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抱擁

作者:

 肌寒い季節に差し掛かかった十月、窓越しに見える灰色の空が冷ややかな印象を与えてくる。

 家の中は今時の暖房機器がせっせと空気を入れ替えながら暖め続けてくれる。昔ながらの石油ストーブを足元に、みかんや餅を焼きながら、家族と談笑できれば、と、我ながらつまらぬ空想を抱いた。

 妻が他界して、かれこれ十二年が経つというのに。

 今は――猫と共に、余生を過ごす毎日だ。椅子に座って揺らぐ。膝元でうたたねをしている猫を撫でながら。

 ふと、初めて孫の顔を見た時のことを思い出していた。

 寝台ですやすやと眠っていた孫の様子を娘に伝えると、当時の妻のように娘は微笑んだ。妻と一緒に娘をねぎらい、妻と一緒に孫をあやした。娘の前で私が孫を抱いた時、娘はそわそわとしていたものだ。落としてしまわないだろうか、と、そんな事を考えていたのだろう。


 我に返った時、猫の背を撫でていた私は、椅子を揺らしながら小さく息を吐いた。


 娘が小さい頃、とても可愛くて仕方がなかった。それこそ妻を放り出して、仕事から帰ると娘につきっきりだった気がする。泣き喚く小さな娘を抱きかかえてゆったりと揺らしながら、目元に隈を浮かばせていた妻を差し置き、娘をしきりにあやしたものだ。

 そんな娘も、大学で知り合った男と一緒になって、孫の顔を見せてくれた。

 確かその孫が高校に入学した頃合に、娘の家に出向いてからというもの、かれこれ七年、家族とは誰とも会っていない気がする。


 そんな私の元へ、孫娘が遊びに来るという。

 妻の遺影を横目に、私はそれを報告しながら、もう夢にすら見なくなった家族の姿を思い浮かべた。


 縁側の戸窓越しに空を眺めると、濁った曇り空が鬱屈とした風景画のように思えて仕方がなかった。

 家の中は今も暖房機器がせっせと空気を入れ替えながら暖め続けてくれている。昔は石油ストーブを足元に、みかんや餅を焼きながら、家族と過ごしていたな、と、我ながらつまらぬ回想を浮かべていた時、ようやく玄関扉を開ける音が聞こえた。


 膝元でうたたねを続ける猫を撫でながら、耳を澄ますと軽やかな足音が近づいて来た。


 トタトタ、と、まるで小さな子供が廊下を走っているような、懐かしい音が一つ。そして妻にも娘にも思える透き通った声が木霊した途端、私の膝元でおとなしくしていた猫が、そこから一目散に逃げ出した。


 居間の扉が開き、孫娘と小さな女の子が顔を出した。

 女の子は赤であつらえた服装に手袋をつけ、色白の素顔にも頬は色良く赤みがかかっていた。

 扉が開いた途端、女の子はとてとてと私の元へと歩み寄り、そのまま私の足にしがみついてきた。


 ――良く来たな。


 孫娘にそう言って、小さな女の子を膝元へ抱える。どうやらひ孫らしい。ひ孫は小さくはしゃぎ、私の腕から肩へとよじ登ってきた。落ちてしまわないようにそっと支えたが、ひ孫は痛いほど私の顔に抱きついていた。


「やんちゃでごめんなさい。女の子なのに高いところが好きなの」


 ――おまえもこうだった。そっくりだな。


「えー、そんなにやんちゃじゃなかったよ」


 幼い印象のままに母親になっていた孫娘は、私にしがみついていたひ孫を引き剥がそうとしたようだが、ひ孫は力強くしがみついて離れなかった。


 ――このままでいい、と言って、私のような老人に抱きついてくれるひ孫に、ただただ愛着が湧きあがった。

 ふと、こそりと足元に戻って来た猫にひ孫が気づいたようで、その小さな両手は届かない猫へと向けられた。ひ孫をそっと膝元へ下ろし、手で膝を叩くと猫がいつものように膝上へと飛び乗る。


 ひ孫は一瞬、動きを止めた。


 だが、すぐにぺたぺたと猫の頭を叩くように触り、唸る猫にも用心する気配を見せぬまま、猫に抱きついていた。猫は小さな唸り声をあげていたが、私が背を撫でているからか、ひ孫に根負けしたのか、観念してくれたようだ。


 ――いくつだ。


「二歳。大きいでしょ」


 頷きながら、左手でひ孫を支えるように頭を撫でる。

 ひ孫は、ねこ、ねこ、と言いながら、猫の毛並みを堪能していた。


「お爺ちゃん、台所借りるね」


 私はただ小さく頷き、猫とひ孫の仕草を飽くことなく眺めていた。

 予想できないひ孫の動きに翻弄され、あっという間に時間が過ぎ去ってゆく。

 ふと、居間に連なる台所からかぐわしい匂いが漂った時、思わずその香りに視線を奪われた。


「お爺ちゃん、ご飯できたからたべよ」


 テーブルにシチューの香りが漂う鍋を置いた孫娘が、笑顔で私を呼んだ。

 テーブルの上をざっと眺めると、レタスが盛り付けてある大皿と、漬物に味噌汁も用意されていた。きっとその味は、懐かしいものだろう。

 ひ孫を抱えながらテーブルにつき、孫娘へ首を傾げて見せる。


「……お爺ちゃん、お母さんたちと一緒に、住んでみない?」


 そっと首を振り、――この歳になって迷惑を掛けたくはない、と正直に伝える。孫娘は首を振った。


「あのね、もうすぐ二人目が生まれるの。半年先なんだけど。それでお母さんの家にお世話になることにしたんだけど、お母さんもお父さんも仕事があって、この子をずっと見てられないって。どうしようかって話してたら、お爺ちゃんに頼んでみようってことになったんだけど……断られると困るなぁ」


 孫娘はそう語ってから私の元へ歩み寄り、ひ孫をそっと抱き寄せた。そして悪戯っぽく笑い、どうする? とでも言わんばかりに首を傾げた。

 少し頭を悩ませていると、孫娘は私の膝元に座ってきた。

 高校入学のお祝いに図書券をプレゼントした時も、孫娘はこうして私の膝元に座ってきた。

 あの時はパソコンが欲しいと強請ってくれた。何が欲しいのか判らずあの時は図書券をプレゼントしたが、その後でこうして膝に座り込み、孫娘は本当に欲しい物を教えてくれたのだ。

 何かをしたい。何かをしてあげたい。そう思ってはみても、自分には何が出来るのかが判らない。そして今、孫娘はこうしてひ孫を連れ、もう一人ひ孫を見せてくれるという。


 ――わかった。


「来てくれる?」


 その声に頷くと、孫娘はたちまち破顔した。孫娘はひ孫を私の膝元に預け、テーブルについた。


「お父さんったら、四十代でお爺ちゃんとかふざけるな、とか言うんだよ。叱ってあげてね」


 言いながら、屈託なく笑う孫娘。

 世間から離れ、ただひたに想い出に縋る日常だけが、私が生き続ける目的だった気がする。

 小さなひ孫を抱いているつもりだったが、猫を抱いて過ごしているつもりだったが――抱擁されていたのは、どうやら私自身だったようだ。


 ――あれの家は、猫も飼えたか。


 小さな不安が消えては積もる。それはまるで、雪のように。


「お母さんのとこも猫いるよぉ。うちの猫は旦那が可愛そうだから置いとくけど」


 ――そうか。


 季節は秋。

 古ぼけた写真のような霞がかった風景には、いつの間にか、美しい青空が広がっていた。


(了)


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