†3 ジメジメと暗く腐った憂鬱なダンジョンを僕は恨んでばかりいた
探索は陰惨を極めた。
見張りの番兵に気付かれないよう、しばらくは明かりも灯せない。
仕掛けられた数多の凶悪な罠を辛うじて躱し、入り組んだ迷い道に行く手を何度も阻まれる。
その度に戻り、同じ場所をもう何度通ったか分からない。
暗闇の中で敵の気配を察すれば、息を潜めてとにかくやり過ごす。目に見えなければ戦う事もままならない、のみならず同士討ちの危険もあった。一刻一刻が永遠にも感じられ、生きた心地もしない。
奥に進むにつれ淀んだ空気が、ゴブリン共の糞や体臭、カビや生ゴミの腐れたような臭いが立ち込め、まともに息も出来ない。
吐き気が止まらない。
シアノに借りた甘い香りのするマスクもたいして効果がない。
靴が滑り、床が濡れていると気付く。確かめると血だまりだった。先に入った冒険者の末路だ。罠に串刺しにされ、既にスライムに取りつかれ捕食されている。
転がっていた剣を拾い、掲げる。
「静かに眠っていればいい。仇は、討ってやるよ」
それを聞いたシアノが苦笑いする。
「フフッ、手を滑らせて自分の脚を切らぬようにな」
更に下の階へ降りる道を見つけ、そろそろいいだろうと、やっとランプを点ける。
はじめて視界が開ける。光とは、何と暖かく神聖なるものだろうか。
「おい。これは、何だ?」
口に当てていた、今までマスクだとばかり思っていた布切れを、僕は凝視した。膨らんだ三角形をして各頂点にレースの紐が縫い付けられている。何かの記号だろうか、隅にDと書いてある。
「言わせるな、恥ずかしい」
シアノが伏し目がちに照れたように言う。
僕は精神的に莫大なダメージを負った。致命傷である。
「済まないが他に丁度よいものがなかったのよ。仕方あるまい、毒霧で死ぬよりはよかろう。
如何に盗賊とはいえ常に面布など装備しておらぬ故」
代わりに常に装備していた布切れを使ったという訳だ。
クサい弔いのセリフを捧げてあげた、あの冒険者も絶対浮かばれてない。
魂を削られて言葉の出ない僕に、シアノが気休めを言った。
「心配ないわ。誰も見てはおらぬ」
その言葉がまるでフラグを立てたかのように、エンカウントした。
「ヒクワーマジヒクワーヒワイヤワー」「コノヘンタイカメン」「テメーハママノオッパイシャブッテロヨ」
妙な鳴き声をあげてゴブリンが三体現れた。醜く歪んだ卑屈な顔、そしてその体毛は脂でべとべと光り、不潔な臭気を発している。お互いに何か喋っているようだがゴブリン語など僕は知らない。
名も知らぬ冒険者の、形見の剣を抜き放ち構える。
「何言ってるかよく分かんないけど、命乞いなら無駄だ。この剣の錆にしてやるッ」
「ヤベーヨヤベーヨ」「チューニビョーカコイツ」「チョーコエー」
がむしゃらに剣を振るうと、怯えるように隅へ隅へと逃げ、追い詰めると不意に飛びかかってくる。
シアノが援護する。投剣で釘付けにしたところを薙ぎ払う。
低く、膝を狙い引っ掛けるように斬ると敵はバランスを失う。渾身の突きを入れる。刃が肉に食い込む、手に嫌な感触が伝わってくる。
振り向きざまに一閃、飛びかかってきた奴に剣風を叩きつける。半端に切れ残った上半身が地を這いずり、しばらくして、やっと止まった。
残りの一匹はシアノが短刀で片付けた。
「見直した。お主、中々出来るではないか」
僕は無言で剣を仕舞う。
ゴブリンからは黄色の体液が出た。ダンジョンの壁にへばりついて、触覚をまだ動かしている。
※ ※
地下数十階へと進むにつれて、魔物の出現も数を増し、その度に血みどろの戦闘を繰り広げる。朽ちた冒険者の亡骸を何度も見た。話しかけても返事はない、捜索隊は全滅だろうか。
それを思えばシアノの実力も口だけではない。罠を見抜く力だけでも、幾度救われたか分からない。
とうとう最下層に辿り着いた僕とシアノを迎えたのは、広大な地底空間とそのフロア一杯に沸いたゴブリンの群。
口々に、意味のわからない鳴き声を上げ、寄ってたかってわらわらと飛びかかってくる。
「ジュースカッテコイ、オマエノカネデ」「コノカバンゼンブモッテケヨ、イエマデナ」「バーカシネ」「キブンワルイカラナグラセロ」「チンゲモヤスゾ」「ケケケケダッセエヤツ」「オマエキモオタナンダッテナ」「コノクズラノベヨンデルゼ」「キモチワル、ヨルナチカズクナ」「ヨオデブ」「クセエヨクソムシ」「サワンナキショイ」「バイキンガウツル」「コイツムシシヨーゼ」
僕は雄叫びをあげ、手当たり次第斬りつけた。黒く醜い小鬼はたしかに弱いが無尽蔵に、殺しても殺しても湧いてくる。
「ええい、切りが無い」
「つ、疲れる。シアノ、何か手はないのかよ」
背中合わせに会話する、もはや息も途切れ途切れだ。
「進むしかないわ。彼奴等はダンジョンの力が産み出した魔物。元を絶たぬかぎりはどうににもなるまい」
そしてシアノは決心した様に、背嚢から取り出したカタナを抜き放つ。
刀身が妖しく輝く。
「仕方ないの。これは二度と使わぬ誓いであったが」
「お前、盗賊じゃなくて侍だったのか」
「そうよ。この事、誰にも言うでないぞ」
斬り払い、蹴り飛ばし、蹂躙する。血路を切り開き、二人は群れの中を突っ切る。
限りなく遠く思えるフロアの果てに、ようやく出口が見えた。
「ここは私が食い止めるッ! 進めッ!」
背後から襲い掛かるゴブリンに凄まじい斬撃を繰り出しながら、シアノが僕の背を押す。
もう後ろは気にしない、僕は夢中で中に駆け込む。
「さァ、ここからが始まりよ」
手甲を滴る血を嘗め、迫り来るゴブリンを前にシアノは不敵に笑みを浮かべた。
※ ※
先の部屋には台座が置かれ、上にエルゴが寝かされていた。深紫色のバリアに包まれて、駆け寄り助け起こそうとすると電撃が走り弾かれる。
ボスが出現した。
「フハハハ、我はゴブリンの王である」
彼は話が少し長かったので要約すると、魔王の力で人の言葉を喋れるようになった、そして強大な力を云々。
永き封印により魔力が尽きたダンジョンの、新たな核になるのがこの、チアミン王の血をひく女:エルゴの魔力。もし失われればここは崩れ去り、生きて外へは辿り着けない。もし引き返すなら見逃してやる。
「さあ、どうするかはお前が決めろ」
迷いなど、なかった。
「答えは、こうだッ」
と、僕は剣を振りかざす。
「フハハハ、馬鹿め。小癪なこわっぱが。ちっぽけでひ弱な人間の分際で、この我に勝てるとでも思うのか。チャンスは与えてやったというのに、どこまでも愚かな生き物よ。さあ出来るものなら掛かってこい、我に傷一つでも与える事が出来たなら褒めてやろう。数十年前のあの男もそうだった、そもそもこの封印を、うわっ。待て」
面倒臭くなったので、途中で斬りつけた。
もちろん死ぬつもりなんてない。奴を倒してエルゴを救い、全員で生きて帰るのだ。
戦闘が始まり、ボコボコにされながらも何とか倒した。刃こぼれした剣で、何度も這いつくばり、苦い砂を噛まされ、それでも何とか立ち上がって。
バリアは消えている。意識のないエルゴを、僕は抱きかかえる。
地鳴りの轟音と共に、ダンジョンが崩れはじめた。
※ ※
来た道を引き返すとシアノが待っていた。
「よかった。無事だったんだ」
「ああ、全部斬った。村正は折れてしまったがな」
この女はたぶん、苦労を何気ない風に言うのが好きなのだ。短くも濃い付き合いなので、だんだん分かるようになって来た。
「お主、やったのだろう? 魔物はみな消え失せた」
「ああ、死ぬかと思ったよ。でもそのかわりダンジョンがやばい」
地割れのひびが足下まで来ている。
「その子供は、娘?」
バレた。背中におぶったエルゴを庇いつつ、冷や汗を堪えながら平然を装う。
「カルシフェロール様のご令嬢、エルゴ・カルシフェロールだ」
「お主、謀ったな」
悔しげな顔を見せるシアノ。
「ご免、でも今はそんな事言ってる場合じゃない。ダンジョンはもう持たない、早く逃げなきゃ」
ギリギリと睨みつけられ、僕は虚勢で対峙する。……刹那、小さな溜息とともに、
「…貸せ、お主では遅い」
「えっ?」
躊躇する僕に構わず、エルゴを奪い取る。
「何をする気だ」
尋ねる僕を無視してシアノは、背嚢も小手も、持てる荷物を全て捨て始めた。
そして迷うことなくエルゴを背負いこむ。
「行くぞ」
「えっ、いいの?」
「やかましい、出たら覚えておれ。今は兎も角、走れッ」
そして崩れゆく階段をひたすら登り続ける。
崩壊はすぐ真後ろだ。割れ目から漆黒の虚無が、引きずり込もうと触手を伸ばす。
「次は右よ。お箸を持つ方じゃ、間違えるでないぞ。そしてすぐ左、罠があるので跳べ」
シアノは全てのルートを覚えてでもいるのか、一度も誤りなく指示する。
限界が訪れたころ、やっと外の光が見えた。
最後の階段を駆け上る。
やった、外だ。
「チィッ」
背後のシアノ、足を取られ転倒している。出口は本当に、目と鼻の先だというのに。
振り返り、手を伸ばす。シアノはその手を取らず、背負っていたエルゴを放り上げ、投げ渡す。
「ほら、受け止めろ!」
「シアノ!」
エルゴを抱き止め、シアノを窺う。おかしい、立ちあがる様子がない。見れば割れ目から染み出る闇に絡め取られている。助け出そうと、、
「来るなッ! 足を持っていかれた。もう、間に合わぬ。行け。出来れば、かわりにお前が首領を…」
「駄目だ、来いシアノ」
伸ばした手は届かない。
黙って首を横に振るシアノ。虚無は既に彼女の下半身にまで手をまわしている。
ダンジョンはそれを形成していた亜空間の崩壊に包みこまれ、収縮してゆく。目の前の筈のシアノが、遠く歪んで小さくなってゆく。
シアノの悲鳴がこだまする。どんなに耳を塞いでも、消えてはくれない。
ーなんだこれは。身体が、身体がこんな。痛い。嫌だ、死にたくない。ああ首領、助けてくれ、だれか!
祠を中心に、地面が広範囲に陥没した。
エルゴが目を覚まして不思議そうな顔をしている。
「お兄ちゃん…」
降り注ぐ外の日光は眩しすぎて、涙が滲んで、止まらなかった。
つづく