、もう抵抗する気力も湧かなくなっていた。

 怖くて無力で情けなくて、いっそのこと早く終わってくれればいいとすら思った。スモッグのようなものが覆っている空を見上げて、どうして自分がこんな目にあわなければならないのかと恨んだ。

 でも、何を恨んだのだろう。この下品な二人の男をだろうか。

 なすがままにされていると、正面の男の手が僕のズボンにかけられた。咄嗟に足をよじって抵抗しようとしたけれど、一瞬で脱がされてしまった。目の前の男も自分のベルトを外し、下着をずらして性器を出そうとしている。

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。いや、空っぽになったのかもれない。

 顔と耳が熱くなり、喉が渇く感覚。視界が白や黒や赤に目まぐるしく染まって、必死に身体を動かしていた。

 次に気が付くと、僕は転がっていた材木を握っていた。余程力を入れていたのか、指の関節が痛む。

 周囲に視線を向けると、僕を羽交い絞めにしていた男と、もう一人の男が倒れている。羽交い絞めにしていた方は、頭から血を流していて、ぴくりともしない。

 脚が震えた。

 何が起きたの理解できずに立ち尽くしていると、血を流していない方の男がくぐもった声を上げた。見ると、腹を押さえながら全身を動かし、立ち上がろうとしている。

 僕は、持っていた材木を放り棄てて、今度は割れた酒瓶を手に取った。

 そのまま男に近づくと、脚だけではなく全身が震えだした。ほとんど痙攣といっていいくらいだ。

 男は僕を見て、顔をひきつらせた。口が動いて何か言葉を発していたけれど、ほとんど聞きとれない。僕のほうも、聞くつもりはなかった。

 男の前まで来て相手を見下ろしたとき、自分の身体が震えている理由がわかった。

 これは、嬉しいのだ。

 自分を虐げ、理不尽に踏みにじる存在を排除できる喜び。それを感じて、心臓が高鳴る。

 割れた酒瓶を振り下ろす瞬間は何も考えていなかった。衣服が邪魔でなかなか突き刺すことができないなとか、余計な抵抗をされたら面倒だなとか、それくらいのことは思ったかもしれない。しかし、その時の僕には道徳的な考えは一切残ってはいなかった。

 相手の血液で右手がすべり、上手く瓶を扱えない。それでも、うめき声や命乞いの言葉が完全に途絶えるまで瓶を振り下ろし続けた。やがて完全に相手が沈黙すると、身体の震えも収まった。まるで、一仕事を終えてタイムカードを押した労働者のように。

 二人の男が息絶えた現場で僕は立ち尽くした。服には返り血がついていたし、自分の身体についた彼らの体液が気持ち悪い。それでも、この現場から離れたくなかった。

 これは、僕が戦った現場だから。

 自分の足で立てたという、何よりの証左だから。

 出来れば写真でも撮って、部屋の壁に飾っておきたい。

 浅い呼吸で男たちを見下ろしていると、背後から声がかけられた。

「お前……」

 突然の声に驚き、振り返る。そこには背の高い男が立っていた。柄物のシャツを着ていて、口には煙草を咥えている。

「お前が殺したのか?」

 僕が頷くと、男はゆっくりと近づいてきた。顔には感情がなく、殺人の現場に出くわしたのにも関わらず、平常心であるように見える。

「あんた、誰?」

 男は僕の質問には答えず、地べたに倒れている二人の男を交互に見て、小さくため息をついた。それから顎に手を当てて何かを考えている様子だった。

「一緒に来い」

 咄嗟に、僕は瓶を握りなおした。それを正面に構え、男と対峙する。すると、男は口元を上げた。

「お前はどこから来た? 名前は?」

「教えると、何かいいことがあるの? 例えば、こいつらみたいに僕の身体を触ったり?」

 男はシャツの内ポケットから煙草の箱を取り出し、一本を抜き取って僕に差し出した。

「屋根のある部屋と、飯を用意してやる。味は保障しないけどな。それに、着替える必要もあるだろ」

 男は不思議な雰囲気だった。血で染まった瓶を向けられても、何でも無いような顔をしている。

「信用なんてできるか」

「しなくてもいい。でも、これでお前は人殺しだ。犯罪者だ。もう、まともな生活はできない」

「元々、まともなんかじゃない」

「適当なことを言うな。何も覚えていないんだろ?」

 僕が黙って睨んでいると、男はさらに近づいてきた。

「まずは、一服しな」

「煙草なんて、吸ったことない」

「それだって、覚えてないだけかもしれない」

「……わかったよ」

 瓶を捨てて、おとなしく煙草を受け取った。男に火をつけてもらって、煙をめいっぱい吸い込む。

「げぇっ!ごほっ!……ごほっ……なんだよこれ、全然美味しくない」

 身体の中に毒の塊が入って来たみたいだった。それに、煙が目にしみる。

「やっぱり、初めてだったのか」

 男は微笑みながら僕を見ていた。

「だから言ったじゃないか……もう、こんなの」

 僕が手に持った煙草を地面に捨てると、男はさらに笑った。そして柄物のシャツを脱ぎ、白いタンクトップだけになった。

「これを着ろ。血がついたままじゃ、どこに行っても目立つ」

「嫌だよ、煙草くさそう」

「ごちゃごちゃ言うな」

 渋々、彼が渡してきたシャツを着る。サイズが全然合ってないし、やっぱり煙草の匂いが染み付いていた。

「よし、行くぞ」

「え? どこに?」

「ネズミの、巣にだ」

 



 男はナツメと名乗った。ナツメの家は繁華街の端にあり、近くには汚い川が流れていた。一人暮らしで、部屋の中には色々なもので溢れていたけれど、一番目をひいたのは大量のCDとレコードだった。それは壁に埋め込まれた大きな棚にも入りきらずに、床にも置かれていた。タイトルやアーティスト名を見ても、僕にはわからないものばかり。でも、そのほとんどは海外のものらしいことだけはわかった。ブックレットに写っているのはどれも黒人だし、タイトルはすべて英語だったからだ。

「これからお前は俺の仕事を手伝え」

 大きなテーブルを挟んだ向こう側に座ったまま、ナツメはそう言った。

 薄いインスタントコーヒーをすすながら、僕はナツメの方を見る。

「仕事? なんの?」

「お前がさっきやって来たことだ」

「……人殺し?」

 煙草を咥えて、頷くナツメ。

「そんなこと、仕事として成り立つの? 警察に捕まらない?」

「大丈夫だ」

 やけに自信がある様子だった。

「どうしてわかるの?」

「それを話すには、こちら側の人間になってもらわなきゃいけない」

 言葉に詰まる。

「大丈夫だ。割れた瓶と木の棒で男を二人殺せるくらいなんだから、素質はある」

 ナツメは笑って僕の横にきて、肩に手を置いた。

「そういうことじゃないよ」

 その手を払いのけて、ナツメの目を上目遣いに見た。

「あの時は仕方なくあぁしたんだ。そうでもしなきゃ、もっとひどい目にあっていた。別に人を殺したかったわけじゃない」

 そう言ってから、少し後悔した。だって、僕はあんなにも喜んでいたではないか。身体を震わせてまでも。

 ナツメは灰皿の上で乱暴に煙草を決して、顎に手を当てた。

「でも、帰る場所も行く先も無いんだろ? それに、事情はどうあれお前は人を殺した。それも、二人だ。あの路地裏であったことを警察が見ていたら正当防衛も成り立つかもしれないが、誰も見ていないんだろ? 普通に考えれば、家出してきた若者が路地裏で喧嘩になって、相手を殺した、と見る」

「でも……」

「大丈夫だ、俺を信じろ」

 彼は歯を見せて笑った。煙草の吸いすぎか、少し黄色い。

「お前は頼る人もいないし、自分が誰かもわからない。それでも、生きていくことはできる」

「……ナツメの仲間になれば、でしょ?」

 彼は頷いた。

「……わかった。やるよ」

「よし」

 ナツメは僕の頭をがしがしと乱暴に撫でた。いくら抵抗しても、彼の力が強くて無理だった。

「大丈夫だ。少なくとも、路上で生活したり刑務所に入る様なことにはしない」

 そう言って、ナツメはまた煙草を手に取った。

「吸いすぎじゃない? 身体に悪いよ」

 僕がそう言うと、ナツメは目を細めた

「そう、ゆっくり自殺してるんだよ」

「なにそれ、くだらない」

 壁に埋め込まれた棚に目を向けた。室内の蛍光灯の光を反射して、背表紙が白く光っている。

「音楽、好きなの?」

 僕の質問に、ナツメは首を傾げる。

「うーん、少し違うな」

 僕は意味がわからず、ナツメの顔を見た。

「俺は別に音楽が好きなわけじゃない」

 そう言って、彼は立ち上がった。僕の前を横切って棚の前まで移動して、ぎっしりと詰められたCDを眺めた。

「俺が好きなのは、ブルースだ」

「ブルースって……黒人が歌うやつ?」

「そう。奴隷が生み出したとか、年代や地域や形式で呼び方が違うとかで面倒な、あれだ」

「どう違うの?」

「音楽の名前分けやバックボーンなんて、ほとんど無意味なもんだ。デルタ・ブルースとか、シカゴ・ブルースとかな。ファンクやジャズなんかと近いものもあるし、実際、意図的に合わせたものもあるけど、そんなこともどうでもいい」

「そうなの? そういうの好きな人って、こだわりがあると思ってたけど……」

「音楽の良いとろは、頭を休ませることができるってことだ。それなのに、この曲のイントロはこいつのギターリフからもじってるとか、この地域から派生したからこう呼ばれているとか覚えても、本末転倒だろ?」

「よくわからないけれど……」

「なんでも良いんだ。俺が良いって思ったブルースは、全部良いブルースなんだから」

 ナツメは棚から一枚のCDを抜き取り、部屋の隅に置いてあるプレーヤーにセットした。そして、押し入れから大きなボディのギターを取り出した。木の模様がとてもきれいで、ぴかぴかに光っている。

「俺は親父とはあまり仲が良くなかったんだけどよ、音楽の趣味だけは同じだったんだ」

「それが、ブルース?」

 ナツメは頷く。

「何度も親父からCDを借りて、辞書とにらめっこして歌詞の意味を調べたりもしたなぁ。ま、大抵は調べるほどのことは歌ってなかったけどな」

 ふっと笑って、ナツメはプレーヤーのスイッチを押した。

 ぷつぷつと何かが途切れるような音に混じって、布がこすれるような音がスピーカーから広がる。

 ナツメはギターを抱えて座り、音を確かめるように弦を弾いた。

 そしてCDの演奏が始まると、それに合わせて弦を弾き、特徴的なフレーズを口にした。


『Boom,boom,boom,boom』

 

 一通り歌い切ると、ナツメは僕の方を向いて口角を上げた。

「この曲がよ、俺も親父も好きなんだ」



 

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