⑥ 泥酔、焦燥、感覚
時計を見ると、時刻は午前一時をまわろうとしている。私は背中に忍ばせた銃に残弾があることを確認し、アオキを見た。彼女はまだぐっすりと眠っていて、起きそうにない。
私は結局、数年間も回り道をしてしまった。
否、
私はただ、逃げていただけ。
あの人にすべてを任せて。
生きること、
考えること、
呼吸をすること、
見ること、
聞くこと。
その全てから、私は逃げていた。
頭を抱え、耳を閉じ、目を塞いで、暗い洞窟のようなところでうずくまっていただけ。
でも、そろそろ……、
ナツメも、ユキ姉さんも、いなくなったこの世界に、私は戻らなければいけない。
アオキが寝ているベッドの横に膝をつき、彼女の肩をゆする。そして話しかける。
「アオキさん、アオキさん」
しかし彼女は少し唸っただけで、目を覚まそうとはしない。
「アオキさん、ごめんなさい、少し起きてください」
「うぅん……なに?」
彼女は顔をしかめながら言った。顔はこちらを向いているけれど、瞼は閉じたまま。
「お休みのところ、申し訳ございません。携帯電話を貸していただけませんか?」
「んん……」
アオキは丈の短いコートを着たままベッドに寝ていて、携帯電話はそのポケットに入っていた。彼女からそれをうけとり、私は自分のズボンのポケットから折りたたまれた紙をとりだし、番号を入力し、発信。
呼び出し音。
呼び出し音。
三回目で、相手が出た。
『はい……どちらさま?』
真夜中だったからか、相手は幾分警戒したような声音。
いや、単純に迷惑なだけだったのかも。
「カナコですか? 私です」
『……え、誰?』
「もう、忘れたのですか? 海でデートまでしたのに」
『……まさか、リン? でも声の感じも口調も少し違う……』
「それは、ひとまず置いておきましょう。それよりも、今から車でこれますか?」
『いまから? どうして? やらなければいけないこととやらは、もう済んだの?』
「それを、いまからするのです」
『……話が見えないな』
「警察の力が必要です。カナコ、応援を引き連れてきてほしいのです」
『もう、勝手だなぁ……あたし、都合の良い女?』
「いいえ、カナコは良い女です」
『ああ、リンだ。……わかったよ。で、どこに向かえばいいの?』
「ひとまず、繁華街の入り口に来てください。そこで待ちます」
『わかった。で……これから何をするの?』
「誘拐被害者の少女たちを、救出します」
電話の向こうで、息を飲む様子。
『すぐにいく』
「お願いします」
電話を切り、アオキに礼を言って彼女の枕元に携帯電話を返す。
私はコートを脱ぎ、中のカットソーも脱いだ。背中に手をまわし、結び目をほどいて、胸部に巻いていたサラシをくるくるとほどいていく。
「ふう」
サラシを全て取ると、息がしやすい。まったく、こんなものをして生活していたなんて……。
カルテを封筒に戻し、サラシと一緒にカバンにしまう。部屋を出る前、もう一度テレビの上に置かれた写真を視線を固定した。
「……もう少しよ、ナツメ」
そして、私はアオキの家を出た。
国道の交通量はかなり減り、長距離トラックや終電を逃した客を待つタクシーなどがほとんどだった。左右がよく見える位置を選んで立っていると、私の前に一台の車が停まった。
黒いセダン。
降りてきたのは活発そうな瞳がとても魅力的な、スーツ姿のショートカットの女性。
「カナコ、こちらです」
私が手を振ると、彼女は眉根を寄せてこちらを見た。
「ね、ほんとにリンだよね? そっくりさんじゃないよね?」
「下らないことはいいのです、とにかく、行きましょう」
「ああ、リンだ。間違いなくリンだね」
しかし、辺りを見渡しても他の車両は見あたらない。
「あの、警察からの応援は?」
私の問いかけに、カナコは苦虫を噛み潰したような顔。
「来ない」
「え?」
「あたし以外、来ない」
「どうしてですか?」
カナコはセダンをロックした。
「リンから聞いたことを上に報告して、一斉に踏み込んで被害者を助けるべきだって進言したんだ。そしたら、駄目だ、ってさ。今から色んな書類にハンコが要るだとか、どこかに押し入るには事前に通告が必要だとか言っていたけれど……そんなのは言い訳だね。それに、あたしは捜査から外された」
彼女は舌打ちをした。
「外された? どうしてですか?」
「これで、はっきりした。やっぱり上の連中は誘拐事件の犯人とつながってる。それに、今から向かう場所は本当にやばい場所なんだろうね。だからあたしは外されたんだ」
カナコは腕を組み、指を噛みながら言った。
「上のあの反応が、何よりの証拠だ」
「では……警察の協力はカナコだけ、ですか……」
「いや、ちがう」
「え?」
「あたし、頭に来たから辞表叩きつけて出てきちゃった。連中からすれば好都合なんじゃないかな」
そう言ってカナコは後頭部を撫でる仕草。
「良いのですか?」
「犯罪を取り締まらない警察になんて興味はないよ。あたしは警察にいたいんじゃなくて、この事件を解決したいんだ。だから、早く」
私は黙って頷く。
「それでは、歩きながら話しましょう」
人気が途絶えた繁華街を、カナコと並んで足早に歩く。空には雲が出てきたのか、もう星がほとんど見えない。
雨が降りそう。
「良いですか、カナコ。これから見ることや聞くことに、決して動揺してはいけません。わからないことがあっても、すべて後で説明しますから、ひとまずは冷静に行動してください」
横でカナコが頷く。
「まず、警察と取引をしてる存在ですが……その正体はオギノメ・グループです」
「ああ、なるほどね……。となると、今回の誘拐事件の犯人も、そいつら?」
「恐らく、少女たちを連れ去った実行犯は別にいるでしょう。たぶん、金で雇われた連中。口封じや痕跡を消すために、実際に誘拐を行った人間はもう殺されている可能性があります」
「でも、どうして……なんで誘拐なんて。それに、リンはなんでそんなことを知ってる?」
「それは……まだ、言えません」
「どうして!」
「……ごめんなさい」
「まぁ、いい。あたしは被害者を助けたいだけだから」
「ありがとうございます。それと……」
私は背中に手をまわし、仕込んであった銃を取り出した。
「これも、使わなければいけません。銃の扱いはカナコのほうが慣れていると思うので、持っておいてください」
しかし彼女は首を左右に振り、スーツの上着から銃を取り出した。見ると、ジャケットの下にベストのようなホルダーを着用している。
「ついさっきまであたしは警官だったんだ。自分のがあるよ」
「しかし……今はもう警官ではないのでは? それ、警察の備品ですよね……」
私の言葉にカナコは、視線を逸らして言った。
「あぁ、これ。えっと、そう。拾ったんだよ。そこで。繁華街って色んなものが落ちてるよね。もしかしてこれ、モデルガンかも。いや、良くできてる」
「……何も聞かなかったことにします」
「リンこそ、一般人が銃を持つのは違法なんだけどねぇ……でも、今は夜で暗いし、あたしは警察官じゃない。よかったね」
私とカナコは細い路地に入り、更に先に進んだ。割れた酒瓶や、煙草の吸い殻が散乱している小道。
気が付くと、雨が降りだしていた。地面に、とても小さな黒い点がついている。
小さな道を奥に進み、廃墟と見間違うような建物の前に来た。
「降って来たね」
「ええ」
私とカナコは銃を構え、建物の入口の横にはりついた。入り口を入ると、すぐに階段がある。
声を潜め、カナコが聞いてきた。
「リン、この中に被害者が?」
私は頷く。
「犯人も、ここに?」
「それは、不明です」
「そうか……とにかく、早くしよう」
「ええ」
私たちは足音を殺して階段を上り、突き当り扉の横に張り付いた。目を合図をして、カナコが扉を開ける。
「警察だっ!」
カナコは部屋の中で銃を構え、その銃口を部屋中に向けた。私も少し遅れて部屋に入り、視線を銃口を左右に向ける。
誰もいない。
「空振りか?」
カナコが銃を下ろして言った。
「いえ」
私は床に視線を落とし、目印のものを探す。
カナコは部屋の中のものを見てまわる。でも、決して物に触れようとはしない。
「リン、ここの部屋はなんなんだ? 誰が使ってる? ここは、一度被害者を連れてきて、またどこかに連れ去るための中継場所?」
「そんな一度に質問されましても……ええと、ここはヤンと呼ばれる人物が使っている事務所です」
「ヤン? 外国人?」
「いいえ、日本人です。ヤンは通称です。正体不明で、誰も姿を見たことが無いのです。いつも真っ暗闇の中で他人と会う人なので」
そう、誰もヤンのことは知らない。でも、私は、いやリンは、ヤンの姿を知っていた。痩せすぎな身体に、指の刺青。
もっと早く、その違和感に気が付いて入れば。
「そのヤンってやつは何者? そいつがオギノメ・グループの手先で……例の犯罪者なの?」
「半分だけ、正解です」
私はようやく目的ものを見つけて、床にあるそれをずらした。その下から出てきた床の取っ手を掴み、持ち上げる。
「えっなに、なにそれ」
私とカナコの目の前で、床の一部に四角く真っ暗な穴があいている。
その中にうっすらと浮かび上がる、下に続く階段。
「行きましょう」
「少し待って」
そう言うとカナコは小型のライトを取り出して、スイッチを押した。それを足元にあいた穴に向ける。
暗闇の中、地下に通じる階段が照らし出される。
「さて、行こうか」
先にカナコが地下に入り、その後を私が続いた。
この先に、まだ少しでも多くの命が残っていることを祈って。
階段が終わり、目の前には錆が目立つ鉄製の扉。
「慎重に、音を立てないように」
カナコと二人で、鉄製の扉に力を込める。少しづつそれは動き、人一人が入れるほどの幅が確保できた。先にカナコが入り、その後に私も続く。
淡い暖色に照らされる、石畳。
左右には無機質な鉄格子。
正面には粗末なベッド。
「なにも、変わっていない……」
私がそう呟くと、カナコは顔をしかめて私の横に来た。
「リン、ここが……」
「ええ。鉄格子の奥をよく見て。でも、落ちついて」
彼女は鉄格子に近づき、目を凝らす様にして中の様子を見た。
息を吸い込む音。
後ずさる、元警察官。
短い髪が、さらりと揺れた。
「これ……ひどい……」
口元を手で覆いながら、彼女はそう呟いた。
そちらに私も行き、中の様子を見る。
だらりと頭をうなだれて、床に座り込む、手足を切断された少女達。声をかけても、反応する気力すら無いのか、顔すらあげない。
でも……それよりも。
「減ってる……」
思わず舌打ちが出た。それを聞いたカナコが、不安そうな顔で私に話しかける。
「減ってる? 女の子たちが? リンは前にもここに来たの?」
「行きましょう。本当に、このままでは手遅れになる」
カナコの問いかけに答えず、私は部屋の奥へと進んだ。ベッド横をすり抜け、木製の古めかしい扉に手をかける。
「待ってよ、リン」
カナコが、銃を構えて扉の横につく。
この中に、ヤンはいるだろうか。
私とカナコは目を合わせて頷き、扉を開けた。
視界に飛び込んできたのは、暗闇。
ここにも、いない。
「明かりをつけます」
壁に手を這わせて明かりをつけた。すると、整然とした事務所のような室内が見えた。棚を埋めるファイル、少し古いパソコン、シンプルなデスク。
ここも、変わっていない。
「何、ここ……」
カナコは部屋の中をきょろきょろと見回している。そして、パソコンのモニターに貼られた写真を指さした。
「これ……リンだよね?」
写真に写っている少女は少し憂鬱そうに見える。制服を着ていて、それはアオキ宅で見た写真の中の子達と同じもの。後方に写っている建物も、まったく同じ学校。
写真の少女は少しウェーブした長い黒髪を肩まで垂らし、瞳を伏せがちにして、こちらを見ている。
「すごく……似てる。その、前のリンじゃなくて、今のリンに」
カナコは何度もその写真と私を見比べ、同じことを口にした。
私は部屋の奥、入って来た扉とは逆方向にある扉を見た。
たぶん、あそこ。
以前に来た時、鍵がかかっていた部屋。
いまなら、あるいは。
「ねえ、リンこれはどういうことな……」
私は扉に視線を向けたままでカナコに答える。
「その写真の子は、私ではありませんよ」
「え? でも……」
「それよりも、鉄格子から少女達を出してあげなくては……」
「そう、それが優先だ。鍵を探そう」
「その必要はありません」
私は扉を見つめたまま、取っ手に指をかける。少し力をかけると、それは軽く開いた。
「この先に、鍵を持った人物がいると思います」
私は銃を握りなおし、扉を全て開けた。
「さあ、行きましょう」
扉の先には、それまでとは比べ物にならないほどの広い空間が広がっていた。例えるなら、結婚式場ほど。空間の真ん中にはすりガラスのようなものでできた大きな円柱があり、うっすら青い液体で満たされている。空間の床を、青白い光がぼんやりと照らしていた。
空間そのものには角が無く、全体が円形だということが想像できる。カナコは空間を見渡し、息を飲むような仕草。
「なんなの、ここ……」
銃を構えたまま、私達は先に進む。すると、一脚の椅子と、そこに腰掛ける人物が見えた。
その人物は私達に気が付いたらしく、ふらふらと立ち上がった。そしてこちらに向けて歩いてくる。
痩せすぎている身体。
後ろで束ねられた長い髪の毛。
焦点が定まっていないのか、こちらに向かってくる足取りは危なっかしい。
「止まれ! 手をあげろ!」
カナコがその人物に向けて銃を構えた。しかし相手は止まることなく、徐々に近づいてくる。
私も銃を構え、前に進む。
「リン! 危ない!」
カナコの存在をまるで無視して、その人物と私はお互いの顔が認識できるくらいの距離にまで近づいた。
お互いに、歩みを止める。
先に、向こうが口を開いた。
「リンじゃない……仕事は終わったの? いや……それよりも、どうやってここを?」
私は銃口をヤンに向けたまま、精一杯睨み付ける。
「御無沙汰しております」
私がそう言うと、ヤンは大きく目を開いた。そしてため息をつき、絞り出す様にして言った。
「ああ……戻ったのね」
背後からカナコが近づいてくる気配がする。私は片手でそれを制して、カナコの方を見ないままで言った。
「そこで、少し待ってて」
カナコは苛立ったような声で答える。
「でも……リン、そいつが犯人なんだろ!」
ヤンがカナコの方を見て、口を開いた。
「そこのお嬢さん、少し時間を頂戴」そして私の方を見て、「ねぇ、リン?」と言った。
私は今すぐにでも手に持った銃の引き金を絞りたい衝動を抑え、なんとか口を動かした。
「ええ……」
手には汗がにじむ。
できれば、ここから逃げ出してしまいたい。
でも、もう逃げるわけにはいかない。
「少し、お話をしましょう。お父様」
目の前に立つ痩せすぎな男性は、にたりと笑った。




