④ ルイ
老女が受付に座ってるラブホテルを出て、僕らは少しでも人通りの多い方へと進んだ。念のため、何度か回り道をしてみたけれど、あの執念深い尾行は上手くまけたようだ。少女は裸足のまま(正確には、かなりメルヘンな靴下をはいていた)で何気ないように歩き、雨に濡れるドレス姿の少女は人目を引いた。
傘を置いてきたので、二人ともネズミみたいに雨に打たれて歩いた。彼女は僕が持っているスーパーの袋に興味があるらしく、ちらちらと横目で視線を向けていた。買い物をしてきた帰りなんだ、と言うと、彼女は口元に手を当てて「これが……お買い物というものですか」と言った。
行先にアテが無いので、ひとまずは僕の家に連れて帰ることにした。尾行をまいてしまうと、お互いに話すことがなくなってしまい、無言の散歩だった。
細かい道に入り、ちかちかと点滅する街灯の下を通り過ぎる。しばらく歩くと、古いフォークシンガーを思い出させる安アパートが見えてくる。それが、僕の家だ。
玄関に入るなり、戸惑う様子の彼女。
「あの……ここは?」
「僕の家だ。狭くて悪いけど」
「ここに……住んでらっしゃるの?」
彼女は目を丸くして部屋の中を見回した。
「何というか……監獄のようです」
「まぁ、大きな違いはないよ」
僕の部屋は、よく言えばシンプルで、見たままを言えば殺風景だ。壁にロックバンドのポスターは貼らないし、偽物の観葉植物も無い。家具は耐久性を優先した無骨なものしか置いてない。蛍光灯の光が苦手なので、滅多に明かりはつけない。
「監獄だ。出入り自由のね」
「ごめんなさい、そういうつもりでは……」彼女はそこで言葉を止め、僕をまっすぐに見た。
「助けていただき、本当にありがとうございました」
そう言うと身体の前で手を組み、頭を下げた。
「本当に、驚きました……あんなこと、ドラマか映画でしかないことだとばかり……」
「僕もだ」
「でも、なんだかとても慣れていらっしゃる感じでしたけれど」
「ああいう連中の扱いは慣れてる。でも、ドレスを着た女の子を逃がすのは初めてだ」
「とても、お上手でした」
少女は口角を上げてにっこりと笑う。
「それより……僕ので良ければ服を……」
「僕?」
彼女は首を傾げた。
「何かおかしい?」
「いえ……」
確かに僕はもう成人を迎えている大人だ。彼女くらいの年齢の女の子からしてみれば、大人が自分を『僕』と呼ぶのがおかしいと感じるのかもしれない。
「ひとまず濡れた服は、そこのカゴに入れようか。代わりの服は僕が用意するから、少し待ってて」
「では……お世話になります」
再び彼女は深く頭を下げた。
なんだか、調子が狂うな。
僕は部屋に戻り、クローゼットの中にある少ない服を物色した。幸い、僕はかなり小柄なので服のサイズは心配ないだろう。無難な組み合わせの服を何パターンか用意しておこう。
それにしても、彼女の服装には驚いた。これでもかというくらいにフリルがついたドレスは白と黒を基調としていて、肩のところが少し膨らんでいるデザイン。ソックスは白のハイソックスで、近くで見ると細かい刺繍が施されているのがわかる。
ゴシック・ロリータ、というやつだろうか。
実物を見たことがないのでわからないけれど、たぶんそうだろう。個人の趣味に文句を言うつもりはないし、服は彼女にとても似合っていたけれど、あんな格好で深夜の繁華街をうろついていたら目立つ。それに、彼女は長い黒髪だ。噂で聞いた誘拐被害者の特徴と重なる。
彼女も家出をしてきたのだろうか。
服を持って玄関まで行くと、とんでもない光景が目に飛び込んできた。
「あの……何をしてるの?」
僕がそう言うと、彼女はきょとんとした顔をした。
「言われた通りにして待っていたのですけれど……」
今の彼女はロリータ調のドレスを脱いで、下着姿だ。暗闇に細い白い手足が浮かんでいる。
まったく身体を隠すつもりは無いらしく、堂々とした立ち振る舞い。
「あの……私、何かおかしなことをしましたでしょうか……」
「いや、君は確かに僕の言った通りにしてくれた。でもね」
「でも?」
「君は若い女の子だし、良く知らない他人の前でそんな恰好をしてはいけないと思う」
「そう……なのですか?」
「お母さんから聞かなかった?」
「何をでしょう?」
「いや……とにかく、ひとまずシャワーを浴びて。風邪をひいてしまう。着替えは置いておくから」
「何から何まで、すみません」
彼女がバスルームから出てくると、まるで子供だった。こうして改めて見ると、顔に色濃く幼さが残っている。僕が用意したパーカーを着ていて、少し袖を余らせている。
「ありがとうございます。温まりました」
タオルで髪を拭きながら、心底安心したような顔をする。
「服のサイズは大丈夫?」
「はい。ぴったりです」
彼女をキッチンの無骨な椅子に座らせて、コーヒーを二人分用意する。彼女に、ミルクと砂糖はいるかと聞いたら、両方たっぷりお願いします、と返って来た。
「まずは、名前を聞いてもいい?」
彼女は両手でカップを包むようにしたまま答える。
「ルイです。カシワギ・ルイと申します」
「それで、ルイはどうしてあそこにいたの? 子どもが出歩く時間じゃないよ」
ルイはカップから手を離して言った。
「あの、お名前をお伺いしても?」
「あぁ……僕はリンだ。みんなからそう呼ばれている」
「みんなとは……お友達ですか?」
「少し違うかな……しいて言うなら、仕事仲間だ」
「リンは、どんなお仕事をされているのですか?」
「僕のことは、いいんだ」
まさか、人を殺して金を貰っているとは言えない。
しかし、ルイは好奇心の煙を立ち昇らせるようにして身を乗り出した。
「聞きたいです。助けていただいた方のことですから」
じっと僕の顔を見つめる、二つの大きな瞳。
まったく……何か話すまで、この瞳からは逃げられそうにない。
「僕は……人から頼まれて、邪魔なゴミを片付ける仕事をしている」
「ゴミ、ですか……。それはどのような方から頼まれるのですか?」
「僕に仕事を依頼してくるのは、奇妙な男なんだ。ひどいくらいに痩せていて、指には外国の言葉で刺青がしてある。いつも真っ暗な部屋にいて、床にはレコードが散乱しているんだけど、あいつが音楽を聴いているのを見かけたことは無い。たぶん床に穴があいてるんだね。それを塞いでるんだ」
ルイは口元に手を当てて笑う。
「その方は面白い人なのですね。それで、ゴミというのはその……どういったものなのですか?」彼女はスプーンを回しながら言う。「私、あまり家から出ないもので……その、世間知らずなのかもしれません」
「そうだな……」
僕は今まで銃弾を撃ち込んできた人間を思い浮かべる。初めて仕事をした相手は、ケチなチンピラだった。そいつは、危ないやつらが経営する風俗店から金を持ち出して逃げた。僕の初仕事は、それを回収するという内容。チンピラは、見せしめの意味も含めて僕に撃たれたのだ。
「存在するだけで、人に迷惑をかけるものというのが、この世にはある。そういうのを僕はゴミと呼んでいて、誰かから頼まれれば片付けるんだ」
「では……人のためになる仕事なのですね」
ルイは胸の前で両手を合わせ、大げさな様子で表情を明るくした。
彼女の無邪気な顔を見る僕は、どんな顔をしているのだろう。
「そうかもしれない。でも、誰かが喜ぶことでも、他の誰かは歓迎しないこともある」
僕は何を偉そうなことを言っているのだろう。僕がやっている仕事なんて、他人の命を金に換えているだけのものなのに。
「それは……わかります」
ルイは押し殺すような声で言った。
「私のお父様も、他人のためになる仕事をしていると聞いています。でも、それに反対する人も多いと……」
「お父さんはどんな仕事を?」
僕の言葉は壁に吸い込まれたみたいにどこかへ消えてしまった。ルイは黙って下を向き、何も言わない。
まぁ、いい。誰にでも言いたくないことくらいはある。僕だって、人に言えないことばかりだ。
「リン、パントマイムは好きですか?」
「好きでも嫌いでもないけれど……どうして?」
「お父様が、言っていました。今の社会はパントマイムの逆をしている、と」
「どういう意味?」
「えっと……私にもよくわからないのですけれど……見えているものを見ないようにして、本来は見えていないものを必死に現実だと思い込もうとしている、と」
「よく……わからないな」
「私にもわかりません。でも、お父様はとても大事な仕事をしているらしいのです。社会を本来の姿に戻すために」
「本来の姿……」
「どういうことか、リンにはわかりますか?」
何かの比喩だろうか。それとも皮肉なのだろうか。どちらにしろ、僕にはよくわからない。
「ごめん。僕にもわからない」
ルイは肩を落として、カップの縁を指でなぞった。
「そうですか……お父様は、私も大人になればわかると仰っていましたけれど……」
「世間には色々な大人がいる。僕みたいに夜中に野菜を買いに行くようなやつもいる」
「私……お野菜は太陽の下にあるほうが好きです」ルイはテーブルに置かれた買い物袋をちらりと見た。
「僕もそうだ」
部屋の隅から新しい煙草を持ってきて、再び椅子に座った。すっかりコーヒーは冷めている。
「吸ってもいいかな?」
「リンのお家ですから。ご自由に」
遠慮無く一本を抜き取り、火をつけた。煙が放浪息子みたに立ち上がり、やがて消えていった。
「私のお父様が吸っているのと違いますね」
珍しそうに僕の方を見ながらルイが言った。
「煙草なんて吸わないほうが良い。お父さんにはそう伝えておいて」
「お父様はもっと、大きな煙草をいつも咥えています」
「それはたぶん葉巻だね」
「はまき?」
ルイはイノセントに首を傾げる。
「ルイの父さんが吸ってる葉巻一本分の値段で、僕の煙草を五箱は買えるよ」
安い煙をもう一度吸い込み、煙草を灰皿に置いた。
「それで、話を戻すけど……どうしてあんなところにいたの? あそこは、若い女の子が安心してうろつける場所じゃないよ」
「別に、遊んでいたわけではありません。私は……実際に見てみたかったのです」
「何を?」
「繁華街をです」
「どうして?」
「お父様が……最近お仕事で繁華街の事件を担当しているらしいのです。何人もの仲間に指示を出して、毎日この街を調べていると。それで、お話に聞くだけではなく、私も実際にこの目で見たくなったのです」
「それは遊んでいるのとは違うの?」
「違います。これは……そう、警邏です」
「警邏? パトロールのこと?」
「そうです」
「ルイのお父さんって……」
「お父様は、警察官です」
思わず、煙草を落としそうになった。僕の目の前にいるのは、僕みたいな連中を取りしまる警察官の娘だ。それも、交番であくびをしているような連中じゃない。他人に指示を出して、動かす役職に就いている。
ルイはカップを持ち、残りの液体を飲み干してから言った。
「ですから、リンと同じです。人のためになるお仕事なのです」
ルイが僕のベッドに入ったのは、それから一時間後だった。僕は毛布にくるまって、床で横になっている。クッションを置いて、そこに頭を乗せて。
彼女の父親が警察官だと知ってからは、話の行先には気を使った。間違っても、僕の仕事のことを知られるわけにはいかない。彼女をベッドに案内する前に銃を隠すという、刑事ドラマでありそうなことをする羽目になってしまった。
話によると、ルイが着ていた服は本人の趣味ではなく、母親の趣味だということだった。活発で男勝りに育った姉の代わりに、ルイには極めて女の子らしい服装を求めているのだという。ルイの姉が成人して家を出てから、母親の愛情はルイに集中した。なので、今日のこと―ルイに言わせれば、繁華街の警邏―は、母親に内緒らしい。繁華街に行きたい、と言おうものなら、たぶん卒倒してしまう、とルイは笑っていた。
ルイの家には何人か常駐のお手伝いさんがいて、その人達に協力をしてもらって家を出てきたらしい。もちろん、そのお手伝いさん達にも本当のことは言っていない。
大人しそうで、可愛らしい女の子という見た目とは違い、ルイは行動力がある。父親から聞いた話に興味を持って、こうして薄汚い繁華街を見に来たのだから。それも、偉大な母とお手伝いさんを騙してまで。
でも、そうまでして来る価値が、この繁華街にあるのだろうか? ルイみたいな女の子は、僕の夢に出てくるような学校に通っているほうが良い。そして、こんな街とは一生関わり合わないほうがいい。
カーテンを閉めているので、ネオンの光は入ってこない。なんとなく、警察官の娘にあの光を浴びさせてはいけないと思った。
「じゃあ、お休み。起きたら帰るんだよ」
ルイは枕から頭を上げ、こちらを見た。
「でも、もう少しお話がしたいです」
「一度帰って、それからまたおいで」
「でも……」
「お休み」
僕が毛布を顔まで上げると、ルイが小さな声でお休みと言った。