② 隔離、幽閉、恫喝
どれくらい時間が経ったのだろう。いや、もう何日、こうしているのだろう。
意味を見いだせない反復は、人の精神を蝕むという。掘っても掘っても埋められる穴を掘る作業のように、僕にはこの行為の意味がわからない。それでも、また目の前にスコップが用意され、僕は意味のない穴掘りをさせられるのだ。
「話をもう一度整理すると……お前さんが被害者とバーで話をしていたのは。一時間半ほど。それから店を出て、階段を上ったと。そして、階段の上から何者かが被害者に向けて発砲。お前さんは倒れ込みそうになる被害者を必死に支え、なんとか階段に座らせた。そして上を見上げた時には、もう犯人はいなかった、ということだな?」
正面に座っているスーツを着た男はペンを指に挟み、ノートのようなものに視線を落としながらそう言った。浅黒い顔は脂でぬらりと光り、口からは煙草と、あと何かわからないにおいがする。
部屋の隅のデスクには、制服を着た警官が座って、帳面のようなものに何かを書いている。
部屋の中にはこの制服の警官と、僕と、スーツの男だけ。
端的に表現して、この空間は最悪だ。
これならまだ、酔っぱらったゴウさんの話に付き合っていたほうが良い。
僕は活動を止めそうになる頭を何とか動かして、口を開いた。
「違う……階段の上にいたやつのことは一瞬だけ見た。でも、そいつはすぐにどこかへ消えてしまった。逆光で顔は見えなかった」
それを聞いて、スーツの男はペンで自分のこめかみをかいた。
「あれぇ……そうでしたっけ。いかんいかん、調書に間違えて記述するところでしたわ。確認のため、もう一度初めから……」
僕はデスクに拳を振り下ろした。
「いい加減にしてくれ! そうやって、もう何度も同じことを話している。僕は毎回同じことを言ってるのに、違うように書いているのはあんたのほうだ」
「そうは言ってもねえ……これはほら、大事なことですのでねぇ。人が一人、死んでおりますから。正確に、慎重の上にも慎重を重ねないと、ね」
男は嫌らしく笑い、上目遣いで僕を見た。
「いいか、僕は彼を殺していない。銃だって持ってなかったじゃないか」
「いやね、チカダ……ああ、お前さんをここまで連れてきた警官ですわ。彼が言っていたのですが、お前さん、バーから一回出てどこかに行ってたそうじゃないですか。それで戻ってきたところを、チカダにつかまったと」
「彼は撃たれていたんだぞ、だから病院に連れていこうとしてたんだ。たくさん、血が出ていた。早くしないと助からないと思ったから……」
男は持っていたペンを僕に向けた。
黄ばんだ目が僕を見据えている。
「そこなんですがね? どうしてお前さんは、被害者が撃たれた直後に救急車を呼ばなかったんです? 病院に連れていくよりも、その方が速いし、何より確実でしょう」
「何度も話しただろう……バーで電話を借りようと思ったんだ。でもバーテンが貸してはくれなかった。だから……」
「殴ったと? ……うーん、解せませんなぁ」
「あいつに聞けばいいだろ……あのバーテンに」
僕はうなだれて、椅子の背もたれに体重をかけた。それは少し歪んでいて、きいきいと鳴いた。
男は話を続ける。
「いやね、そのバーテン……彼が今回の通報者なんですが。電話を貸してくれなんて、頼まれてないって言ってるんですよ」
「そんな――」
「まぁ、最後まで聞いてください。えぇっと、通報者の話によると、お前さんと被害者は店で話し込むうちに口論になり、お互い殴り合いになった。それを止めに入ったのが、通報者本人。そのときに巻き込まれて殴られた、と。そしてその後、お前さんがあることを被害者に言ったら、被害者が急に店を出ていった……。お前さんはそれを追いかけて店を出て、その直後、銃声が聞こえた。これを聞くと、犯人はお前さんしかいないんですよねぇ。銃は一旦店から出た時にどこかに捨てればいいし、これなら全ての辻褄が合う」
「でたらめだ……それに、僕が言ったことってなんだ? そうなるようなことは一言も言っていない」
「ええとですね……『ラブホテルに行こう』と……これはまぁ、あたしなんかがとやかく言う筋合いはありませんがね、痴情のもつれ、ってことですよねぇ?」
「馬鹿馬鹿しい……」
余りのくだらなさに、僕は天井を仰いだ。でも、見えるのは機嫌の悪いシミだらけの天井だけ。空も、雲も、月さえも見えない。こんなことなら、もう少しルイとカナコの家にいればよかった。あのバルコニーからの眺めは、少しだけ気に入った。
そのとき、部屋の扉が開いた。
スーツの男がチカダと呼んだ制服の警官が部屋に入ってきて、男に向かって話しかけた。こいつは、僕から封筒を取り上げたやつだ。
「トウドウさん、ちょっと……」
チカダはスーツの男に何言か耳打ちをし、すぐに部屋から出ていった。すると、スーツの男――トウドウと呼ばれた、最低な男だ――は目頭を押さえながら言った。
「けっこう取り調べが長引きましたな。そろそろ休憩にしましょう」
「待てよ、僕が犯人だなんて証拠はないんだろう? なら今すぐ解放しろ」
「いやいや……それがねぇ……そうもいかないのですよ」
今度は顎の無精ひげをさすりながら、トウドウは僕を見た。
「銃がね、見つかりまして」
「銃だって?」
「そうです。被害者を撃ったものと思われる銃が、です。これから指紋をとりますが……お前さんの指紋が出たら、もう決定ですなぁ」
どこか満足そうにトウドウはそう言った。
何もかもが気に障る。
「出るはずないだろ。僕は撃ってないし、その銃には触ってもいなんだから」
「ほう……その銃には、ですかぁ……。お前さん、他の銃には触ったことがあるんですかな? もし許可を取らずに銃を所持したのなら、それはそれで犯罪になってしまいますなぁ……そちらの方も、後で調書をとらせてもらいますよ?」
「お前……!」
右の拳に力が入る。あのバーテンよりも、こいつの方が殴りたい。
「おっとと、暴力はいけませんな。ここは警察のど真ん中、わかってますかねぇ?」
僕は拳をデスクの下にしまい、代わりに思いっきりデスクを蹴り飛ばした。
「まあ……お疲れのようですから、休憩にしましょう。君、仮眠室にお連れして」
ずっと隅で記述をしていた警官が立ち上がり、僕の背後に立った。そしてロープを僕の腰に回して、それから僕を立たせた。
「ゆっくり、休んでください。それで、少しでも正確に当時の状況を思い出してくださいね」
トウドウはそう言うと椅子から立ち上がり、部屋から出ていった。
「こちらです」
ロープの端をもった警官は僕を誘導して通路を歩いた。部屋を出てまず左に進み、左右に分かれているところをまた左に曲がった。さらに進んで、取調室よりも一回り小さい部屋に僕を連れてきた。僕が中に入ると、彼は外に出た。その直後、鍵がかけられる音。
「時間になったら、また来ます」
ドアの外からそれだけ言って、彼の足音は遠のいた。
これが、もう何度も続いている。僕が今いる仮眠室というのも名ばかりで、これは過去に取調室として使っていた部屋だろう。天井の蛍光灯外され、かろうじて簡易ベッドがあるだけ。それも、たっぷりと湿気を吸い込んだ粗悪なものだ。壁には窓も無い。入って来たドア以外からは出られないようになっている。
鳥肌がたつくらい気持ち悪いベッドに横になり、暗闇を見つめた。こうしている間にも、ヤンは他の殺し屋に依頼を回して、次の対象であるアオキを消そうとするかもしれない。僕の仕事が遅い、もしくは実行不可能だとヤンが判断すれば、その可能性が高くなる。
こうしている時間なんて僕にはないのに。
腹立たしさと焦りで頭の中はいっぱいだったけれど、身体はしっかりと疲れを蓄積している。記憶の中を探す限り最低のベッドの上で、僕はまどろみに落ちた。
何の夢も見なかった。
眠ったという実感も無い。
そんな中、僕の意識を強制的に覚醒させたのは、トウドウの野卑な怒鳴り声だった。
「時間ですよぉ! 起きてください!」
ドアが開けられ、通路の光が入ってくる。ようやくこの暗闇に慣れた思ったらこれだ。
ベッドで身体を起こすと、自分のにおいに気になった。汗と脂で、ひどいにおいだ。
最後にシャワーを浴びてから、どれくらい経ったのだろう……。
自分が、ひどく汚らしいものに思えてくる。
いや、実際そうなんだろう。
今まで、何人殺してきた?
どれだけの命乞いを無視してきた?
「取り調べの続きに、ご協力を」
見ると、トウドウの無精ひげはきれいに剃られていた。きっと、熱いシャワーを浴びて、たっぷりと食事をとってきたのだろう。顔色も良くなっている。
それに比べて僕は自分のにおいに嫌気がさし、最後に食べたものを言えば、取調室で出されたスポンジみたいなサンドイッチだけ。キュウリはしなびていて、卵は何の味もしなかった。
再び腰にロープを巻かれ、僕は通路を歩いた。角を右に曲がり、元の取調室に入る。すっかり形を覚えてしまった椅子に座って、トウドウと差し向う。
意識が朦朧として、上手く考えられない。トウドウが何か言っているような気もするけれど、言葉が意味を成してくれない。
あぁ……そうだ。僕はこれまでたくさんの人を殺してきた。なんとか上手く立ち回ってきたけれど、本来なら許されることじゃない。こうしてクソみたいな男に、無駄な穴掘りのような取り調べを受け、嫌がらせされても当然なのかもれない。
そうだ、今までが出来すぎていたんだ。僕はもっと早くこんな目に遭うべきだったんだ。サメジマみたいに途中で改心したわけでもないし、仕事だからと言って大切な人の肉親まで殺してしまった。
そう考えると、今の状況に文句をつけることなんて出来ないような気がする。いや、きっと僕は、文句なんて、つけてはいけないんだ。トウドウは僕のようなドブネズミに制裁を加える、一般市民の味方なのではないだろうか……。
あぁ……ダメだ。
もう、何も考えたくない。
何もしたくない。
何にも、抗いたくない。
あれ……学校が見える。視線を校舎の後ろにのばすと、空は抜けるような青。周りには品行方正で大人しい優等生たち。軽やかな風が頬を撫でて、とても気持ちが良い。誰も不満なんて無いような顔をして、微笑み合っている。
僕は校舎の中庭にある芝生に座り……横には癖っ毛の男子。
これは……夢だ。
はやく起きないと、またトウドウにひどい嫌がらせをされるかもしれない。
でも……。
あんな現実よりも、この素敵な夢の中にいたい。
何も知らないような顔をして、風に吹かれて雲を眺めていたい。
横に座る男の子がしているイヤホンから、何か聞こえる。
あれは……。
どこかで……。
「……リン!」
あぁ、誰かに呼ばれた……。
でも、もう起きたくないよ。
「リンってば!」
もう少し、もう少しここにいたいんだ。
僕は……ドブネズミだってこと、忘れたいんだ。
「しかたないな……ごめんね、女の子の顔だけど……」
でも、これは誰も声だろう。
気になる。
記憶があれば。
僕に昔の記憶があれば。
殺し屋になんて。
ならなかったのに。
「しっかりしろ!」
強い衝撃を右の頬に受けて、僕は強制的に目が覚めた。椅子から転げ落ち、阿呆みたいな顔をしているだろう。
デスク越しに、トウドウの顔が見える。でも、さっきまでの余裕はなさそうだ。
「リン、しっかりして」
名前を呼ばれたので声の方を見ると、スーツを着た女性が僕を見ていた。ショートカットで、瞳は大きく活発そう。背が高くて、背中に添え木でも仕込んでいるかのように、姿勢が良い。
「……カナコ」
僕がそう言うと、カナコはにっこりと微笑んだ。
「やっと、戻ってきた」彼女は床に転がっている僕に手を差し出した。
「僕は……何を」僕は彼女の手を取り、再び椅子に腰かけた。
部屋の中にはトウドウとカナコ、それにチカダがいる。記述係の姿は無い。
カナコは腰に手を当て、椅子に座っているトウドウをじろりと見た。
「説明してくれますか。これはどういうことなのか」
トウドウは狼狽をかくせない様子。
「ど、どういてカシワギ警部がここに……誘拐事件の捜査担当では?」
カナコは腰から手を離し、腕を組んだ。彼女は長身なので、この姿勢がとても良く似合う。
「あまりに無理矢理な任意同行が行われたって聞いたから、飛んできたんだ。おいトウドウ、これはどういうことだ? ちゃんと規定通りの休憩と、食事はとってもらったのか? まさか、あの古い仮眠室を使わせたんじゃないだろうな」
カナコの矢継ぎ早な問いかけに、トウドウはさらに狼狽え始めた。
「いえね……通報がありまして、この被疑者が怪しいと通報者が……それに確かに話を聞くと、犯人はこいつしかおらんですよ。なんとか自白を引きだそうと、これでも最善を尽くしてですね……」
「ふざけるな!」
カナコの怒号が室内に響いた。
彼女はさらに語気を強めて続ける。
「お前みたいなのが、取り調べの可視化に反対するんだろうな、トウドウ。さっき少し話をきいただけでも、規定違反のオンパレードだ! まともに食事をさせない、ろくに睡眠も取らせない、無駄な調書をくどくどと取らせる。お前は戦前の特高か! 矜持も誇りもないなら、警察手帳なんて便所に流してしまえ!」
言われたトウドウはすっかり縮み上がってしまい、椅子から立ち上がってひたすらカナコに頭を下げている。年齢でいえば、圧倒的にトウドウの方が上のはずだけど、カナコのほうが階級は上なのだろうか。
「取り調べはあたしが代わる。お前はもう帰れ」
カナコはそう言って、部屋の扉を指差した。
「出ていけ」
トウドウはまだもごもごと言っていたけれど、カナコに睨まれて結局出ていってしまった。
カナコは部屋の隅に立っていたチカダにも、視線と顎の仕草で退席を促す。
部屋の中には僕とカナコだけが残された。
「リン……ごめんね、ひどいことされたね」
カナコは先ほどまでとは一変して優しい顔つきになり、向いの椅子に座って僕の手を握った。
「でも……どうしてここが」
僕の問いかけに、彼女は部屋の入り口の方を見た。
「彼がね、教えてくれたんだ」
よく見ると、記述係の警官が壁に隠れるようにして部屋の外に立っているのが、開け放たれた扉から見えた。彼は両手を身体の後ろに組み、微動だにしない。
「彼はあたしと同期なんだけどね、ひどい取り調べがあるから、来てくれって……まさかリンがいるとは思わなかった」
「あぁ……良かった、カナコが来てくれて」
僕の手を握っている、カナコの手を見つめた。細くて、白くて、きれいな手だ。
それになにより、温かい。
「カナコ、僕はどれくらいここにいたんだ?」
カナコの表情が曇る。
「彼の話によると……リンがここに連れてこられてから、今日で三日目だよ」
「そんなに……」
「リン、何があったの? トウドウはリンが殺人犯だって言ってたけれど、何かの事件に巻き込まれたの?」
三日……僕がここに幽閉されて、もうそんなに時間が経っていたのか。
時間が、時間がない。
「ねぇ、リン。教えて。何があった?」
心配そうに僕の顔をのぞき込むカナコ。
「カナコ……僕はこれから、しなくちゃいけないことがあるんだ。だからここから逃がしてほしい」
「逃がす? どうして? あたしがちゃんと処理をして、すぐにでも正面から出られるようにしてあげるから。だから、あたしには全てを話して、リン」
彼女の言葉を聞いて、僕は下を向いた。
カナコ、それじゃ遅いかもしれないんだ。手遅れになるかもしれない。次の対象が、アオキが別の殺し屋に殺されないうちに、僕は彼女から話を聞かなくてはいけない。そして、出来ればアオキが殺されないようにしたい。オギノメ・コウゾウの都合で誰かを殺したり、誰かが殺されたりするところを、僕はもう見たく無いんだ。
ひとつの提案が、僕の頭の中に浮かんだ。
でもこれをカナコが受け入れてくれるかわからない。
きっと普通の警察官なら真面目に聞きもしないだろう。それも、今目の前にいるのはカナコだ。とても優秀で、まっすぐな人。
でも、これに賭けるしかない。
「カナコ、僕の話を聞いてくれ。こんなこと、許されることじゃないのは十分わかっている。でも、急いでしなくちゃいけないことがあるんだ。そのためには、すぐにでも行動に出たい。だから何も聞かずに、すぐ僕をここから逃がしてほしい」
「でも……それは……」
「もろん、ただでとは言わない」
「どういうこと?」
「二日……いや、一日でいい。時間をくれ。用事が済んだら、この前貰ったカナコの連絡先にすぐ連絡をいれる。そして、カナコが欲しがっている情報を教える」
「あたしが欲しがっている情報……?」
僕は何も言わず、ただ頷いた。
「なんなの?」
僕は力を込めて、カナコの手を握り返した。
「少女誘拐事件の被害者が、監禁されている場所だ」




