⑩ think
ゴウさんの店を出た僕は、ヤンから渡された封筒を持って歩いていた。繁華街は完全に夜の顔になっていて、とてもにぎやか。ここぞとばかりに仕事をするネオンや、すっかり煤けてしまっている看板。それに、もう冬だというのに、街を歩く人の顔がぎらぎらと脂ぎっているように見える。
あぁ、ここが僕の場所だ、と実感する。ルイの自宅に招待されて、少し毒気が抜かれたいたらしい。この雑多な、下品な空気。この中に紛れてこそ、僕は生きていける。
でも……。
ひとつだけ、気がかりなことがある。それは、あのコールガールがカナコの知り合いだったということ。今までは見ず知らずの他人が相手だったけれど、銃弾を撃ち込んだ相手の知り合いに会うことは、これが始めてだった。
少し、胸がざわつく。
これは、罪悪感だろうか。
たぶん、そうなんだろう。でも、人間は生きていれば誰かに迷惑はかけるし、どこかで他人に損害をかぶせている。今回は、それがたまたま近しい人で、たまたま殺した相手のことを僕が気に入っていたというだけ。
単なる偶然。
そう、思うことにした。
でも、手にも持った封筒を意識すると、カナコの言葉が頭に浮かぶ。彼女は僕の仕事のことを、詳しくは聞かなかった。それでも、心配してくれた。
コールガール……いや、ユキさんの実家の事件と、今回の家出少女誘拐事件。その二つに関わっているであろう黒幕と、僕が接点を持つのを憂慮してくれていた。
でもね、カナコ。たぶん、もう手遅れなんだ。僕に仕事の紹介をしてくれている男は、少なくとも今回の誘拐事件について、確実に何か知っている。もしかしたら、そいつは全ての黒幕と直接コンタクトを取れるのかもしれない。僕はもう、後戻りができないところに来ていると思うんだ。
だから、この手に持った封筒の中の情報をもとに、僕はまた人を殺す。ユキさんのときみたいに、無感情に、下品に、引き金を引く。
こんな僕は、もうカナコとドライブをする資格なんて無いのだろうか。誰もいない砂浜で、二人で足をとられながら歩くことはできないのだろうか。
それは、少し寂しいな。
あぁ、でも、一つだけ素敵な想像を働かせることはできる。僕がこのまま仕事を続けて、それがいつか公になったとしたら。
そのときは、カナコに手錠をかけてほしいな。
カナコから貰った手紙の連絡先に電話をするときは、きっと僕が捕まるときだ。
そんな予感が、繁華街の喧騒に漂った。
細い道を何度か通るうちに、誰かに尾行されているのに気が付いた。あえて人通りが少ない道を選び、相手の出方を窺う。
誰だ? 僕を尾行して、何になる?
ヤンの地下に入ったことがばれたのだろうか? でも、それなら彼の部屋を訪ねたときに僕を殺せばいい。僕の死体をあの地下に放り込んでおけば、露見する可能性は低いだろう。
じゃあ誰が僕を追っている?
間が悪いことに僕は今、銃を持っていない。相手が武器を持っていたら、おしまいだ。でも、殺すつもりならチャンスはいくらでもあるだろう。わざわざ、こうして人気のない道を選んでいるのだから。
そのとき、背後から声がかけられた。男性の声だけど、少しトーンが高い。
「リン、気づいているんだろ? 俺だよ、サメジマだ」
驚いて、振り向いた。暗闇の中に、筋骨隆々とした男が立っている。夜なのに帽子を目深にかぶり、ポケットに両手を入れている。
「サメジマ? 本当に?」
僕がそう言うと、彼は帽子を取った。坊主頭で、眉毛がほとんど無い。
「あぁ、本物だ」
サメジマは、ナツメが僕と組む前にコンビを組んでいた相手だ。ナツメが僕を拾ってからはコンビを解消し、サメジマは殺し屋稼業からは足を洗ったと、ナツメから聞いていた。
「久しぶりじゃないか! どうしたんだ? 急に現れるから……」
サメジマは照れくさそうに頭をかき、大きな身体に似合わない、ハイトーンボイスで言った。
「少し、ナツメに頼まれごとをされてな……それで、こうして出てきたんだ」
心臓が、びくんと跳ねた。
「ナツメ? ナツメと会ったの?」
「少し前にな」
「いつ? どうして僕に教えてくれないんだ!」
自分でも驚くほど、大きな声が出ていた。
サメジマは視線を下げて、道の先を指差して言った。
「少場所を変えないか? 話さないといけないことがあるんだ」
サメジマが先を歩いて、僕はその後に続いた。彼は、僕が今まで歩いてきた細い道とは違って、広くて人気が多い道を選んで歩いた。きょろきょろと左右を見て、さりげなく人の中に紛れるようなコースを選んでいる。その様子を見て、僕は確信した。
誰かに追われているのは、サメジマのほうだ。
やがて僕らはとあるビルの横から階段を下り、地下に入った。その先にはバーがあり、入り口をくぐると、サメジマは出入り口が見えるところを選んで座った。丸いテーブルに、少しガタつく椅子。煩い酔っ払いはいないし、無粋な観葉植物も無い。髪を後ろになでつけた男性のバーテンダーは、僕らに何の興味もないような顔で、真摯にグラスを拭いている。彼の天職なのかもしれない。
店内は客がまばらで、誰かが入ってきたらすぐにわかる。たぶんこれが、サメジマが求めたシチュエーションなのだろう。
天井のスピーカーからは、女性のソウルシンガーの歌が流れていた。これは、僕でも知っている曲だ。
「アレサ・フランクリンだ」天井を指差して、サメジマが言った。「さすが、腹から声が出てるな」
それがジョークなのか、ただの寸評なのかわからなかった。でも、僕は三割くらいの笑顔を見せておいた。この先の話をスムーズに引き出すための、先行投資。
「それで……ナツメは今どこにいる? 何をしていている? どうして僕の前に姿を現さない?」
僕は思わず丸いテーブルに肘をついて、サメジマに詰め寄る。彼は戸惑ったように顔を歪め、身体を縮めた。
「リン、これから話すことはとても危険で、あまり大きな声では話せない。本当ならもっと別の場所が良かったんだが、時間が無いからここにしたんだ」
でも、僕は引かなかった。ナツメがまだ生きていて、この繁華街にいるのならば、どうして僕の前から姿を消したんだ。
納得できない。
そんな僕の態度と表情を見て、サメジマは降参したように肩をすくめた。あの有名小説家の登場人物ように、やれやれ、とでも言いたげだった。
「そもそもどうしてサメジマが出てくる? 僕が話を聞きたい相手はナツメなんだけど」
「それも、事情があってだな……」
「どんな事情だよ!」
「お、落ち着けよリン……」
「僕は落ち着いてる。サメジマこそ、早くナツメに連絡でもして、ここに連れてきてよ」
彼は小刻みに首を振った。残念ながら、左右にだ。
「それは出来ない」
「どうして? サメジマ、さっきお前は誰の尾行を気にしてたんだ? 下手にきょろきょろして、逆に目立ってたぞ。何がどうなってるんだ?」
サメジマはうんざりしたような顔。
「勘弁してくれよ……俺はもうそっちの世界の人間じゃないんだ。頼まれて、仕方なくだな……」
「何を頼まれた? どうしてナツメはここに来ない?」
「何から話せばいいのか……とても複雑なんだよ。これはリン、お前のためでもあるんだ」
「どうして話し渋る? なに? 場所が悪いっての? じゃあ、ラブホテルにでも行こう。あそこなら二人っきりになれるし、誰も聞き耳は立てない。僕は聞きたいことさえ聞ければ、何をされてもかまわないんだから」
「おい……俺はそんなつもりは無いよ」
「じゃあ、どうして……!」
サメジマが、観念したように口を開いた。
ゆっくりと、しかし確かに、
「ナツメは……死んだんだ」
と言った。
僕は、言葉が出なかった。
「いいか、リン。ナツメは死んだ。殺されたんだ。だから、ここには来れない。俺だって本当は今日リンに会う予定は無かったんだ。でも、ナツメが死んで、俺だってどうしていいのかわからなかった。だから、こうしてだな……」
「……サメジマ」
「なんだ?」
「ナツメは、本当に死んだのか?」
サメジマは少し間を置いて、こくりと頷いた。
「……どうして?」
「それは……今は言えない」
「なんでだよ!」
勝手に僕の右手が動いて、サメジマの胸ぐらをつかんでいた。
口の中がひどく乾燥する。
店内にいる少ない客が僕らを見ている気がした。実際、見ているだろう。
かまうもんか。
「それを知れば、リンも殺される」
サメジマは僕の手をつかんで、ゆっくりと下ろした。
「殺される? 僕も? ナツメは……何を知ったんだ……」
「とりあえず、何か飲もう」
サメジマはバーテンを呼び、大きな声を出してすまないと謝罪した。そしてメニューを眺めて、ひとつを指差して注文した。僕にもメニューを見せてきたけれど、とても選ぶ気にはなれない。僕が片手を振ると、サメジマが何か適当に注文してくれたみたいだった。
「いいか、リン。これはとても複雑で、やっかいな話だ。その真ん中にナツメは首を突っ込んだ」
「どうして……どうしてナツメはそんな危ないことに?」
「リン、お前ナツメのことは、どれくらい知ってる? つまり、あいつの過去についてって意味だ」
「どれくらいって……」
考えてみると、何も知らない。僕がナツメについて知っているのは、ブルースが好きで、ギターが弾けて、それで……僕に親切だったということだけだ。
「……知らない。ほとんど何も、知らない」
サメジマはテーブルを中指を叩いた。
こつ、こつ、と。
「実は俺も、ほとんど知らなかった。あいつが殺し屋として仕事をし始めたのは、確かあいつが……十四歳くらいの頃だったはずだ。俺と組んでから、色々な話をしたけど、あまり自分のことを話したがらないやつだった。ナツメって名前だって、本名なのかどうなのか、あやしいもんだった」
僕は何も言わずに、ただサメジマの指を見ていた。
「ナツメと俺は六年くらいコンビでやっていた。でも、お前がこの世界に入って、俺は入れ違うようにして足を洗った。それから俺は繁華街を出て、建築現場で見習いをしていたんだ。少しでもマシな人間になろうとしてな。そこに……ナツメが来た」
僕は顔を上げた。
「どうして?」
「頼み事があるっつーんだよ。殺し屋から足を洗った俺にしか頼めないことだ、ってな」
「何を頼まれた?」
「ここからが入り組んでくるんだが……お前、少し前に金持ちの女を仕事で殺しただろ?」
ユキのことだ。
僕は頷いた。
「その金持ちの女が持っている書類を、回収してきてくれってさ」
「書類? じゃあ、あのときの……」
「ああ」
サメジマは頭を下げ、秘密の話をするような顔をした。
「あのときお前から封筒を受け取ったのは俺だ。全然、気付いてなかっただろ?」
「……まったく」
「でも、びっくりしたんだぜ。頼まれて行ってみれば、お前がもう女を殺してるんだからな。俺は咄嗟にヤンの名前を出して、何とか書類を回収したわけだ」
「あの書類はナツメと関係があるものなのか?」
「と言うか、あれはナツメが女に預けてたものだ。自分が持ってると危ないって言ってな。でも、書類が必要になったから、俺に回収を頼んできたってわけだな」
「ナツメが自分で取りにくればよかったんじゃないのか?」
「いや、その頃のナツメはもう命を狙われていた。隠れ家を用意して、そこから極力出ないようにしてたんだ。だから、俺に雑用を頼んだんだよ」
「でも、どうしてサメジマに……僕に頼めばよかったのに」
「それがな……ここからが重要なんだが、その書類はオギノメ・グループのトップに関わるものなんだよ」
「なんだって?」
「つまり、殺し屋稼業をしているやつがその書類を手にしたら、やっかいなんだ。だから俺に……」
「待って、待ってくれ。そもそもどうして僕ら殺し屋が、その書類を持つとやっかいなんだ? それがわからない」
僕の言葉を聞いて、サメジマは不思議そうな顔をした。
「お前……知らなかったのか?」
「だから、何を?」
「お前やナツメや、昔の俺みたいな殺し屋に報酬を出していたのは、オギノメ・グループのトップ、オギノメ・コウゾウだぞ」
「オギノメグループが……? いや、そんな話は全然……」
「ナツメから聞いてなかったのか?」
「あぁ……何も」
「それはたぶん、あれだな……まあ、今はいいか。とにかく、俺はその書類を回収して、別の人間に渡したんだ」
「どうして?」
「それがナツメの指示だったからだよ」
「待ってくれ……よくわからないんだけど、ナツメは何をしようとしていたんだ?」
「あぁ……それが肝だな。うん、たしかに。いいか、ナツメはオギノメ・グループを壊そうとしていた」
「壊す?」
思わず、眉根を寄せた。
「もっと正確に言えば、オギノメ・コウゾウを失脚させたい、かな。あの書類には、それだけの効果があったってことだな」
「でも、僕たちに報酬を支払ってくれていたのは、そのコウゾウなんだろ? いわば雇い主だ。なぜそんなことをする?」
そこで、注文していた飲み物が来た。僕は喉が渇いていて、グラスを一気に傾けた。
サメジマも同じだったらしく、美味そうにアルコールを喉に流し込む。
「あぁ……うまい。えっと、話の続きだけどな、ナツメが殺し屋になる直前に、あいつの両親が殺されたことは知ってるか?」
僕は首を左右に振った。
「あいつの両親を殺したのが、オギノメ・コウゾウだ」
「なんだって? どうして……ナツメの両親も殺し屋だったのか?」
今度は、サメジマが首を振る。大型の鳥類みたいだ。
「ちがう、ちがう。あのな、ナツメの両親、と言うか父親は、腕の良い医者だったらしい。それで、ある日コウゾウが、ナツメの父親にとある処置を頼んだんだ」
「処置? なんの?」
サメジマは再び、喉を鳴らしてアルコールを飲んだ。もうグラスの中は空に近い。
「それは聞いてない。というか、教えてくれなかったな。ま、とにかく、その処置はコウゾウ側からしてみれば、けっこうマズイ部類のものだったらしい。少しでも、誰かに知られる可能性を消しておきたかった。だから、コウゾウ氏は関係者を殺した。つまりナツメの父親と、母親だ。そして、証拠が残らないように家に火をつけた」
「どうして母親も? 医者は……つまり処置のことを知っているのは、父親だけなんだろ?」
「それがな、ナツメの実家は開業医なんだ。母親も看護婦として処置に立ち会ったらしい。たしか……スズムラ医院、だったかな」
どくり、と鼓動が高鳴った。
「スズムラ医院? その名前は確かなのか?」
「あぁ。ナツメの本名は、スズムラ・ナツメだからな。確かに、病院の名前はそれで合ってる」
どういうことだ? スズムラ・ユキさんの実家と、ナツメの実家が同じ病院? それに、両親が殺されたという話も同じだ。
もしかして、これは。
「……サメジマ、ナツメに姉さんがいるって話、聞いたことない?」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「ああ、いるぞ。いや正確には……いた、だな」
「いた?」
「そうだ。いいか……よく聞けよ? ナツメは実家で両親が殺されて、家に火をつけられた後、燃え盛る実家の中に飛び込んだんだ。そして両親を殺したコウゾウ氏につながる書類を持ち出した。その後身寄りがなくなったナツメは殺し屋になって、自分の雇い主であるオギノメ・コウゾウに復讐を誓った。それには持ち出した書類が必要不可欠だったわけだ。そこで、自分が持っているよりも安全だろうと、あいつはその書類を姉に預けたんだ」
「その姉って……」
サメジマは視線を下げて、大きくため息をついた。
「そうだ。お前が仕事で殺した、金持ちの美人。彼女がナツメの姉だ」
視界が狭まり、気が遠くなりそうだった。
僕は……。
カナコの大切な人だけではなく、
ナツメの姉さんまで、殺していたんだ。
「……サメジマ、話の続きはまた今度にしても良いかな?」
「……ナツメの姉さんを殺したことがショックなんだろ? だから、慎重に話そうとしてたのに……」
僕らは会計を済ませ店を出て、地下から地上に出る階段に足をかけた。先にサメジマが歩き、その後ろを僕が歩く。
額が痛んだ。これはアルコールのせいではないだろう。
頭ではサメジマの話の続きを聞きたいと思っているけれど、とても冷静には聞けない。
そうだ、サメジマの連絡先を聞いておかなければ。今度はいつ会えるのかわからないのだから。
そう思って上を向き、サメジマに声をかけようとしたときだった。
狭い階段に、一発の銃声が響いた。




