➄ 宴席、書類、さようなら
雑居ビルから外に出ると、空はすっかり紺色に染まっていた。頭上には、適当にばらまいたような星がいくつかあり、地上に白っぽい小さな光を送っている。
陽が暮れて、だいぶ冷えてきた。マフラーを持ってこなかったことを後悔して、横に立つアオキを見た。彼女は細身のジーンズに、丈が短いコートで、小さなバッグを右腕に下げている。長身の彼女に似合うコーディネート。
「よし、行こう」
彼女は足早で歩き、僕は慌てて後に続いた。向かう先は、ビジネス街と繁華街の境界線。つまり、国道。
仕事を終えたであろう人々が、僕らの周りを歩いている。その中の、繁華街方面に向かう人々に紛れて、僕らは歩く。繁華街に向かう人の数はとても多く、前後左右どの方向も、他人と肩や腰が接している。
「アオキさん、どこに向かってるんですか?」
人混みの中で話しかけると、彼女はふふんと鼻を鳴らした。
「行きつけの店があるの。少し歩くけど、大丈夫?」
「それは構いませんけれど……」
彼女は左腕の内側を見た。どうやら、時間を確認したらしい。
「えぇと、十時! いや……十一時まで。それまでは付き合ってもらうよ」
僕の方を見て彼女は不敵に笑う。それは、騙す相手を見つけた詐欺師を連想させる笑い方だった。
僕らは国道で信号を待ち、青に変わるとすぐに歩き出した。歩く速度はどんどん上がっていく。
「あ……あの、アオキさん」
僕は彼女の後ろをついて歩くので精一杯だった。周りには人が多く、うかうかしていると別の方向に流されてしまう。僕はアオキの髪の毛が規則正しく左右に揺れるのを必に目で追った。
僕らは広い国道を越えて、繁華街に足を踏み入れた。ネオンと客引きで溢れるメインストリートに来ると、ビジネス街から来た人の数は少し減る。大半は行く店が決まっていて、そこに入るか近道をするのだろう。僕とアオキはそのままメインストリートを歩いた。
「大丈夫? ちゃんとついてきてる?」
悪戯っぽい表情でアオキがこちらを振り返った。少し後ろを歩く僕を見て、速度を落としてくれる。
「ほら、もう少しだから」
そう言ってアオキは僕の左手を取った。彼女はそのまま、どんどん先に進む。
これではまるで、僕が子供のようだ。
「あ、あのアオキさん、大丈夫です、一人で歩けます」
僕の声が聞こえていないのか、彼女は振り返ることなく歩みを進めた。
「アオキさん!」
メインストリートの突き当りまで来て、右に曲がる。少し寂しい通りに入ったところで、ようやくアオキは僕の手を離した。
「まったく、世話が焼けるな」
彼女は振り返り、僕の頭を撫でた。
「ね、ほんとに成人してる? ごはんは食べてる? 成長期に、毎朝牛乳飲んだ?」
僕は上目遣いにアオキを見る。彼女が言おうとしていることはわかるけれど、僕からしてみればアオキの背が高すぎるのだ。
「大丈夫です。大丈夫。もう……頭を撫でるのは辞めてください」
そんな僕の抵抗を、アオキは笑って見ているだけ。
「じゃあ、ここからは少し暗い道を歩くから、私の服をちゃんとつかんでいてね」
明らかに僕をからかう口調だった。それについて僕が口を開く前に、彼女は颯爽と歩き出した。
たどり着いた店は、全体的にレトロな雰囲気で、昔の映画の街中で見かけたような看板がいくつも店先に並んでいた。でもそれは明らかに飾り。つまり、レトロな雰囲気を演出する小道具。
暖簾をくぐり店内に入ると、かなり狭い。中央にはコの字型のカウンターがあり、その中では七輪から煙があがっていた。僕らのほかに客は二組で、それは背広を着た男性ばかり。店外にあった看板が、店内の壁にも飾ってある。他にも経年劣化した漫画や、提灯、行燈などが置かれていた。
「さて……リン、あそこに座ろう」
そう言ってアオキが指差したのは小さな座敷になっている席だった。といっても衝立や仕切りが無い、ただ畳が敷いてあるだけのもの。
僕は彼女の後に続いて靴を脱ぎ、座布団の上に座る。
メニューを見ると、変わったものが多い。カエルやスズメ、それにサソリも。飲み物はまともそうだったので、ここで食事はしないようにしようと決めた。
「さて……私はビール。リンは? ジュース?」
アオキはおしぼりで手を拭きながら言った。
「そんなわけないじゃないですか。もう……飲みますよ。そのために年齢を聞いたんでしょう?」
僕がそう言うとアオキは白い歯を見せて笑った。
「いやぁ、ごめんごめん。だってリン、ちっちゃすぎなんだもん。ついつい、ね」
店員を呼んでアルコールを注文した。アオキに、煙草を吸っていいかと尋ねたら、彼女は不思議そうな顔をしていた。でもその直後に、「やだ……リンが不良になっちゃった」と言って、また一人で笑っていた。
なんだか、もう酔っぱらっているみたい。
店内には七輪で何かを焼いている香ばしいにおいが充満している。背広を着た客はもう酔いがまわっているのか、大きな声で会話をしていて、内容が手に取るようにわかる。ビジネス街で働いている人たちは、こうして毎日、その日にあったことや仕事の愚痴なんかを言い合っているのだろうか。
とても愛おしい光景だ、と感じる。
僕らが座っている座敷には横に棚がついていて、その中にはとても古い漫画が何冊か置いてある。それを手に取り、ぱらぱらとめくる。内容は、銃を持った軍人が戦場を駆けまわるといったものだった。描写がコミカルで、少し笑える。何より僕が気に入ったのは、主人公の軍人が黒い犬だということ。
「リン、それ高いよ」
漫画のページに線を落としている僕にアオキが声をかけた。
「高い? 何がですか?」
「その漫画」
「え……でもこれ、すごく古いですよ?」
「だから高いの。ただの飾りで置いてるだけだから、怒られないうちに戻したほうがいいよ」
またからかわれているのか、本当にこの漫画が高価なのかわからない。そうしているうちに飲み物が運ばれてきた。
「さて……乾杯しよう、乾杯」
アオキは腕まくりをして、片手でビールジョッキを持つ。僕も片手でジョッキを持ったけれど、重たすぎたので最後は両手で持った。
「あら……あざといなぁ」
それだけ言って、一気にビールをあおるアオキ。ジョッキから唇を離すと、口の周りに泡をつけて呆けたような表情になった。
「あざといって……なにがです?」
僕もビールに口をつける。苦みが口の中に広がり、意識が少し軽くなったような錯覚。
アオキはもう一口ビールを飲み、それから僕に向かって口を開いた。
「えっと……私の記事を読んで、どうすればあんな記事を書けるようになるのか、だっけ?」
急に会話の内容が飛んだ。本当に、彼女はもう酔っているのかもしれない。
「はい、そうです」
「コツはね、大手の出版社には入社しないことだね」
「え? それはどういう……」
「オギノメ・グループなんて追ってたら、大手では記事なんて書けないもの」
「どうしてですか?」
「だって、あの企業は今や国内一の規模を誇る化け物企業だもん。どこも、そんな化け物を相手にはしたくない」
「でも、アオキさんは書いてます」
「それはね、うちが零細だから。うちみたいに影響力が小さな会社の週刊誌なんて、誰も本気にしないからさ」
そう言って彼女はまたジョッキに口をつけた。既にジョッキは空だ。
店員を呼び、二杯目を注文するアオキ。その後、唇を尖らせて話を続けた。
「どれでも、最近はかなり厳しくなってきてるね。前みたいに自由には書けない」
「何かあったんですか?」
「ありがたいことにね、私の記事が化け物様の視界に入ったらしく、通告がきたの」
「通告? 何のですか?」
「これ以上根拠のない誹謗・中傷を続けるのなら、名誉棄損で訴える、ってさ。そんなの、記事が事実だと自分で認めてるようなもんじゃない」
アオキはそれまで横に流していた両足をたたんで、あぐらをかいた。そして膝のうえに肘を置いて、手の人差し指を天井に向けた。
「これはね、言論統制だね、完全に。まったく、根拠がないって言うなら放っておいてほしいもんだよ」
そこで二杯目のビールがきた。アオキは店員に会釈をして、大量のビールを喉の奥に流し込む。
「あぁ……いらいらすると飲みたくなるんだよね、私。今日はついてないと思って諦めてね」
何を諦めればいいのだろう。アオキの顔はまだ白いままだけれど、他の場所にアルコールが侵食してるのは明らかだ。
「じゃあ、これからはもう記事を書かないのですか?」
僕は不安そうな表情を演出して、上目遣いにアオキを見る。まるで、貴女の記事が世に出ないなんて、大きな文化的損失です、とでも言いたげに。
アオキは天井に向けている人差し指を左右に揺らした。
「いや、書く。私は書くよ。だって、あるんだもん、根拠」
「えっ、そうなんですか?」
これは本当に驚いた顔。
アオキは大きく頷く。
「ある。もちろんあるよ。相当やばいね、このネタは。まだ全部を記事にしたわけじゃないけど、これが全て公になれば、あの社長は世論に倒されるよ」
くくくっ、っと彼女は笑う。
しかしその笑いは一瞬で消えた。
「絶対に、倒さないといけないんだよ」
真剣な目でアオキは言った。
「オギノメ・コウゾウに何か恨みでもあるんですか?」
僕の言葉に彼女は素早く反応した。
「すっかり表に出てこなくなったコウゾウの名前を知ってるなんて、偉いじゃない。さすが私の弟子だ。後で撫でてあげるよ」
彼女の顔はただの酔っ払いに戻った。しかし、アオキは確実に何か知っている。それを聞き出すには、ここしかない。
「そりゃあ、ジャーナリスト志望ですし。それに、」
ここで、カマをかける。
「コウゾウ氏って、昔から悪い噂が絶えないじゃないですか」
アオキの顔は派手に歪んだ。
「そう! そうなのよっ! もう、あいつは悪どいよ、ホントに。それを全部暴いてやろうと、私は記者になったんだからね」
「どう悪どいんですか?」
「すれはもう……数えきれないけど。まあ有名なのは、まだオギノメ・グループが小さかった頃に、対立する企業がどんどん規模を縮小したって件だね。あれは一説によると、危ないやつらを使って対立企業の役員を脅していたって話が出てる」
「危ないやつらって?」
「まぁ、つまりチンピラみたいなやつのことだね。逃亡途中の犯罪者だったり、前科があってまともな仕事につけない連中を集めて、自分の手先としてつかってたってわけ。もちろん、その真偽は闇の中だけど、私は事実だと思う。明らかにおかしいもん。調べてみると、オギノメ・グループはある時期を境に急激な成長を遂げたんだけど、それは経営手腕とか、先見の明とかで説明できるレベルじゃないんだ。何かしらの違法な手を使ってライバルを蹴落としてきたって見方が一番しっくりくるね」
少しだけ、アオキの頬にあかみがさしてきた。
僕は二口目のビールを口に含み、喉に流す。
身体の浮遊感が少し強くなったみたい。
アオキは話を続ける。
「まぁ、実は私も被害者なんだよね」
「アオキさんも?」
「そう。私の両親は会社を経営していて、昔は結構なお金持ちだったんだ。中学まではすっごいエリート学校に通わせてもらってさ。でも、オギノメ・グループは大きくなる途中で、うちの両親が経営してる分野にも手を伸ばした。うちも善戦したらしいけど、結局私の親の会社は潰されちゃった。その後の私は、国立で学費が安い高校を選んだし、お父さんは倒産した会社の借金を苦に自殺したよ」
彼女は昔を思い出すような目をしている。
「だから高校を卒業した私は、絶対に記者になってやろうって思ったんだ。それもなるべく小さい会社で、好き勝手に記事が書けるところ。だから私がオギノメを追っかけるのは正義感でもジャーナリズムでも無く、ただの私怨だね」
言葉とは真逆に、彼女はとても優しい目で僕を見ている。
思わず僕は目を逸らした。僕も私怨で動いているようなものだけれど、彼女のように優しい目はできない。僕はたくさんの人を殺してきたけれど、アオキは誰も殺していない。一体、どちらが正しい生き方なのだろう。
「オギノメ・グループについて調べてみて、何かわかったことはありました?」
僕は本来の目的に沿うよう、話を変えた。
アオキは天井に視線を向けて、口元に指を当てた。
「そうだなぁ……あれくらい大きな企業になると、もうだいたい話は出尽くしてるんだけど……あ、これは知ってる? オギノメが急成長したきっかけ」
僕は左右に首を振った。
「えっとね、これはどちらかと言うと美談っぽくなるから、私はあまり突っ込んで取材しなかったんだけど……社長であるオギノメ・コウゾウの奥さんが亡くなったのをきっかけに、あの会社は急成長を遂げたの」
「亡くなったのが、きっかけなんですか?」
アオキは視線を天井から僕に戻し、こくりと頷いた。
「そう。まぁ、奥さんを亡くした喪失感を埋めるために、コウゾウは仕事に打ち込んだ、っていうのが大方の見方なんだけれど、そのために違法なことをされたんじゃ、こっちはたまったもんじゃないっての、ね」
「そう、ですね……」
「まぁでもその後の行動のせいで、今では美談でも何でもないけどね」と言ってアオキはビールを飲んだ。
「奥さんは事故か何かで?」
「えっと……違うみたい。まあ、もともと身体が弱い人だったらしくてね、コウゾウとの間に出来た子供を産んで、そのまま亡くなったんだ」
「そして、その後会社は急成長、ですか」
「そう。まあ、最近では小さな出版社でもオギノメのことを取り上げる所は減っちゃったよ。もう、みんなビビりすぎなんだよおっ」
アオキは目の前のテーブルに上半身を乗せた。こうなると完全に酔っ払いだ。
「でもアオキさんは書き続けるんですよね?」
「もちろん! 言ったでしょ、すっごいネタを仕入れたんだ。これを世に出さないうちは死ねないね、私は」
以前の僕なら、『本当は僕が貴女を殺すはずだったんです、と言ったら彼女はどんな顔をするだろう』なんて考えていたかもれない。
でも、今は違う。
もうそんなことはどうでも良い。
「そのネタって、どんなものなんです?」
彼女が記者の立場で発表できなくても、僕が別の形で世に出してやる。
「それは秘密だよぉ。さすがに弟子でも、企業秘密だね」
アオキは笑う。
「そこを何とか……教えてくださいよ」
わざとらしく下手に出てみたけれど、アオキの態度は変わらなかった。でも、これで確信が持てた。アオキが握ったそのネタが、彼女が命を狙われる原因だ。なんとかしてそれを手に入れることができれば、次の一手が打てる。
しかし、その後何度か同じ話を振ってみたけれど、彼女の返答は変わらなかった。
もっと飲ませて聞き出そうと、どんどん酒をすすめた。でも、彼女はかたくなにネタの中身は教えようとはしない。
時計を見ると、もう時間は夜の十一時をまわっていた。カナコとの約束があり、僕には時間がない。こうなればネタ元を知るまでだ。銃でも何でも使ってネタ元を脅し、僕も情報を得るしかない。
すっかり泥酔してテーブルに突っ伏すアオキ。もう何杯飲んでいるのかわからない。僕のほうも、ペースを加減しているとはいえ、頭がふらふらしてきた。
「アオキさん……ちなみにそのネタって、どこから仕入れたんですか?」
アオキはテーブルに額をつけたまま、呂律が回らない口で答える。
「昔の……知り合いだよぉ……しばらく会ってなかったんだけど……いきなりそいつの友達ってやつが来てねぇ、『これを記事にしてくれ』って封筒に入った書類を……いやあ、でもどうやってあんなネタを仕入れたんだろ」
そんな都合の良い話が……と考えて、僕はサメジマの言葉を思い出した。
『俺はその書類を回収して、別の人間に渡したんだ』
まさか……。
「アオキさん、もしかしてそのネタを持ってきたやつって……身体がでかいくせに声が高い男じゃないですか?」
彼女は唸るようにして言った。
「あれぇ……どうしてわかるのぉ?」
結局、僕らは日付が変わるまで店にいた。アオキはすっかり潰れてしまって、自分で立つのが精一杯。僕は会計を済ませて、店員に頼んでタクシーを呼んでもらった。
サメジマがアオキに渡した書類を手に入れる必要がある。きっと、会社ではなく自宅にあるはずだ。そんな大事なネタを、他の記者が出入りする場所に置くとは思えない。
全身がクラゲみたいになっているアオキをタクシーの後部座席に押し込み、僕も乗り込んだ。運転手にアオキの自宅の住所を告げ、出してもらう。なぜ僕がアオキの自宅の住所を知っているのか、彼女に聞かれたらどうしようと考えたけれど、幸い今のアオキは完全に潰れている。その心配はなさそうだ。
タクシーは夜の繁華街を抜けて、国道を道沿いに走った。途中で左に曲がり、静かな住宅街に入る。そのまま進み、アオキ宅の前で僕らは降りた。
「アオキさん、ほら、もう家ですよ。鍵はどこですか?」
長身の彼女の体重を支え、部屋の前に立った。いつまでたっても鍵を取り出せない彼女の代わりに、僕がキーホルダーを握る。何個もついている鍵を順番にドアノブに差し込んでいるうちに、かちゃり、と施錠が解ける音。玄関に入ると、アオキはだらしなくその場に倒れ込んでしまった。
「もう家の中ですよ、アオキさん!」
頬を強めに叩いても反応は薄い。仕方がないので彼女を部屋の中まで連れていき、ベッドに寝かせた。
アオキの部屋は意外と女性らしいものが多く、ぬいぐるみまである。カーテンは細かい花の刺繍が施されたガーリーなもので、カーペットの手触りはふわふわだ。定期的にしっかりと掃除をしているのか、ごみはきちんとゴミ箱に納まっている。僕の部屋と違ってモノが多いのに、僕の部屋より整理されている感じだ。でも僕の部屋には、整理するモノ自体が無いから、無理もない。
部屋の中央、壁に寄せた位置に大きなテレビが置いてあり、僕の視線はそのテレビの上に置かれた写真立ての中の写真で止まった。
写真には制服を着た中学生くらいの若者が数人写ってっていて、真ん中にいる女子生徒は肥満気味だった。でも、僕はそれよりもその女子の横に立つ男子生徒が気になった。
どこかで見たことがある。
くしゃっとした、癖っ毛。
「……!」
信じられない、という感情を持つと、人は言葉を失う。でも失ったはずの言葉は僕の脳を駆け巡り、最後には心臓をちくちくと刺した。
胸が締め付けられる。これは、どういうことだ。
さらに写真の背景、つまり生徒の後ろに建っている建物。これにも、明らかに見覚えがある。
「これは……僕の夢に出てきた……」
そう、癖っ毛の男子生徒も、その後ろの建物も、夢で見た光景そのものだった。写真の中でも、空の色は子供が塗ったような青。人物の髪がなびいているので、写真を撮った瞬間に風が吹いていたこともわかる。
夢の中で僕の横に座っていた男子と、最後に向かった校舎。
それが、どうしてアオキの部屋に?
どうして写真に?
あれは……実際にいた人物と、実際にあった学校なのか。
僕の妄想が夢になったものではなかったのか。
電気がついていない部屋の中で、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。今すぐアオキをたたき起こして、この写真のことを問いただしたくなる。しかし、今の僕が優先すべきことは、サメジマがアオキに渡した書類の中身を確認することだ。アオキが潰れているうちに、なんとかそれを見つけ出さなければならない。
震える手で写真を取り、もう一度よく見た。
間違いない。夢の中で見た、あの男子と学校だ。
これは、僕が無くした過去なのか?そう言えば、資料によるとアオキは二十一歳。僕と同年代だ。詳しい生年月日はわからないけれど、僕と彼女は先輩後輩、もしくは同級生として同じ学校に通っていたのか?
そっと、音をたてないように写真を元の場所に戻す。呼吸を整え、するべきことを頭の中で考える。
そう、今は僕の過去のことはどうでもいい。万が一今回のことが上手くいって生き残れたら、もう一度アオキと飲みに行こう。次は、同じ学校に通っていたかもしれない者同士として。
そのほうが、話が盛り上がりそうだ。
アオキが良く眠っていることを確認して、部屋の中を物色する、近々記事にするつもりだったのなら、書類は取り出しやすい場所にしまっておくはずだ。
棚の引き出し、クローゼットの中、本の間。無造作に置かれた書類の束は、公共料金の請求書ばかり。
それらしいものを見つけられず、部屋の真ん中で腕を組んだ。こうなれば、アオキを銃で脅して聞き出すしかないのか……。
でもそうしたら、もう飲みに誘えないのかな。
それは少しだけ、寂しいかもしれない。
下らないことを考えながら、もう一度ベッドで眠るアオキを見る。彼女は寝相が悪いのか、ベッドの上で頻繁に寝返りを打っていた。
その時。
アオキが動いたことでめくれた布団の下。
コールガールが、否、ユキさんが持っていた、茶色い封筒。
あれか。
慎重に、そっと、ゆっくりと。アオキが目を覚まさないように封筒を抜き取る。彼女は静かな寝息を立てて、気持ち良さそうに目を閉じたまま。
手に汗が滲む。少し震えて、封筒を落としそうになった。
ゆっくりと中の書類を取り出した。
それは、
封筒の中身は、
数枚のカルテだった。
しかし、カルテの情報はあくまで一人の人物のもの。たった一人の人物についての情報が書かれている。
カルテの上部には、スズムラ医院の印。
間違いない、これはナツメが持ち出して、その後ユキさんに渡り、そしてサメジマがアオキに運んだものだ。
このせいで、僕はユキさんを殺し。
アオキも殺される対象に選ばれた。
オギノメ・コウゾウを失脚に導くための、ナツメの最後の手段。
僕は自分を落ち着かせ、カルテの情報を読み進めた。
静かな室内に、紙をめくる音。
それ以外は何も聞こえない。
アオキの可愛らしい寝息も、もう僕の耳には届かない。
そして。
最後の行を読み切った。
沈黙。
沈黙。
さらに、沈黙。
僕は。
僕は……。
いや、
違う。
そうじゃない。
そう、
私は、
そうだ。
私は。
今まで、
何を、
何をしてきたのでしょう。
本当に、
本当に、愚かしいとしか言いようがない。
背中に仕込んだ銃で、
できれば自分を、
自分の頭を、
打ち抜いてしまいたい。
でもこれは、
きっと……、
ナツメのメッセージ。
ナツメの導き。
そうよね?
ナツメ。
あぁ……。
全て、
全てを思い出しました。




