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⑨ ブルース・イン・ブルー

 そろそろ、夜が明けそう。

 私はCDプレイヤーと、一枚のCDを持ってアパートを出た。コートを着こみ、軽いカバンを肩にかけて。

 これからどこに向かうのかは決めていない。ただ、この繁華街からは出なくてはいけないことはわかっている。だって、こんな呪われた土地に、これ以上いられない。

 少しだけ心残りがあるとすれば、地下に残されたお母様。出来ればきちんとしたお墓に入れて供養をしてあげたいけれど、私には時間がない。

 見逃されたのこの命、これからどう活用していこうかな。

 カナコの銃弾が私を外れ、泣き崩れる彼女をみたとき、自分の卑しさにぞっとした。私は今まで、逃げていた。自分は洞窟の中で膝を抱えて、生きるという辛い作業をリンに任せていたのに、カナコにも辛い思いをさせてしまうところだったのだから。カナコが私を殺した後、どんな気持ちを背負って生きていくのかを想像していなかった。

 私は、死んでしまえば楽になると思っていた。

 なんて無責任で、みっともない考え。

 カナコが私を殺さなかったのは、たぶん許してくれなかったから。それがユキ姉さんのことなのか、それとも私が自分の人生から逃げようとしたことなのか、わからないけれど……。

 早朝の空気は乾燥していて、とても冷える。街が眠りに落ちているこの時間は、時間が止まってしまったみたい。自分の足音だけが澄んだ空気に響いて、不思議な感覚。

 私が今使えるお金は、ユキ姉さんを殺して得たもの。そんなもの、使いたくはないけれど、使える物は何でも使わないと、生きてはいけない。どれだけ汚れても、穢れにまみれても、呼吸をしなくてはいけない。食事を摂らなくてはいけない。

 あぁ、なんて……。

 生きるというのは……。

 いや、止そう。

 今は、歩こう。

 とぼとぼと、国道の方へと向かう。人通りが途絶えた繁華街は、見栄っ張りの廃墟のように見える。時間が経てば、ここにはまた人がたくさん押し寄せて、それぞれの欲求と欲望を満たすために駆けずり回るのだろう。リンはそれを苦々しく思っていたかもしれないけれど、少なくとも私は、そうは思えない。

 だって、私達よりもよっぽどまともだから。

 

 冷たいものが額に当たった。止まって見上げると、綿のような雪がゆっくりと降っている。それは頬に、唇に、顎に当たる。

 冷たい、とは思わなかった。だって、何だか生暖かいものが、目から流れているのだから。

 視線を前に向けて、再び歩き出す。ようやく国道に出た。タクシーやトラックも、今はほどんど走っていない。目前には立派なビルが立ち並ぶビジネス街。後ろには、欲望にまみれた繁華街。そのどちらも、今は儚い雪が静かに包んでいる。

 あぁ、この感覚はけっこう好きかもしれない。

 ぼんやりと、立ち尽くした。

 騒がしいこの界隈が、一日の中で一番静かになる時間。

 瞳を閉じて、深呼吸。冷たい空気で肺が満たされるような感覚。

 瞼を開けると、少し先に一台の車が停まっていた。タクシーではない、黒い車。

 扉が開いて、中から誰かが降りてきた。

 その人は私を見て、とても優しい笑顔を見せた。

「あたしに何も言わずに行くの?」

 私は口を開けたまま、何も言えなかった。

「どこに行くにしても、アシがいるだろ」

 その人は助手席のドアを開けて言った。

「乗んなよ。付き合うから」

 そう言って、カナコは照れたように笑った。



 車内は暖房が効いていて温かい。運転席のカナコは何も言わず、口元にうっすらと笑みを浮かべたままハンドルを握っている。

 車は国道を走って繁華街を抜け、いつか来た海の近くまで来た。その頃には空は紺と白のグラデーションから、薄い青色に変わりつつあった。

 カナコは海の近くの駐車場に車を停め、私のほうを見た。

「リン……いや、リンコ」

 私は小さく答える。

「リンで、いいです」

「そっか……じゃあ、リン。まだひとつだけ聞いてないことがあった」

 私が横を向くと、カナコはハンドルを握ったまま口を開いた。

「リンと先輩は、どこで知り合ったんだ?」

 私が首を傾げると、カナコは前を向いて話した。

「いや……リンって、先輩のこと、ユキ姉さんって呼ぶからさ」

「ああ……それは……。私はナツメと仲良しでしたから、よく家に遊びにいっていたのです。その時、ユキ姉さんにはとても親切にしていただきました」

「え、家に? それは何と言うか……大胆だな」

「何がですか?」

「ちなみに、リンがナツメ君の家に遊びにいくときって、その、二人きりが多かった?」

「ええ……そう言えば、いつも他の子はいなかったですね」

「なるほど……」

「何が、なるほどなんですか?」

「いや……なんでもない。この話はお終い! さあ、これからどこに行こうか?」

「特に、アテは無いんです」

 私がそう言うと、カナコは指を鳴らして言った。

「あ、じゃあさ、あたし行きたいところがあるから、そこに行こう。そこの名物が食べたい」

「良いですけれど……何を食べたいのです?」

「牛タン」

「え……?」

 私は少し顔をしかめてしまった。

「それって、牛さんの舌ですよね……?」

「あれ、美味しいんだよ。じゃあ、決まり!」

 カナコはエンジンをかけなおし、再び車を走らせた。

 どこに向かっているのかはわからないけれど、窓の外を流れる景色はとてもきれい。海があり、民家があり、山もある。田んぼは実物を初めて見たし、本の自動販売機なんて存在すら知らなかった。

 繁華街には何でもあると思っていたけれど、私はまだ、見たことがないものがたくさんあることに気が付いた。

 私はこれから、何を見るのだろう。

 何を聞いて、

 何を思うのだろう。

 カナコに「音楽を聴いても?」と尋ねると、彼女は「お好きにどうぞ、お嬢様」とふざけて言った。私はカバンからCDとプレーヤーを取り出し、蓋を開けてセットする。

 イヤホンを片方だけして、再生のボタンを押した。

 聴こえてきたのは、錆びたような弦楽器の音。

「この辺はさ、都会と違って空気がおいしいんだ」

 そう言って、カナコは窓を開けた。

 冬の冷たい空気が車内に流れ込む。

 寒かったけれど、なんだか生きているって実感するにおい。

 静謐で、厳しいにおい。

 窓から外の景色を見ると、今は海沿いを走っていた。海のにおいは少し生臭くて、それでいて親切な感じがする。

 打ち寄せる波が、白い泡をつくっては、消えていく。

 空は青さを増して、今では海を反射しているような色。

「あのさ……リン」

「なんでしょう」

 カナコはまっすぐに前を見ている。

 風で、ショートカットが揺れていた。

「ナツメ君ってさ、自分のためだけに復讐をしたわけじゃないんじゃないかな」

 私は何も答えずに、視線を窓の外に向けた。

 片方だけ外しているイヤホンからは、懐かしい音楽。

「……そう、ですね」

 私のその言葉は、きっと風の音でカナコには聞こえない。

 私は耳にしたほうのイヤホンも外した。

 プレーヤーを操作して、音量を上げる。

「……きっと、そうですね」

 二つのイヤホンから微かに聞こえる、「Boon、Boon、Boon、Boon」

 

 ナツメの愛したブルースが、冬晴れの青空に吸い込まれていった。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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